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崇徳学園の剣道部員・高梨は、黒田監督の復讐心に染まり「鬼神」として全国制覇するが虚無感に陥る。しかし遠征先で道場主の藤森と対戦し、己の邪剣と弱さを自覚。家族の情愛にも触れ、頑なだった心が変化し始める。


 福岡に住み着いて、既に二年の歳月が流れていた。


 私立崇徳学園は、その規模は筑波学院よりも小さかったものの、全体の敷地が広大で、始めのうちは、どこに何の建物があるのか判らず、学園の中で迷子になる始末だった。


 九州全土から集められた生徒で殆どが構成されている中で、一番困ったのは、訛が強いやつの言葉が全く理解できず、どう返事をしていいか判らなかったことだ。

 ただ、寮で同室となった同学年の吉本というやつがやたらと多弁で、そいつの言葉を聞いている内に、九州特有の訛が次第に理解できるようになっていった。

 中学生、高校生が寄宿する剣道部の寮は、筑波学園とは異なり、先輩後輩の序列が厳しく、食事や風呂は、先輩達が終わるまで待たされ、更に、先輩達が食い散らかした食器や汚した風呂場を掃除するのも、下級生に課された仕事だった。


 黒田幻想先生の崇徳学園剣道部監督就任と同時に、俺は、黒田先生の推薦という形で崇徳学園中等部三年に編入し、そのまま高等部に進学した。


 高等部剣道部は、男女それぞが道場を持ち、その人数がやたらと多く、男子だけでも四十名を超えていた。

 そして、その全ての部員がスポーツ推薦での入学組みだった。


 スポーツ推薦という待遇は、周りから見れば耳障りの良い言葉として響く。

 しかし、内実はそうではない。

 徹底的な成果主義で、部内で高位置をキープし、正選手になれる者はいいが、補欠にもなれないまま無為に高校三年間を過ごさざるを得ない者が大半で、特に特待生で入学したものは、部内ではもちろん、クラスの中でも自分自身の居場所を無くしたままの状況に陥る。

 崇徳学園は、ただ剣道が好きだというだけの部員を不要とし、結果を残せる生徒のみを欲している学校である。


 黒田先生は、崇徳学園剣道部監督に就任して直ぐに実権を掌握し、男子剣道部の顧問三人を解任し、自分の意志に従う新たな顧問三人を就任させた。

 これには、中等部、女子高等部の顧問らが相当に反発したらしいが、学園理事から全権を託された黒田先生の意志を覆すほど勇気のある者は現れなかった。


 黒田監督は、男女共に各四十名を超える部員を抱える剣道部員達を有効に利用する為、大きな大会毎に別編成のチームを四つ作った。

 九州大会。

 全国選抜大会。

 インターハイ。

 玉竜旗。

 この四つの大会の為に、部員を大会毎の要員に振り分け、大会まじかになって部内査定を行い、正選手五名を選出する。

 個人戦は、大会要員に無関係に、全部員の内部査定によって出場者が決定された。


 高等学校に入学して、俺は、インターハイ組の要員となった。


 五月、六月に行われるインターハイ出場選手を選出する内部査定。

 俺は、その査定で、団体戦、個人戦ともに出場枠を獲得した。


 実力だけの世界。

 崇徳学園剣道部はそれに徹したものであったことは確かだ。


 しかし、主将を始めとした三年生部員全員に呼びつけられた俺は、屈辱を甘受する立場に追い込まれた。

 主将は、俺に一礼して、一言こう言った。


 「怪我をしてくれ・・・」


 その意味は直ぐに判った。一人で生きて行くことに慣れていた俺は、こういう機微には敏感だった。


 翌日、俺は黒田監督に、怪我を理由に正選手を辞退する旨を伝えた。

 黒田監督は、俺の顔をじっと見つめたまま無言でいる。


 「それでいいのか?」

 「はい」


 話しはそれで済んだ。


 黒田先生に一礼して、監督室を出ようとした俺の後ろ姿に、黒田監督はこう言った。


 「誰にも邪魔されない、圧倒的な強さを身に付けろ」


 俺は、振り向かず、ただ、はいと返事だけを残して退出した。







 それからの俺は、鬼神となった。

 

