10・こたえ
二度目の休憩を取る為に、楽屋テントに戻ろうと歩いている途中。メリーゴーランドから気の抜ける音楽が流れてきて、釣られる様に、メリーゴーランドに目を向けた。
最初に目に入ったのは、二時間前と変わらぬ位置を泳いでいる赤い風船だった。音楽に合わせて、ゆらゆら揺れている。
その下には、相変わらずの暗い表情で俯いている中年の夫婦が居る。二時間もの間、あの二人は何をしているのだろうか。
二時間前よりも更に疲弊していて、今にも泣き出しそうな表情が見えた。それでも、グっと歯を食いしばり、試練に耐えるかの様に、拳を握っているのも見えた。
辺りを流れる陽気な音楽は、気の利いた皮肉にも聞こえたし、中年の夫婦を慰めている様にも聞こえたし、とどのつまり、ただの音楽にも聞こえる。
楽屋テントに戻ると、そこには大勢の人が居た。楽屋テントは普段、日々輔と二人で独占状態なので、不法に占拠されたというか、住居に侵入されたというか、とにかく縄張りを荒らされた気分になる。
「これはなんの集まりですか?」
瑠香は、思わず口に出す。
「ていうか、その赤くて煙草臭いのは、なんでここに居るんですか?」
「全遊具を制覇したから、やる事が無くなったんだ」
「ははは」
普段は滅多に顔を出さない支配人と、先の赤い髪の男、朱花が向かい合って座りながら、煙草を吸っている。顔見知りなのだろうか。
「関係者以外立ち入り禁止なんですけど」
「どんなものにも例外はある」
ああ言えば、こう言う。
「ごめんなさいね」
と、壁際から声が聞こえたのは、今まさに、足を踏み出し、朱花を蹴り飛ばそうとした直前だった。
見慣れない老女が暖かな笑みを浮かべて、壁際の椅子に座っていた。誰だろう。瑠香がそう思った矢先、老女が口を開いた。
「朱花さんには、私が無理を言ったんです」
老女がそう言った瞬間。陽だまりに咲いた花から花粉が飛ぶかの様に、色気がふわ、と飛んだ。老女と色気が無縁のものだと決めつけていたので、たじろぐ。
「始めまして、瑠香さん。それに、久しぶり、日々輔」
「母さん……」
日々輔がそう言った。
「へ?」
日々輔は、壁際に背を預けて座る老女、賀古の前で膝を付いた。熊の頭を外し、脇に置き、老女の手を取る。絵画でよく見かける、騎士と、王の構図だ。騎士が熊で、王が老女、熊の頭が兜。神聖な雰囲気すらあった。
改めて賀古の姿を見る。髪は白く、顔にはヒビの様なシワが何本も走っていて、瞳の周りだけが水々しく、そこだけアンバランスに若く、綺麗だった。身体が小刻みに震えていて、触れれば折れてしまいそうな程痩せている。日々輔の母親、というよりは、おばあちゃん、と説明された方が余程納得が行った。
「体は、その、大丈夫なのか?」
日々輔はうやうやしく、老女、賀古を見上げる。老女の手が日々輔の顔を撫でた。そこでようやく瑠香は、賀古の瞳が光を反射していない事に気付く。
「少し痩せましたね。日々輔」
息が掛かった先から、花が開くのではないか、と、そんな気分にさせられる程、暖かな声色だった。顔を撫でられながら、日々輔は照れくさそうに頭を掻いていた。
「瑠香さん」
突然声を掛けられ、瑠香は驚く。「あ、はい」と上擦った声で答えた。
「良ければ、顔を見せてください。私は眼が見えないので、こちらに来て下さればとても嬉しいです」
言いながら、賀古は誘うかの様に両手を広げた。
断る理由も無く、瑠香は兎の頭を脇に、置き、汗で顔にへばりついている髪を後ろに払った。それから、賀古に一歩一歩近づき、日々輔と同じ態勢で座る。
それと同時に、日々輔が「俺は冷たいものでも買ってくるよ」と、熊の着ぐるみを脱ぎ、そのままの勢いで外に駆け出した。呼び止める間もない、あっという間の退場だった。
「あ、先輩」
遅れて、声を出す。その頃には影も形も無い。
「日々輔は相変わらず落ち着きがありませんね」
賀古はそれが愉快な様でもあった。それから、手が顔に伸びてきた。顔を撫でられ、掌の体温とくすぐったさに、顔が綻ぶ。
「とても、綺麗な顔」
褒められる事に慣れていなかったので、やはり照れくさくなり、頭を掻く。日々輔と同じ仕草だ。
「改めて始めまして。日々輔の母の、賀古と言います」
「は、はじめまして」
言ってから、伝えるべき肩書きを探したが、特に思い当たる節も無く、「兎の瑠香です」と奇妙な挨拶をしてしまった。
「うさぎ」
にこやかに、賀古が笑う。「日々輔は、くまですね」
うさぎ、くま。と、発音を楽しむかの様に呟く。それから、
「日々輔から話は聞いていますか?」
「話?」
「今日これから起きる事、それから、日々輔自身の話です」
「いえ……」
聞いていません。と正直に答えた。「先輩は、余り自分の話しをしてくれないんですよ」ぐるみ、やら、ぐるむ、やらの、意味不明な話は良く聞かされるのだが、日々輔自身の話は余り聞かない。
「そうですか。だけど、日々輔からは、瑠香さんの話を良く聞きますよ」
「え?」
「貴女をとても信用しています」
不意を突かれた気分になり、言葉に詰まる。自分の顔が熱を持った事に気付いて、慌てて話を変えようと、言葉を紡ぐ。
「あ、弟さんや妹さんが居るという話は聞きました。大家族らしいですね」
「家族。そうですね、沢山の子供達が居ます」
賀古は、やはり笑顔を見せる。が、今度の笑顔は、どこか寂しげな、力無い笑みだった。
「……あ」
思わず、声が出た。賀古の寂しげな笑みが呼び水となって、唐突に、『答え』が頭を横切ったのだ。まさか、と思いながらも、形も無くもやの様だった答えが、叙々に固形になっていく。
「多分、日々輔が自分で話してくれますよ」
こちらの様子を感じ取ったのか、賀古がそんな事を言う。多分、と言う割には断定口調だった。
「それは、私が知るべき話なんでしょうか」
「あの子の事を知ってあげてください。そして、あの子を助けてあげてください」
お願いします。と賀古は頭を下げた。
漠然と現れた答えは、風船の形をしている。
朱花は一人でカラオケボックスに入る事も出来る猛者です。