趙雲の若き日
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冀州常山郡真定県。黄河の北に広がるこの一帯は、北方より南下する烏桓・鮮卑の影に常に怯えながら生きる土地であった。趙氏の家に生まれたその子は、雲と名づけられた。のちの字は子龍という。父はこの地の下吏を務めながら、里の壮丁を束ねて自衛の任にも当たっていた。
雲が物心つく頃、胡族の一隊が近隣の村を襲ったことがある。悲鳴と怒号が飛び交うなか、逃げ惑う大人たちの足元を、まだ幼い雲がひとり、隣家の乳飲み子を抱えて木立の陰へと運んだという。本当にそうだったのか、のちに人々が語り継ぐうちに膨らんだ話なのか、雲自身は問われても多くを語らなかったため、真偽は定かではない。ただ里の古老たちは長じてのちも、「あの日、泣きもせず赤子を抱えていた童がいた」と語り草にした。
父は寡黙な人であったが、ただ一つ、繰り返し雲に説いたことがある。「乱世で人を死なせるのは、敵の刃だけではない。恐れて我を失うた者から先に死ぬ。肚を据えよ」――幼い雲には、剣を振るう稽古よりも、この言葉のほうが深く胸に刻まれた。
兄は雲より十ほど年上で、父亡きあとは家長として弟を厳しくも温かく育てた。ある年、増水した川で溺れかけた村の子を、兄が果敢に助けたことがある。だが兄はそのとき深追いして自らも流されかけ、辛くも岸にたどり着いた。「勇とは、無闇に飛び込むことではない。己の力を見極め、それでも踏み出す覚悟のことだ」兄はそう雲に語った。このときの兄の姿を、雲は生涯忘れなかった。
父はほどなく病を得て世を去り、兄が家を支えた。雲は郡府に仕える身となったが、天下はすでに黄巾の乱を経て乱れに乱れ、冀州もまた袁紹と公孫瓚の争いの渦中にあった。
初平二年、故郷の情勢が定まらぬなか、雲は郡の官民からなる義勇の兵を募られ、その将として推された。冀州の者の多くは袁紹に与したが、雲はあえて公孫瓚のもとへ馳せ参じた。「冀州の者はみな袁紹殿につくというに、なぜ貴殿はわしのもとへ来た」公孫瓚が問うと、雲はこう答えた。「天下が麻の如く乱れ、民はいずこに拠るべきかを知りませぬ。ただ仁政の行われる所に従うのみ。袁紹殿を賤しみ、将軍を偏に慕うわけではありませぬ」公孫瓚は苦笑いしたが、雲の言葉は紛れもない本心であった。
公孫瓚は白馬にのみ跨る精鋭を選りすぐり、「白馬義従」と称する部隊を率いて烏桓・鮮卑を幾度となく打ち破ってきた男である。雲もまたこの精鋭に加えられ、騎射と用兵の実際を叩き込まれた。境を侵す者には情け容赦なく報復するその戦いぶりは、遠く胡族の影に怯えて育った雲にとって、頼もしくさえ映った。ここでならば、民を脅かす者から人の命を守れる――雲はそう信じて疑わなかった。
このとき公孫瓚のもとに身を寄せていたのが、劉備であった。劉備は雲と言葉を交わすたび、驕った態度を見せる公孫瓚配下の武人たちとは異なる、雲の静かな眼差しに気づいた。「貴公は、手柄を誇る者たちの中で、なぜひとりだけそう落ち着いておられるのか」劉備がそう問うと、雲はただ、「功はいずれ人が語るもの。急いで語らずともよいかと」とだけ答えた。多くを語らぬのに、そこにいるだけで場が静まる――そんな男であった。劉備はしばしば雲を側に招き、雲もまた次第に深く心を寄せていった。
翌年、公孫瓚が青州の田楷を袁紹への備えとして援けるべく劉備を派遣すると、雲は主騎としてこれに従った。ある小競り合いで、血気に逸る若い兵が敵陣深くまで追撃しようとしたのを、雲は馬を並べて制した。「深追いは味方の骨を晒すだけだ」――兄の言葉そのままに、雲は退くべき時を見極める将であった。
