みつばちは、はにかむ
お盆もすぎたころ、麦人から電話があった。
『隣町の“ひまわりフェスティバル”に行ってみないか』
「それ、なあに?」
『町の復興プロジェクトの一環で、休耕地をひまわりで一杯にするイベントなんだ。ちょっと下見してきたんだけど、なかなかよかったぜ。タダだし、柵もなくて入り放題。みつばちもいる』
「ほんと?」
『ただ結構客が多くて混んでるんだ。行くなら、朝早いうちのほうがいい。今なら朝早くても気温20度は越えてるから、たぶんみつばちも活動してる。弁当作るのは大変だと思うけど、人がいない方がゆっくり撮影できるだろ』
「うん、行く、行く!」
ふたつ返事で予定は決まり、明朝、大学で落ち合うことになった。
時間励行はふたりの基本。待ち合わせの5時半、枸杞と麦人はほぼ同時に大学の正門前に到着した。
「おはようございまーす!」
「枸杞、おはよ。早いのに悪いな」
麦人の視線は、枸杞の自転車の荷台にくくりつけられた荷物に注がれていた。保冷剤でがっちりガードされた弁当箱が入っている。
「なんのなんの。麦人くんこそ、つきあってくれてありがとう。うちは兄貴の仕事柄、朝早いのは平気だよ」
にっと笑って親指を立てる。本音を言えば、早く会いたくて待ちきれなかった。そんな下心も知らず、麦人は枸杞を労うように、うんうん、と頷く。
「じゃ、行きますか」
ふたりはさっそく自転車をスタートさせた。
初めは涼しかったが、徐々に夏の太陽が本領を発揮し始めた。じわじわと気温が上がり、蝉の声も聞こえ出す。ひまわりフェスティバルの会場までは40分ほどらしいが、途中に川があるため、地形のアップダウンが激しく、自転車にはかなり酷な道のりだ。しかも最後が1番長い昇り坂ときている。
「うん、しょぉっ」
ほとんど立ち漕ぎ状態になって重いペダルを踏みつけた。麦人に離されないよう、必死でチェックのシャツの背中を追いかけた。汗が目に入って痛い。太股もふくらはぎも悲鳴を上げ始めたとき、
「枸杞! 看板が見える。もうすぐだぞ」
麦人が振り返り、大きな声で励ました。
「ほんと?」
最後の力を振り絞ってペダルを漕いだ。坂をもう少しで上りきるというところで、目の端に明るい色が飛び込んでくる。ようやく坂のてっぺんまで来て自転車を止めると。
「わあ!」
——そこは見渡す限り、ひまわりの黄色、黄色、黄色。
なだらかな勾配に作られた畑は、まるで高いところから黄色い布地を落として、ぱあっと広げたよう。
逸る気持ちを抑え切れず、慌てて自転車のスタンドを立てると、枸杞はカメラを持って飛び出した。
「こんなにいっぱいのひまわり、初めて見た!」
転がるように畑の勾配を下る。まだ6時過ぎとあって、辺りにはほとんど人影がなかった。様々な種類のひまわりが植えられ、品種の名前のプレートがつけられている。
堂々と開く八重ひまわり、軽やかな色のレモンエクレア、もしゃもしゃと短い花弁のテディベア。褐色がかったテラコッタやインディアンブランケット。ゴッホのひまわりという品種は、少し縮れた花弁が羽のように広がり、まさしくあの絵画のイメージだ。
きょろきょろしながら進んだ先には、背の高いひまわりで作られた大きな迷路があった。
「すごーい! ほんとに向こうが見えない。ちゃんとした迷路になってる! おーい、麦人くーん! 見えるー?」
ぴょんぴょんと飛んで手を振る。麦人が笑いながらたしなめた。
「枸杞がみつばちになってどうする。遊んでないでちゃんと蜂を探せよ」
「だって!」
これだけの明るい花の中にいれば、蜂でなくとも高揚するというものだ。枸杞は嬉々として歩き回りながら、黄色の花の間に目を凝らす。
「枸杞……いたぜ、みつばち」
やはり先に見つけたのは麦人だった。
手招きした方へ駆け寄ると、小さな羽音と共にみつばちが飛んでいるのが目に入る。枸杞は興奮を抑えながらカメラを構えた。背の高い麦人が花を指差しながら説明する。
