ハニーウォーク
枸杞のいる食物栄養学科は、学祭をさぼる先輩達がいたせいで、全員参加が義務づけられている。出店やポスター展示など参加形態は問わないが、必ず何かしら専門の食物栄養に絡めなければならない。
「せっかくだから、ポスターとかお堅いのよりは、お店の方が楽しいよ。儲かるし」
「みんなでコスチューム揃えない?」
「やっぱ、メイドかな。でなきゃ猫耳としっぽ、ツインテールにニーハイとか」
「あんた、どんな客層ねらってんの? 発想がオッサン目線なんだけど」
「いや、こないだ、友達が彼氏とアキバでさー」
枸杞のグループは8人。女子が8人ともなれば無駄話も多く、なかなか具体的な話が進まない。気が短い枸杞はいらいらした。庭の水まきや夕餉の支度の時間も迫っている。
(うーん、何かないかな)
ない知恵を絞っているうち、ふと麦人のことが思い浮かんだ。
(彼なら、すぐにテーマを決めて突っ走るんだろうな)
臆せずどんな場所へも突き進む、冒険家のような彼。その一方で、はちみつの瓶を握らせてくれた手はやさしかった。“利きはちみつ”の瓶は兄たちに取られないよう、こっそり秘密の場所に保管している。
(花によってあんなに味が違うなんて、意外だったなあ。はちみつコレクション、いったい何種類あるんだろ。童話の熊さんみたいに、麦人くんの家ん中、はちみつ壺だらけだったりして)
黄色い熊の格好をした麦人を想像したところで、ひらめいた。
「あ! ねえねえ、“はちみつカフェ”ってどうかな?」
枸杞の声にみんなのお喋りが止まった。
「はちみつカフェ?」
「うん。はちみつの効能とか成分を調べて、はちみつを使ったお菓子や料理を出すの。パンケーキに4つくらい違う種類の蜜をセットにして付けて、利きはちみつセットとか」
「かわいいかも! 枸杞、ナイス!」
「面白そう!」
残りの7人は俄に活気づき、とんとん拍子に“はちみつカフェ”の概要が決まっていく。当然の結果として枸杞が“はちみつカフェ”のリーダーに就任したのだった。
「で、俺に何をしろと?」
枸杞は翌日のランチタイムに瑞穂抜きで麦人を呼び出し、ことの次第を説明した。今日はちゃんと麦人の分のお弁当も用意してきた。無論メニューは彼の大好きな“三色そぼろ弁当・肉卵多め”だ。
「いろんな花のはちみつがあるって話をしたら、蜜がとれる植物のことも調べないと、ってことになって」
「ふんふん」
相槌を打つあいだにも、どんどん麦人の箸は進む。見事な食べっぷりだ。
「私たちだけじゃ、どこから手をつけたらいいかわかんなくて。ここはぜひ、麦人くんにアドバイスをいただきたいと」
「ほほう、そうきましたか」
麦人はご馳走さん、と言いながら空になった弁当箱を枸杞に返し、自分の鞄からレポート用紙とシャープペンシルを出した。一心不乱に食べていたと思いきや、きちんと話を聞いて考えていたらしい。
「そうだなあ。蜂が蜜を採る植物を蜜源植物っていうんだけど、俺なら、実際に蜂がその花に留まってる写真を展示するかな。せっかく田舎の大学で周辺の植物は豊富だし、そのほうが説得力あるじゃん。最近では“ハニーウォーク”なんていって蜜源植物探しを企画してる団体もあるんだ」
麦人はペットボトルのお茶をごくり、と飲んでから、うーん、と唸った。