だがまもなく、故郷から兄の訃報が届いた。雲は喪に服すため、公孫瓚のもとを辞す決意をした。別れの日、劉備は雲の手を取り、名残を惜しんだ。雲もまた深く頭を垂れ、「終にご恩に背くことはございませぬ」とだけ告げ、故郷へと発った。
喪に服す雲の耳に、翌年、思いも寄らぬ報せが届く。公孫瓚が、あろうことか幽州牧・劉虞を謀反の名のもとに斬ったというのである。劉虞は質素を旨とし、民を慈しむ仁政で名高い人であった。雲がかつて「仁政の行われる所に従う」と誓って身を投じた公孫瓚が、その仁政を体現する人物を手にかけたのだ。あの白馬の精鋭が、民を守るためではなく、己の慢心のために振るわれる日が来るとは。雲は言葉を失った。以来、公孫瓚のもとへ戻ることは二度となかった。
それから幾年、雲は故郷にあって時を待った。里の若者に弓馬を教えながら、天下の趨勢に耳を澄ます日々であった。仁政の行われる所に従う――その誓いを果たせる主は、この乱世のどこにいるのか。答えは容易には見えなかった。
建安五年、徐州を曹操に逐われた劉備が、袁紹の本拠・鄴に身を寄せていると聞き、雲は自ら鄴を訪ねた。八年ぶりの再会に、二人は同じ牀に眠るほど語り明かしたという。袁紹にはもはや先がないと見切っていた劉備の求めに応じ、雲はひそかに数百の兵を募り、これを劉備の部曲として、共に荊州へと向かった。
荊州牧劉表のもとに身を寄せた劉備は、新野に屯し、雲はその親衛の騎を率いる身となった。歳月は静かに流れたが、雲の心にはなお迷いがあった。仁政を求めて彷徨った日々の果てに、この人こそはと信じた劉備であったが、寄寓の身である劉備には、いまだ確かな地盤も大義も見えなかったからだ。
建安十二年の冬、劉備が三度も草廬を訪ねてようやく迎え入れた軍師・諸葛亮という青年に、雲は道中で幾度か言葉を交わした。「趙将軍は、なぜ長く一人の主に仕えずにおられたのですか」若い軍師にそう問われ、雲はしばし黙し、「仕えるべき主を、見誤りとうなかっただけです」とだけ返した。歳若いその眼差しに、雲はかつての自分自身を見るような気がした。多くを語らぬが、見るべきところは見ている――そんな男であった。この日交わした短いやり取りが、のちに二人が長く力を合わせることになろうとは、雲もまだ知る由もなかった。
翌建安十三年、劉表が病没する。跡を継いだ劉琮は、曹操の大軍を前に一戦もせず降伏し、それを劉備には知らせなかった。虎口を脱すべく劉備は南へと走った。新野以来の恩義を慕う民が後を絶たず従い、行軍は遅々として進まぬまま、当陽県長坂において、ついに曹操自ら精鋭の虎豹騎を率いて追いついた。
乱軍のなか、劉備は妻子を顧みる間もなく、諸葛亮らわずかな供回りとともに南へ駆け抜けた。張飛が二十騎を率いて殿を務め、長坂橋の上でひとり睨みを利かせているという。雲もまた押し寄せる敵騎を防ぎながら退いていたが、ふと気づけば、糜夫人と甘夫人の姿も、生まれてまだ間もない幼君・阿斗の姿も、逃げ惑う群衆のなかに見えなくなっていた。
埃と悲鳴が渦巻く戦場に、雲は馬上でひとり立ち尽くした。脳裏に、遠い日の光景が甦る。恐れて我を失うた者から死ぬ、と説いた亡き父の声。無闇に飛び込むのではなく、力を見極めてなお踏み出せ、と諭した兄の背中。そして誰も見ていなかったはずの、あの日、名も知らぬ赤子を抱えて木立へ走ったという、自分でも定かならぬ幼き日の記憶――それらすべてが、いま一つの想いへと結ばれていく。
仁政を求めて彷徨い、ようやく命を預けると決めた主君。その主君がただひとり戦場に遺した、この乱世で最も無力な命。
雲は手綱を握り直し、曹操の大軍がひしめく戦場へと、静かに馬首を返した。
我が君主のご子息を、死なせるわけにはいかない。
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