「ひまわりの真ん中の茶色いとこ、見てみ。管状花っていう小さな花の集まりで、外側から中央にむかってだんだんに咲いていくんだ。ほら、ここ、茶色い中に黄色い粒々が、ドーナツ状にぐるっと付いてるだろ。開花して、おしべの花粉が見えてるわけだ。蜂はあの花粉を狙って留まるよ」
麦人の言う場所にレンズを向けても、花が風に揺れてなかなか焦点が合わない。いかんせん小柄な枸杞よりひまわりの丈のほうが高いのだ。そのそばで、麦人が折りたたみの脚立をかたんかたんと組み立てている。
「ああっ、ずるい、そんなの持ってきて! 背が高いのに!」
「ずるいって。用意がいい、って言えよ」
麦人は苦笑しながら脚立を登る。一番上の段に腰を下ろしてカメラを構えた。
「蜂、いる?」
「いるよ。足に花粉一杯つけて。かわいいぞ?」
「やーん、見せて、見せて! 脚立替わってよう!」
枸杞は脚立の周りをうろうろする。
「ふふーん、俺のだもん。今しばらくお待ちください。枸杞はまだだーめ」
麦人が追い払うようにしっしっと大きく手を振りかざした、そのとき。
「うわっ」
彼の身体がバランスを崩してぐらり、と揺れる。カメラを庇おうとする麦人と一緒に、脚立が枸杞の方に傾いた。
「枸杞! どけ!」
「麦人くんっ!」
彼の眼鏡が宙を舞う。
——どさっ。
重い音がして、地面が震えた。
麦人の身体は、カメラを持ったまま仰向けで土の上に投げ出されていた。慌てて覆い被さるように顔を覗き込む。
高い鼻梁には一条の擦り傷が走り、うっすら血が滲んでいた。眼鏡の跡がついた鼻根から目蓋にかけて深い皺が刻まれ、唇も苦痛に歪んでいる。
「麦人くん?」
声をかけるが、彼は微動だにしない。
(どうしよう! どこを打った? 頭? 首?)
救命救急の心得などないが、漠然と、頭を動かしたり揺さ振ってはいけない、と思った。彼の胸をばしばしと叩く。
「麦人くん! 聞こえるっ?!」
胸は呼吸で上下している。
生きている。
なのに、返事がない。
父のときも、そうだった。
息をしている、と安心して喜んだのもつかの間、救急車で病院に運ばれて。
その日の、うちに。
「麦人くんてばーっ!!」
電気ショックのように両手を同時に、ばん、ばん! と力任せに叩き付けると。
「……ってえ」
くぐもった声がした。
「麦人くん! わかるっ?! どこが痛むの? ねえっ!」
枸杞が慌てて顔を覗き込むと、彼は目を閉じたまま、ふうー、と大きな息をついた。
「……っていうか、叩かれたとこが痛えよ。ちっちぇえくせに、枸杞の馬鹿力」
ゆっくり目が開いたかと思うと、大丈夫、というように微笑んでカメラを上げた。もう一方の手は、ぱたぱたと地面を触りながら周囲をさまよっている。
「俺の眼鏡、どこ?」
「……!」
ぽつ、ぽつ、と落ちてくる涙は、あっという間に本降りになった。わああっ、と声を上げながら、横たわったままの麦人の胸に縋り付く。
「よ、かった……っ! ごめん、な、さい……私がっ、脚立に、上がろうと、したから! 」
枸杞の動揺ぶりに、麦人は目をぱちくりさせた。
「おいおい、何だよ。ふざけて挑発したのは俺だ。枸杞は悪くないって。脇腹を脚立の角で打って。一瞬痛みで声が出せなかったんだ。驚かしてごめんな。そのあとも枸杞があんまり騒ぐから、起きるのが気まずくてさ」
麦人はしがみついた枸杞ごとゆっくり上体を起こした。まだ痛みがあるのか、くっと顔をしかめたあと、にっこり笑ってみせる。
「あんなんでバランス崩して落っこちるとか、かっこわる過ぎ。ほら、今は何ともないから、心配す」
「うちのお父さんは、梯子から落ちて、死んだのっ!」
枸杞は泣きじゃくりながら、彼のシャツを掴んだ。
「救急車に乗って、そのまま意識がなくなって! また、あんなことになるかと思ったら、もう……っ!」
あとはしゃくりあげて言葉にならなかった。麦人は眉間に皺を寄せて唇を噛む。
「すまない、枸杞。悪かった」
麦人のせいではない。言葉のかわりに懸命に首を振るが、涙はとまらない。
「枸杞」
