五
葬式場に居た誰もの空気が止まった。
ただ、カノジョの声が響くばかりで、急激に部屋の温度が下がる。
異様な光景だった。
『そんな狭い所で何寝ているのよ』
『明日は大学で必要な物を買わないといけないのだから、早く起きなさい』
『私の声が聞こえないの?』
『分かったわ。私をからかっているのね。いつもみたいに』
カノジョは膝を折って、届かんばかりにその顔を兄の顔へと近づけた。
『これだけ近ければ聞こえるわね』
『狸寝入りはもう止めなさい』
『……これ以上黙っている気ならキスするわよ』
数瞬の間を持って、彼女は兄の唇と自分の唇を重ねた。
童話ならこれで兄の瞳が開きそうな物だが、そんな事は起きる筈が無い。兄は毒リンゴで死んだ訳では無いのだ。
『……あら? 今日は強情ね。いつもならこれで飛び起きそうな物だけれど』
『良いわ。そういう事なら持久戦ね。あなたが起きるまで何度でもキスをしてあげるわ』
カノジョがまた兄の唇にキスをしようとした所で、ハッと私はカノジョへと走りよりその肩を抑えた。
これ以上は私が見ていられなかった。
肩へと触れられてカノジョの体がピタリと止まった。
カノジョは緩慢に私へと眼を向けて、一瞬眼を見開いて、
――――飛鳥?
そう小さく呟いた。
聞こえたのは私だけであろう。
『え?』
私が動いた事で場の空気が再び動き出し、悠太郎さんと玲子さんがカノジョへと駆け寄った。
『風香。止めなさい。飛鳥君はもう死んでしまったんだよ』
カノジョは悠太郎さんの言葉に首を振った。
『何を言っているの、お父さん? 飛鳥が死ぬはずが無いわ。ただ私をからかおうとしているだけよ。こんな大掛かりなセットまで作って失礼してしまうわ』
悠太郎さんと玲子さん、そして私を初めとするこの会場に居る誰もが絶句した。
カノジョの言葉の色に嘘が無かったからだ。
カノジョは本心からそう発言したのだ。
『違うわ、風香。これはジョークでも何でも無い。飛鳥君は死んだのよ。あなたもその目で見たでしょう?』
玲子さんの言葉もカノジョには届かない。
『いいえ。見ていないわ。そうよ。飛鳥は死なないわ。約束してくれたもの。何があっても私を一人にはしないって。飛鳥は絶対に約束を破らないわ』
『いい加減に現実を見なさい。飛鳥君は死――』
『死んでないっ!』
カノジョが叫んだ。それはまるでヒステリーを起こした女優の様でもあり、夫を失った雪女の慟哭の様でもあった。
『飛鳥は絶対に生きているっ、絶対に絶対に飛鳥は起きるわ! 私を一人にしない! 四月から一緒にY大に通うのよ! 飛鳥は、……飛鳥は――』
そこまで言って唐突にカノジョは膝から崩れ落ちて気を失った。
『…………』
葬式情に居る誰もが口を開けなかった。皆氷付けにされたように口を閉じ、沈痛な面持ちで顔を伏せていた。
『……申し訳ございません』
悠太郎さんと玲子さんが私達に頭を下げて、カノジョを抱えて葬式場から出て行った。
それから葬式は滞りなく進み、兄の体は火葬され、私が簡単に抱えられるほどのサイズの骨壷へと入れられた。
父も母もつぐみも誰もが泣き腫らし、この骨壷を抱えられるとは思わなかったので、兄は私が抱える事と成った。
生前の重さの何分の一なのだろう? 腕に掛かる重さにぼんやりとそう思いながら、私達は立花家へ帰宅し、兄をつい先日まで共に囲んでいた食卓へと置いた。
『飛鳥ぁ』
母の涙腺が再び決壊し、その場で泣き崩れ、父が母の方を抱いてまた泣き出した。
『……』
つぐみの涙はどうやら枯れた様で、我が妹は何の感情も移していない瞳で、食卓へと置かれた骨壷を見ている。
どうやら、私が泣けるのはまだまだ先の事に成りそうであった。
大きく息を吸って私は食卓とセットの椅子に座り、ゆっくりと長く息を吐いた。
脳裏には葬式場でのカノジョの姿が過ぎっていた。