 圧倒的な強さを身につける為、他の部員の倍以上の稽古を積み、体がボロボロになるまで素振りを繰り返す毎日を休むことなく続けた。


 睡眠時間は、授業中にたっぷり採り、部活時間とその後の夜中まで行う自主練に没頭した。


 寮で同室となった同級生はその俺の様子を見て、鬼というあだ名を付け、触らぬ神に祟り無しという感じで、よけいな事は一切口に出さなくなった。


 部員それぞれが、大会毎の要員に分けられている以上、個人戦枠を全て獲得するか、与えられた大会での正選手の座を絶対に獲得しなければならない。

 そう、誰にも邪魔されない、圧倒的な強さで。


 黒田監督は、週に二日間だけ、ご自分でも防具を付け、部員達を直接指導する。


 俺は、毎週その時を待ちかね、他の部員達を押しのけても黒田先生との立ち会いを求めた。


 黒田幻想。

 その構えは巌の構えそのものだった。

 頑強でけっして崩れず、微動だにしない構え。

 攻め口を見つけられずにいると、いつの間にか間を採られていて、強烈な一撃をくらう。

 奥底にある気の強さに圧倒されて、攻める前に吐き気を模様すほどの圧力。

 俺は、何度も、何度もそれに挑んでは突き飛ばされ、突き飛ばされれば、されるほど、果敢に攻撃を仕掛けた。




 年が明け、二年生となった俺は、九州大会の個人戦出場枠を勝ち取り、続くインターハイの個人戦と団体戦の正選手の座を勝ち取った。

 鬼神となった俺は、上級生さへも声をかけ得ない存在となっていた。


 九州大会の個人戦で優勝を果たした俺は、インターハイ団体戦の先鋒となり、個人戦にも参戦した。


 団体戦のトーナメント表。

 神奈川県枠に、湘東学園の名があった。

 大将は桐生心。

 更に、女子個人戦出場者に、音羽京子という名を見つけた。


 俺は、その名に何の感情もわいてこず、そのままトーナメント表をゴミ箱に放り投げた。

 なんだろうと関係ない。勝てばいいだけの話しだ。


 四日間の戦いは、あっという間に過ぎていった。


 崇徳学園男子剣道部は、団体戦で優勝し、個人戦でも俺は優勝した。


 女子の試合には全く興味がなく、音羽京子の試合も一度も目にしなかった。


 ただ、勝つことの喜びは微塵も感じられなかった。

 俺が剣道を続けている理由、目的に勝つという概念はなかった。

 勝つのではなく、倒す。

 俺の前に立ちはだかった全ての障害を木っ端みじんに打ち砕く。

 そんなものに、達成感など必要なかった。


 ただあるのは、なぜか虚無感だけだった。








 九月、十月と、崇徳学園は何時も通りの稽古を続けていた。

 

 そんなある日、俺は黒田監督に呼ばれた。


 「高梨、相変わらずお前の剣道には情がないな」

 「はっ?・・・・・」


 めずらしく、機嫌がいい黒田監督は、意味の分からないことをしたり顔で言った。

 「でもな、俺は気に入ってるぜ、お前の剣道」

 「はい・・・・・・」

 「俺が、ここへ来た理由、知りたいか」

 予想外の質問に俺は返事を失った。


 そんな俺を無視するように、黒田監督は語り始めた。


 「俺は、東京武道大学の学生だったころ、一つ上の兄も同じ大学の剣道部副主将を努めていた」

 「はい・・・・」

 「兄の大学時代最後となる全国学生選手権で、決勝に勝ち残ったのは、同じく東京武道大学の四年、武藤鉄心だった」

 