なだめるように背中をゆっくりと擦られた。
その手が大きくて、あたたかくて。
枸杞は思わず頬を彼の胸に預けた。細身のくせに意外としっかりとした胸からは、飾り気なんて何もない、彼自身の肌の香りがした。
「枸杞……もう、泣くなよ」
耳から聞こえる声が、頬をつけている胸からも伝わって響く。ぞくっと身体の芯が震えた。
(この体勢、まずい)
動転していたとはいえ、自分から抱きつくなんて、大胆すぎた。
慌てて身を離した勢いで、地面に手がつき、指先に硬いものが触れる。麦人の眼鏡だ。
「これ」
「おう、サンキュ」
カメラを脇に置き、渡された眼鏡をかけると、麦人はやっと人心地ついたような顔をした。
「ようやく、枸杞の顔を拝めた」
涙でぐしゃぐしゃの顔を覗き込まれて、何とも気恥ずかしい。
「見なくていいってば」
視線を避けるように俯いて、ハンカチを目にぎゅっと押しつける。
「こら、枸杞」
顔を上げずにいると、じり、と彼がにじりよる気配がした。
「くーこ」
声が、近い。
ちらり、と目を上げると、驚くほど近くに麦人の顔がある。いつの間にか枸杞の身体は、ジーンズに包まれた彼の足の間にすっぽりと入っていた。
「……枸杞」
——甘い。
その声も、眼差しも、とびきり甘い蜂蜜みたい。
混乱した。
初対面から呼び捨てで、ハニーウォークだって一切手加減なし。女の子扱いなんて、ほとんどしてくれない。
——なのに今日に限って、どうしてそんなに甘く笑うの。
「……『枸杞、枸杞』呼ばないでよ」
わざとそっけなくしたのに、麦人の匂い立つような表情は変わらない。
「どうして。いい名前じゃないか」
「よくないよ。“枸杞”なんて貧相で全然ぱっとしない。9月に咲く花なんて、ほかにいくらでもいいのがあるのに」
麦人は微笑んで首を振る。
「枸杞はいい木だよ。紫色の花も、きれいな赤い実も、俺は、好きだけどな」
(植物の枸杞のことだ、自分のことじゃない)
一生懸命そう言い聞かせる。
「つい呼びたくなるんだ。枸杞、って」
――やだ。
もう、やだ。どうしよう。
これ以上何か言われたら、どうにかなっちゃう!
「大好きな君の、名前、だから」
――えっ?
聞き返すように顔を上げると、彼の切れ長の目はしっかりと枸杞を捕らえていた。
「好きだよ、枸杞」
麦人の視線はあまりにまっすぐで熱い。
その熱に耐え切れず逃げ出そうとしたとき、そのまま腕をとられて引きつけられた。反射的に身を引くと、彼の手がしっかりと枸杞の背を押さえ込む。瞳を覗き込むように麦人の顔が迫った。
ひまわりの黄色い迷路で、ふたりきり。
むせ返るような草熱れ。
遠くから聞こえる蝉の声も、みつばちの羽音も、
その瞬間、全て途切れて。
唇が、
重なった。
いつも無遠慮な麦人なのに、その口づけは信じられないほど優しく、枸杞の気持ちを測るように、そっと。
その切なさに、枸杞は彼のシャツの胸のあたりをきゅっと握りしめた。
「枸杞」
少し唇を離して愛しげに名前を呼ぶと、また口づけに戻る。
枸杞から甘い蜜を吸う、みつばちのように。
何度も、何度も。
唇の感覚がわからなくなって、頭がくらくらして倒れ込みそうになったころ、ようやく彼の唇は離れて、身体をぎゅうっと抱きしめられた。
「枸杞」
あんまり好きになれなかった自分の名前。
それが彼の声に乗せれば、こんなにも心震わせる響き。
「ずっと、好きだったんだ、ほんとだぜ?」
切々と訴える彼の声が骨を伝って響く。たまらなくなって枸杞も応える。
「私の方が大好きだよ……たぶん、初めてあったときから」
その言葉を聞いて、麦人は眼鏡の奥の目を瞬かせた。
「えっ、あの、ホトケノザの日?」
「うん。じゃなきゃ、きっと、初対面でお箸の間接キス、許したりしない」
「……そっか」
麦人は両手で枸杞の顔を挟んで、こつん、と額をつける。
そんな仕草のひとつひとつに、途方もない喜びが溢れて。
――ああ、好き、好き。
こんなに好きになった人が、私のことを好きだ、って言ってくれた。
信じられない。