「とりあえず花の時期を書き出してみるか」
彼はレポート用紙に表のようなものを書き出した。
「まず5月は、と。トチ、クローバー、クロガネモチ……」
さすが麦人、6月、7月と蜜源植物の開花時期がびっしりと書き込まれていく。
「花の時期はあっという間だし、天候にも左右される。チャンスは逃さずどんどん写真撮っていかないと。確実なのは、みつばちでポリネーションやってる農家に行くことかな。今の時期からだと、ブルーベリー、梨、スイカあたり? スイカ農家ならこの辺は多いし、知ってる農家さんもいるから、紹介しようか」
「えっと、ポリなんとかって?」
「ああ、ポリネーション、花粉交配のこと。みつばちは蜜や花粉を集めながら、おしべの花粉をめしべにくっつけて実を結ぶのを助けてるだろ。最近はみつばちが減って十分な交配が望めないんで、花の時期に蜂の巣箱を養蜂家からレンタルする農家もあるんだ。苺や、桃、メロン、梅干しの梅や、ナス、カボチャなんかもそうだよ」
「へえっ」
「季節季節でいろんな花をみつばちで追いかける。養蜂家ってのも大変だけど、ロマンティックな仕事だよな」
蜂が、ロマンティック。麦人の物言いに、こっちが照れくさくなる。
(花を追いかけるロマンティストは、麦人くん本人じゃない)
彼は赤くなっている枸杞に気付かず、ポリネーションしている作物をノートへ書き付けていく。
「俺の知ってる農家のハウスは田んぼの近くなんだ。7月後半になると航空防除があるから、スイカのハウスにいくなら、早いうちのほうがいいな」
「コウクウボウジョ?」
「ヘリで稲にカメムシとかウンカの駆除剤を撒く、農薬散布だよ。みつばちは農薬に弱いから、その前後は、農家の人がハウス開けてくれないかも知れない」
「なるほど」
そういえば小さいころから、農薬散布の日は外に出るなと言われていたことを今さらながら思いだした。
地元で育った枸杞より農家事情に詳しい彼に舌を巻く。
「それから暑くなると、みつばちは動きが活発になってくるから、くれぐれも刺されないように気をつけろよ。あ、ごめん、うちが造園やってんだっけ。蜂対策くらいは知ってるよな」
「えっと、いえ。恥ずかしながら、わかりません」
枸杞がやっているのは兄の弁当作りくらいで、造園の仕事にはほとんどタッチしていない。
『いずれ嫁に行くんだから、当てにすると後が困る。お前は好きなことをやればいい』
庭師の長兄は末っ子の将来を案じ、あまり家業を手伝わせてくれないのだ。
「そっか。じゃ教えとくけど、みつばちは香料に反応するんで、匂いの強い化粧や整髪料はだめなんだ。万一スズメバチに遭遇すると、奴らは黒い服を熊と勘違いして攻撃するから、服装は白っぽいもので。山に入るときは、これからの時期ダニなんかもいるから、暑くても長袖・長ズボン、軍手は必須。自転車は持ってるな?」
枸杞はどんどん本格的になる話に不安を隠しきれない。
(山の中で迷子になったり、蜂に刺されたらどうしよう。植物の見分けもつくんだろうか)
グループの面子は皆都会っ子で、一緒に山に入ってくれるとは思えない。仲のよい瑞穂は、虫が大の苦手だからさらに難しい。
(相談したのはいいけど、もしかしてこれ全部、私ひとりで?)