 武藤鉄心・・・・・。

 どこかで聞いた記憶のある名だが思い出せない。

 「兄は、準決勝で相手に突きを外され、かなりのダメージを負っていた。普通であれば、あの時点で病院行きだったが、怪我を押して決勝戦に臨む道を選択した」

 「・・・・・」

 「武藤鉄心は、同門であるに関わらず、そのことを知りながら、あえて、あえてだ。渾身の突きを兄ののど元に突き刺した」

 「・・・・・・」

 「兄は、気を失い、病院に運ばれ一命を取り留めたが、下半身不随となった」

 「・・・それで、武藤鉄心というひとは・・・?」

 「当然、剣道部を自主退部したさ。いや、させたのさ俺たちが」

 「・・・・・」

 「それだけじゃない。バカな兄は、武藤鉄心に剣道を続けることを願った」

 「・・・・・」

 「その結果がどうだ。理由はどうであれ、武藤鉄心との関係を続けた兄は、不慮の事故で他界するはめになった」

 「・・・亡くなった?・・・」

 「それ以後、俺は、武藤鉄心が剣道界に復帰することを阻害しつづけた」

 「・・・どうして・・ですか?」

 「当たり前だ! 兄を殺した人間が、どのつら下げて剣道続けられるんだ」

 「・・・・・」

 「ある時、ある高校の歴史の教師をしていた武藤鉄心に、崇徳学園から監督の誘いがあった」

 「崇徳学園って、ここのですか?」

 「そうだ、神奈川県連の上役で琢成館の藤森が、崇徳学園に推薦したからさ」

 「琢成館・・・・」

 「それを知った俺は、武藤鉄心という男がどういう男か、やつの本性がどいうものなのか、崇徳学園理事長に教えてやったのさ」

 「・・でも、何故、黒田先生が崇徳学園の顧問に?」

 「言っただろう。復讐の為さ。武藤鉄心の剣道家としての道を全て断ち切る。それが俺の復讐さ」


 「ここの理事会はバカだ。俺がここの監督を引き受けると一言いったら、ぜひに・・・・だとさ」

 「・・・それで、ここの監督に就任されたのですか・・・」


 「今年のインターハイ。湘東学園も来てたよな」

 「・・・だと思います」

 「お前も食えないやつだな。あそこには、お前の実の姉もいるだろ」

 「・・・・・」

 「武藤鉄心は、それでも諦めきれなかったのか、俺が放り投げた湘東学園の顧問をやっと拾ったのさ」

 「・・・・・」

 「俺は、それも邪魔してやろうとしたが、例の琢成館の藤森というやつが強引に武藤を湘東学園に納めちまったのさ」

 「・・・・・」

 「だから、俺の復讐は完結していない」

 「・・・・・」

 「お前も、俺と同じだ」

 「・・・・同じ?」

 「お前の剣は邪剣だ。お前の握る剣には、常に何かに対する復讐心がやどっている。そして、その邪心がお前を強くしている」

 「復讐・・・邪心・・・」

 「来年以降も、武藤鉄心は、湘東学園をインターハイへ連れてくるだろう」

 「・・・・・」

 「そして、お前は、俺の復讐の手として、湘東学園を完膚なきまで叩きのめす。いいな!」


 「・・・・・・」


 復讐・邪剣・・・・。

 勝っても勝っても満たされない心。

 相手を打ち砕いた先に、いったい何があるのか・・・。


 俺は、黒田先生の鬼の心を知って、いい知れない虚無感の原因がなんなのか、朧げながら判り始めた。

 そして、初めて黒田先生に対して、無意識ではあるが、反発する心が芽生えた。


 「話しは変わるが、お前らに駄賃をやる」

 「はぁ?」

 「十一月の中旬に、東京、神奈川遠征を三日間行う」

 「遠征・・ですか」

 「東京二校、神奈川一校の三校と交流試合をする」

 「湘東学園にも行くんですか?」

 「行くわけないだろう!なんでわざわざ敵陣に乗り込んで、こっちの手の内を見せてやんなきゃなんねえんだよ」

 「・・・・」

 「それでな。高梨、お前、神奈川の親父の家に遠征中泊まれ」

 「はぁああ、なんで俺が親父のとこに」

 「うるさいんだよあの親父。お前を北海道からここに連れて来て、一度も返してよこさない。せめて、長期の休暇の時くらい帰らせてくれって、前々から言ってきてんだよ」

