12・兎ぐるむ
「本当に、ずっと忘れていた」
カフェテラス前。日々輔が躊躇いがちに言う。
「両親の事を、ですか」
「というよりも、人間という生物全てに、皆例外無く血の繋がった存在が居た事そのものを忘れていた。親が無きゃ、子供は存在しない事をだよ」
躊躇い、怯え、しかし話したい、弱音を聞いて貰いたい。そんな様子だった。
「俺は施設の玄関口に置き去りにされてたらしい。これが笑っちまうんだけど、買い物カゴに入れられたってよ」
笑うべき所でもないのに、日々輔が本当に可笑しそうに笑った。「俺の揺り篭は、スーパーの買い物カゴだ」と。
遠くから、子供が手を振ってきた。二人で手を振り返す。
「それから二十一年。出来るだけ親の事は考えない様に生きてきた。その内に本当に忘れちまって、忘れたと思ったら、いきなりだ」
「会いたい、とでも言って来たんですか?」
「そう、らしい。施設の方に電話を寄越して、『日々輔の母です』だってさ。いまさらって感じだよなぁ」
「確かに、勝手ですよね」
言ってから、メリーゴーランド前で、日々輔を待つ中年夫婦の姿を思い浮かべる。自ら手放したものに、もう一度手を伸ばす。胸中にあるのは、後悔だろうか、謝罪の念だろうか。どれ程の思いであの場に居るのだろうか。勝手だという事は承知しているのかもしれない、と思った。必死なのだ。
「会うか会わないか、最終的な判断は俺に任せるってさ」
他人事の様に、日々輔は言う。
――会う気はありません。
支配人が呼びに来た時、日々輔はそう言った。あれは、最終的な判断なのだろうか。
「まさか、俺が熊ぐるむをしているとは思ってないだろうな」
「早速使ってますね。ぐるむ」
思えば、日々輔と中年の夫婦は、二度も接近している。
「先輩も、ご両親の顔を知らなかったんですね」
「まぁ、な。でも、メリーゴーランド前で見かけた時、なんとなくピンと来たんだ。確証は無かったけど」
「だから、私に調べさせた」
――『誰かを待っているんですか?』と聞くんだ。
「瑠香坊ならどうする?」
日々輔が、自嘲気味の乾いた笑い声を上げながら、言う。「どうすればいいと思う?」
「私には判りません」
多分、誰にも判りません。と瑠香は付け足す。「だけど」
「だけど?」
「私、先輩の事、好きですから」
自分の口から出た言葉に、瑠香は驚く。何を言っているんだ。と思いながらも、結局の所、自分の胸の内を吐露する。
「例え先輩がどんな決断を下しても、私は傍に居ますよ」
呆気に取られる日々輔を無視して、瑠香は続ける。
「兎と熊は、いつも一緒なんです」
それが答えじゃ駄目ですか? 瑠香は、震える声を必死に絞り出す。
次で最後です。最後までお付き合い頂ければ幸いです。