押し黙った枸杞に気づいて、麦人が手を止めた。
「……と。ま、そうだよな。いくら枸杞でもちょっと無理があるか」
しばらく考えていたようだったが、彼は覚悟を決めたように枸杞に目を合わせた。
「もしよければ、だけど。俺の植物採集に付き合いがてら、一緒に蜜源植物の写真、撮りに行く? ただし、俺ひとりで女子何人も、ってのは、正直責任持てないんで、枸杞ひとりくらいなら」
「えっ、いいの?」
確かに彼のように詳しい人がいれば、鬼に金棒だ。
麦人は大きく頷いた。
「俺はかまわない。ただし道は険しい上に、虫や蛇はいるわ、陽には焼けるわで、女には結構きついぞ。所詮は花と蜂のご機嫌次第だから、結構無駄足も踏むと思う。いい花見つけたら夏休みも遠慮なく呼び出すぜ?」
「いいよ、大丈夫! 私がリーダーで言い出しっぺだから、責任とってついてく!」
麦人は枸杞の頼もしい返事に満足気に頷いた。
「わかった。じゃあ、早速計画を練ろう」
麦人は説明しながらまたさらさらと文字を綴っていく。
(勉強も趣味も忙しいだろうに、私の気まぐれな思いつきのために、こんなに協力してくれて)
やっぱり、彼は“悪くない”。
容姿もだけど、その心根が。
(知れば知るほどいい男だなあ、麦人くん)
「何?」
視線に気づいて、麦人が顔を上げた。枸杞は恥ずかしさに真っ赤になる。
「あ、いえ、あの、いろいろありがとう。ごめんね、厄介なこと頼んじゃって」
「いや、大丈夫。実は俺も結構楽しんでるから」
その言葉も彼流の気遣いなのだろう。枸杞は申し訳なく思う。
「お返しに私ができることって何かない?」
家族以外の男性に甘え慣れていない枸杞には、ただ頼るだけの立場は心苦しい。そう言われて麦人は考え込むように顎をしごいた。
「そうだなあ……うん、そこまで言うなら、がっつり働いてもらおうか」
「えっ」
嫌な予感。
(もしかして言うべきじゃなかった? しまった、何だろう)
身構える枸杞に麦人はにんまりと笑った。
「……弁当」
「は?」
「基本山ん中に行くから、店とかないし。案内料として休日や夏休みは弁当持参。勿論ふたり分だぜ?」
彼が笑ってぴっと2本の指を立てる。何だかその仕草にどきどきして。
「お安いご用だよ。ふたり分ね」
秘密の暗号みたいに枸杞も2本指を立てて繰り返す。
「じゃあ、交渉成立」
麦人はまた手を差し出した。何かというと握手なのは彼の流儀らしい。枸杞が手を滑り込ませると、きゅっと握られる。
滑らかな指の腹、熱い手のひら。
眼鏡越しの眼差しが、しっかりと枸杞を捕らえた。
——どきん。
麦人の目が喜びに溢れているように見えて、思わず胸が高鳴る。
(勘違いしちゃだめ! どうせ彼の狙いは私じゃなくて、お弁当なんだから!)
そう思って懸命に踏ん張ってみるが、頭の中では高らかに教会の鐘が鳴り響き、浮かれる気持ちを抑えきれない。
——ああ、私、もしかしたら。
「おい、大丈夫か? 今さら、怖じ気づいたとか?」
よほど挙動不審だったのだろう。顔を覗き込まれ、慌ててふるふると首を振る。
「いえいえ、ハニーウォーク上等! 望むところです!」
勇ましく宣言したけれど、赤くなった顔はごまかせたろうか。
「よろしい」
微笑んだ麦人は、握った枸杞の手をぶんぶんと上下に振って離した。
「じゃ、よろしく。また明日な!」
去り際は鮮やかに。
小さくなっていく彼の後ろ姿を見送りながら、枸杞は確信した。
——ああ、好き。好きなんだ。
麦人くんが、好き。
そぼろご飯が好物の、生物オタク。
そこそこ男前のくせに無頓着。
ぶっきらぼうだけど、ときどき、すっごく優しい。
彼とふたりの“ハニーウォーク”が今、始まる。
枸杞はわくわくしながら両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
次の日から、枸杞は休日や休講の合間を縫って、麦人とみつばちを追いかけた。
みつばちは天気が悪いと活動性が低下する。雨が降れば作戦会議と写真整理、晴れるとすぐに外へと飛び出していった。
6月の土曜日、ふたりが朝から訪れたのは件のスイカ農家だった。
「おじゃましまーす」