 「・・・・・」

 「更に、お前個人の駄賃として、中一日の休暇をやる」

 「・・・・」

 「確か、お前の姉。湘東学園だよな。それとなく、むこうの戦力とか、武藤の様子聞いてこい」

 「それは強制ですか」

 「当たり前だ!」



 十一月の中旬。

 俺たちインターハイ組の男子部員、総勢十二名は東京・神奈川遠征に出かけた。


 羽田空港からその足で、第一校めの訪問校へ直行した。

 俺にとってはなつかしい、筑波学院だった。

 数年しかいなかったが、なんか懐かしさを感じ、それ以上に、俺にもこういう気持ちがあったことに驚かされた。


 夕方、交流稽古と交流試合が終わって、武道場を出た時。一人の女の子がポツンと立っていた。


 黒田監督が、その女の子に気付き、何か話していたが、俺を手招きして呼んだ。

 「高梨。姉さんがわざわざ迎えに来てくれたぞ」

 そう言われて、その女の子が初めて俺の姉であることに気づいた。

 「大きくなったね、リュウちゃん」

 「・・・・・」

 それを注目の目で見ていた他の部員達が、ヒューヒューって冷やかし始めた。

 俺は、他の部員達をジロリと睨み、姉に小さく一礼した。

 なんで、俺がこんなめにあわなならん!と思いつつ、黒田監督の、行け、という目配せで、俺は、姉と一緒に学校を出た。


 東京から神奈川の家まではけっこう遠かった。

 電車の中で、何かをしきりに話し続けていた姉は始終ニコニコとした笑顔を崩さなかった。

 俺は、姉を姉として認めたわけではない。

 ただ、ただ、姉の話しにうなずき、俺からは一言も発しなかった。

 黒田先生からは、明日一日の休暇を言い渡されている。明日一日、こういう状態が続くと思うとうんざりした。


 茅ヶ崎という駅で降りた俺たちは、十五分ほど歩いて、一軒の家にたどり着いた。

 表札には『音羽』と書いてあった。それは、俺の旧姓でもある。


 さぁ入ってと促されて、玄関に入ると、親父がニコニコしながら出迎えてくれた。

 はっきり言って、親父の顔もはっきり覚えていなかった俺は、これが親父か、と思いつつ、小さな礼を返した。


 二階の一室を与えられた俺は、乱暴に防具をほっぽりなげ、ジャージのままベッドに横になった。

 どんなきつい稽古でも耐えられるが、こういうのって、耐えられないし、異常に疲れる。

 ふと気づくと、ベットがやたらと柔らかい。そして、真新しい真っ白なシーツからは、なんだか、いい香りが漂ってくる。

 考えてみれば、母さんと暮らしていた時はせんべい布団だった。

 そして、学校の寮のベットは、これでもかというほど固いもので、ベットというのは、固いものなんだっていう固定観念がいつのまにか植え付けられていた。


 ふかふかのベットの上で、うつらうつらしていると、姉が夕食だから降りて来てと俺を呼びに来た。


 キッチンの横のダイニングテーブルには、何の祝いか知らないが、豪勢な料理が所狭しと置かれていた。


 「こういう時には、なんていうんだっけ、京子」

 「あら、やだ。お帰りなさいでしょ」

 「そう、そうだ。んじゃ、リュウお帰り!」


 俺は、二人のなすがままに乾杯をさせられ、食いきれない量の料理を片っ端から食わされた。


 父さんは、端から見てもかわいそうに思えるほど気をつかって、無意味な会話を続けている。

 姉は、それに合わせて巧妙に相づちをうっている。

 考えてみたら、物心ついた時から寮生活を続け、自分のペースで食事をした経験が無かった。


 食事を終え、明日の予定の話しになった。

 姉は、せっかく来たんだから、鎌倉とか、江ノ島とか、観光地に行ってみないと提案してきたが、俺は首を縦に振らなかった。

 黒田監督から言われていた、湘東学園の情報についても、この雰囲気の中で聞けるはずもないし、と言うか、この家に来て、俺は、あぁとか、うん以外の言葉を未だに発していないし、わざわざ湘東学園の剣道部を見学したいなんて気持ちは、さらさら無かった。