幸せを噛みしめながらも、枸杞にはひとつ気になることがあった。
「麦人くん、訊いても、いい?」
「ん?」
「初めて会ったとき、私の名前、知ってるみたいだったでしょ。あれ、何だったの?」
「……ああ」
彼はそっと身体を離した。
「ちょっと待ってて」
鞄からレポート用紙とシャープペンシルを取り出して何かを書き始めた。
「必須元素って覚えてる?」
「へ?」
唐突な問いに面食らう。
「必須元素って……炭素とか水素とかの、あれ?」
「うん。よく語呂合わせで覚えるだろ。うちの生物のおじいちゃん先生が作ったのがなかなか良くてさ。ま、無理矢理感は拭えないんだけど」
そう言ってすらすらと記していく。
C,H,O,N,Mg,Ca,K,Na,
チョンと置いたマグカップかな。
P,S, Fe,Cl,
P.S.愛(鉄=アイアン)クルしい。
Se,Mn,F,Zn,
セマい階(F)では“会えん(亜鉛)”が
V,Cr, Mo,Al,
“バナ”ナ、“クロ”ワッサン “も”“ある”。
Cu,Co,As,Ni,I,B,Si
枸杞をヒソ(ヒ素)かにアイすベシ。
――枸杞を、密かに愛すべし?
「高1のとき、この語呂合わせで初めて、枸杞って植物を知った。赤くて、滋養たっぷりの実なんだと」
麦人は語呂合わせを鉛筆でなぞりながら、にっこりと枸杞に微笑んだ。
「その生物の先生、年のわりにはお洒落で粋な爺さまだったんだけど、ものすごい『枸杞信者』でね。元気の秘訣は枸杞だって、自分で育てて食べてたらしいんだ。男性には精力倍増、抜け毛にも効くって。それで『密かに愛すべし』」
「ええっ、そこ?」
確かに枸杞もどこかで訊いたことがある。枸杞の実は男性信者が多いらしいと。
「後になって、枸杞が杏仁豆腐にのってるあの赤い実だ、って知ったときは興奮したね。だからこの語呂合わせはずっと忘れなかった。産地のことも、枸杞のはちみつも、そのとき調べたんだ。ちょうどそのころ産地の寧夏で第1回の枸杞祭りが開かれて。山盛りの枸杞で真っ赤になった会場の写真をウェブで見たよ」
自分の名前が好きになれなかった高校時代。
そんな時期、まだ出会っていなかった麦人が、枸杞のことを調べて胸躍らせていたなんて。
「初めて名簿で君の名前を見たときは、そりゃあもう、どきっとした。うわー、枸杞だ、って。会って顔を拝みたかったけど、学部も違うし接点がなくて。初めて会った“ホトケノザ”のときは本当に偶然。君とは知らないで声をかけた」
麦人はシャープペンシルを置いて枸杞の手を握った。
「君が枸杞だって知って、何年も頭の中にあった語呂合わせが現実に降りてきたみたいだった。『枸杞を密かに愛すべし』って言葉が、パズルみたいにぴたっと嵌って」
「語呂合わせで刷り込まれてただけじゃないの?」
「いいや」
麦人はきっぱりと否定する。
「もちろんはじめは、枸杞って名前からだったけど。料理はうまいし、素直だし。言われたとおりきちんと弁当持って、俺の無謀な計画に、にこにこしながらついてくる。勇ましくて、根性があって、義理堅くて、かわいくて……どんどん君に夢中になった」
もう、泣きそう。枸杞は麦人の手をぎゅっと握り返した。
「全然そんなふうに見えなかったよ。私ばっかり好きになってくみたいで」
「そりゃあ、もう」
そこで麦人は、にやり、と口の端を上げた。
「『密かに』愛してたからね」
ぼっ、と枸杞の頬が赤くなる。
「でももう、隠せない」
彼の言うとおり、見つめてくる視線はどう見ても甘くて。両手で枸杞の頬を包み込むと、また口づけが落ちてくる。
誰もいないふたりだけの迷路に、みつばちの羽音が響く。
麦人はそっと唇を離すと、はにかむように微笑んだ。
FIN.
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
*元素記号の語呂合わせは、この作品のために工房が考えたものです。
生存に必要な順番にはなっておりませんので、ご了承くださいませ。