麦人は自転車を押し、慣れた様子で門を潜る。狭い入り口からは考えられないほど大きな庭が現れた。トラクターや軽トラが停まり、プレハブの倉庫には組み立てた小ぶりの段ボールが枸杞の背の2倍ほどの高さまで積み上げられている。箱のひとつひとつにはスイカの絵が書かれていた。
「あれだけの段ボールに、全部スイカが入るの?」
枸杞の背丈の倍もある段ボールの山を見上げた。
「うん、そっちのハウスは全部こだまスイカだから。ここのこだまスイカは黒こだまっていうブランドスイカで、全国的にもうまいって評判なんだぜ」
長いビニールハウスが3列にもなして並んでいる。
「こだまってことは、小さいスイカなんだ?」
「そう思うだろ? でも、こだまって、小さな玉って意味じゃないんだ。新幹線の『こだま』が開通した当時に作られたから、それにちなんで付けられた名前なんだってさ」
「えーっ、知らなかった」
話しながら歩いて行くと、農協の帽子を被った男性が、首にかけたタオルで顔を拭き拭き現れた。もうひと仕事してきたらしい。麦人は真っ先に頭を下げた。
「今日は無理行ってすみません。話していた食物栄養学科の学生を連れてきました」
「ああ、どうも」
「岡部枸杞です。お世話になります」
「いや、暑いから気いつけてな。たぶん中にいられるのは、10分が関の山だ」
すでにさんさんと日は差している。男性が言うとおり、ビニールハウスに入ったとたん蒸し焼きにされるような熱気に包まれた。細かな汗があっという間に噴き出し、肌がじっとりと湿ってくる。
スイカは艶のある緑の葉を元気に茂らせ、蔓の間に黄色い星々のような花を咲かせていた。
「こっちが雄花で、そっちが雌花。スイカは雄花と雌花が別々の単性花なんだ。だから人や虫がふたつの花を受粉させない限り結実しないわけ。ほら、雌花の下の丸いとこ、子房っていうんだけど、もう小さなスイカになってるだろ」
麦人が持った花の元には、ぷっくらと膨らんだ緑の球があり、小さいながらも、うっすら黒い縞模様が浮かんでいる。
「ほんとだ、ミニスイカだ! かっわいい!」
はしゃぐ枸杞の姿に麦人は笑った。
「人工的に交配させる方法もあるけど、朝開いたスイカの花は夕方にはしぼんじゃうんだよ。午前中数時間のうちに手作業で雄花を雌花にくっつけてかなきゃならない。暑い中これだけの数を屈みながら受粉させるって、大変な作業だろ。蜂はうまく開花のタイミングを見計らってやってくれてるわけ。ありがたいよな」
ハウスには木の巣箱が置いてあり、見ている間にもみつばちが飛び出して、せっせと黄色い花の中へ潜ってゆく。そう長くはハウスにいられない。夢中でシャッターを切った。
「おいしいスイカができるって、本当なら奇跡的なことなんだね」
レンズを覗きながら、枸杞は唸った。
「そうだよ、虫も植物も、人間と同じ。出会いも、引き継がれる生命も、奇跡だらけだ」
カメラから顔を上げると、いきいきと顔を輝かせ蜂の姿を追う麦人が目に入った。
ああ、彼はその奇跡に魅せられて、生命を追いかけているのか。
うっとりと彼の顔を見つめていると、麦人がきょとんとした。
「枸杞、顔、すっごく赤くなってるぞ? 熱中症じゃないよな」
覗き込まれて、その顔の近さにさらに頬は熱くなった。
「わあ、大丈夫! 大丈夫だって!」
慌ててバランスを崩して尻餅をつく。幸いカメラもスイカの花も無事だった。
「……ちっこくて真っ赤。ほんとに枸杞の実みてえ」
麦人は愉快そうに笑いながら手を差し出す。
こっちの気も知らないで。
ハニーウォークは様々な発見があり、やり甲斐はあったが、名前のように甘くはなかった。
天候の崩れや開花予想のずれもあり、そうそうみつばちには出会えない。結局、夏休みまで持ち越すこととなった。麦人はバイトや様々な予定を入れていたが、それでも合間を縫って枸杞を呼び出してくれた。
灼熱の暑さはこたえるが、ここでリタイアすれば新学期まで彼に会えない。枸杞は突然の呼び出しでもせっせと弁当を作って出かけていった。連日の強行軍で顔は真っ黒に日焼けし、ふくらはぎはぱんぱんだ。それでも自転車を漕ぐ彼の背中に遅れをとるまいと食らいついた。ここまでいくと愛というより執念かもしれない。麦人はその根性に舌を巻き、その熱意に応えてさらに珍しいところに枸杞を案内した。