 ちょとこまった様な顔した姉は、何か閃いた様で、俺にこう提案してきた。


 「じゃぁね。私が小さい時から通ってる琢成館ってとこ、行ってみない?ぜひ、藤森先生に会ってほしんだ」

 その名を聞いた瞬間。俺は、ぴくりと反応した。

 琢成館・・・・藤森・・

 いずれも、黒田監督から聞かされた名前だ。

 俺は、取り立てて意図はないが、その名に興味を覚え、琢成館へ行くことを快諾した。


 次の日、昼過ぎに俺は姉に付き添われて、琢成館へと向かった。

 

 都会にもこういう昔ながらの道場が残っているのかと思わせるほど、古風な建物が俺を迎えた。

 

 既に稽古は終わっているらしく、道場内は静寂に包まれていた。


俺は、姉に促されて、着替え室で胴衣と防具を付け、上座に鎮座している藤森師範の前で正座し、礼をした。


 「音羽君から聞いていましたが、君が弟さんですね」

 俺は、弟という言葉に反発するように、その言葉に小さく黙礼した。

 その様子をじっと見つめていた藤森師範は、いきなり言った。

 「ひとつ、お手合わせをしていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

 通常、初対面で師範自らが立ち会いを求めるということはない。

 立ち会いとは、即ち真剣勝負のことだ。

 それを聞いた姉も驚いている。

 俺は、よしなに と言って、道場の端へ行って面を付け始めた。


 姉は、どうなることかと気をもみつつ、道場の端に正座してこっちを見守っている。


 お互いに礼をして、開始線で蹲踞する。

 審判はいない。

 こういう立ち会いの場合、蹲踞した状況から戦いが既に開始されている。

 とはいえ、師範に対する礼として、俺は先に立ち、半歩前に出て相手の所作を見極めようとした。

 気合いの一声を上げようとした瞬間、藤森師範が俺より数秒早く立ち、しかも俺の間合いで悠々と構えている姿が目に飛び込んできた。

 

 俺は、とっさに数歩下がって間合いを取り直した。


 お互い正眼の構え。


 藤森師範の構えは、何の変哲もない構えに見えた。

 いや、それ以上に、脱力されたその構えは隙だらけで、どこにでも打ち込めるような感覚を与える構えだった。

 黒田監督の巌の様な構えとは全くことなる、静の構え。

 一瞬、バカにされいるのかという感情がよぎった。


 藤森師範の右足が攻めの動きを見せた瞬間。俺は、遠間からの面を初動を見せずに放った。

 んっ・・・・いない・・・・

 完全に打突したはずの藤森師範の面は、俺の打突の先から消えていた。

 とっさに振り返った俺の胴に、藤森師範の剣が強烈に打突した。

 その強烈な打突に、俺は、後にすっ飛んで転倒した。


 今のはなんだったんだ。


 俺は、立ち上がり再び正眼の構えで藤森師範と相い対した。

 藤森師範は、何事も無かったように、以前と同じく脱力した構えで俺を見つめている。

 俺は、藤森師範の気の作りの前に、再び遠間からの面に飛び込んで、それを小手に変化させた。

 しかし、その変化の瞬間を捉えて、藤森師範の竹刀が真っすぐに俺の突きをめがけて飛んできたと感じた瞬間、強烈な打ちが俺の面を捉えていた。


 空蝉の構えという言葉を聞いたことがある。

 まるで、蝉の抜け殻のように空虚な構え。


 藤森師範の構えは、まさにそれだった。


 俺は、うかつに攻められなくなり、藤森師範の間から避けること以外、何も考えられるなくなった。


 面の中で、汗が流れて行く。


 この感覚。


 遠い昔、味わったことのある感覚。

 俺は、忘れていた記憶の中で、唐突にその感覚だけを思い出した。


 ・・・木下館長・・・


 何事にも捕われなのない構え、気を発するのではなく、心の内側に強く潜めて、その心を剣に乗せた構え。

 どこまでも透明で、つかみ所のない構え。


 藤森師範の構えは、恩師・木下館長のそれと同じだった。


 不意に木下館長の言葉が思い出された。


 本当の強さとは、己の弱さを知ることです。

 己に勝って、初めて勝負に勝てるものです


 そんなことをこの刹那に、何故思い出すんだろうと反問している内に、涙が目にあふれてきた。


 俺は、その涙を振り払うように、下段気味に降ろした竹刀を藤森師範の小手めがけて突き刺した。

 その瞬間。藤森師範の出小手が、俺の右腕を痛打し、俺は竹刀を飛ばされていた。


 お互い面を脱いで、礼を交わし、俺は藤森師範の顔を初めてまじまじと見た。

 何の屈託もない笑顔。

 俺は、不思議なほど悔しいという気持ちがわき起こらなかった。


 「高梨君。よい振りをしていますね」

 「はい・・・」

 「すこし、気が鋭利するぎる様ですね」

 「はい・・・」

 「鋭利な刃物は、諸刃の剣となります」

 「・・・・・」

 ニコニコとした笑顔を崩さず、藤森師範は俺の目を見つめていた。


 「藤森先生。先生はなぜ俺の動きがよめるのですか」

 「よんでなんていませんでしたよ」


 「・・・・・・」


 「逆にお尋ねしますが、高梨君の目に私はどう写っていましたか」


 「・・・虚無・・・です」


 ニコニコと俺を見つめる藤森師範。

 「そうですか。けれど、私は、君の目には、君しか写っていないように見えましたが」


 「・・・・・」


 「今日は、よい経験をさせていだだきました」


 俺は、その言葉に返す言葉が見つからず、ただ、深く礼をした。


 道場の帰り道。

 姉は、しきりにごめんね・・という言葉を繰り返した。いきなり立ち会いを所望されるとは思っていなかった様子で、それを謝っているらしい。


 俺は、その姉の言葉を聞くともなく聞きながら、藤森師範の言葉を思い出していた。

 よい振りをしていますね。

 気が鋭利過ぎる。

 諸刃の剣。

 俺の目には俺しか写っていない。

 藤森師範は、最後まで、よい稽古をしている。とは言ってくれなかった。


 帰り道、遠くから、なんかチャラチャラした洋服を来た女の子と、着古したTシャツを来た男が、並んで近づいてくるのに気づいた。


 話を続けていた姉がいつのまにか無口になっている。


 そのカップルが、俺たちの横を通り過ぎた瞬間。

 シンちゃん・・・と姉が小さく呟いた。

 男の方も驚いたように姉を凝視し、その目を俺に注いできた。

 数秒後、相手の女の子が、男の手をとって、強引にその場を離れていった。

 姉は、その後急に無口となった。


 家に帰って、玄関に入ろうとした時、姉が唐突に言った。


 「さっきの男の子、知ってるでしょ」

 「さぁ・・・」

 「湘東学園の桐生君よ」

 んっ・・・あれが桐生。俺にはチャラ男にしか見えなかったが・・・

 とは、口に出さず、それよりも何故姉の態度が急変したのかの方が気になった。


 次の朝。


 今日予定されている練習会場に送っていくという姉を断った。

 それでも、茅ヶ崎駅に親父と姉が見送りに来てくれ、何時でも来てくれとか、こんど何時来るとか、めんどうな問いを繰り返し、強引に、スマートフォンを渡され、これで、何時でも連絡してくれ、こちらかも連絡するからと言った。


 俺は、うんとか、あぁとか返事はしたが、言葉にすることはしなかった。


 ただ、別れ際、ごく自然に俺は、親父と姉に深く礼をした。


 混雑する電車の中、強引に渡されたスマートフォンが、俺の涙で汚れていった。




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