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その王冠、証拠品として押収します

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/07/01

 

 王宮で人が死んだ朝、私は胡椒入りの丸パンを二口しか食べていなかった。


「テッサ。出るぞ」


 王都巡察院の統括官、エヴァン・ローデが、食堂の扉から私を呼んだ。


 普段は名前ではなく姓か役職で呼ぶ男である。


 それだけで、面倒な事件だと分かった。


「勤務開始まで、あと十九分あります」


「死体が十九分待つなら、俺も座る」


「待ちませんね」


「だから立て」


 私は丸パンを紙で包んだ。


 向かいに座っていた新人巡察官が、慌てて席を空ける。


 エヴァンは空いた椅子へ一度も目を向けなかった。


「統括官は、朝食を?」


「質問の目的は?」


「空腹で判断を誤られると、私の仕事が増えます」


「食べていない」


「予想どおりです」


 私は包みを開き、パンを半分に割った。


 大きい方を差し出す。


 エヴァンは私の手元とパンを見比べた。


「なぜ大きい方だ?」


「体積に比例して配分しました」


「俺を大型の家畜のように扱うな」


「食べないなら返してください」


 彼は黙って受け取った。


 食堂を出るまでに、きれいになくなっていた。


 遺体が見つかったのは、王宮東棟の地下文書庫だった。


 死者は王室医師のオーデル・ハイン。


 五十二歳。


 少なくとも、名簿にはそう記されていた。


 石床に横たわる男は、七十を越えているように見えた。


 頬の肉は落ち、指の関節は太く変形し、こめかみから後頭部まで白髪が広がっている。


「本人確認は?」


 エヴァンが尋ねた。


「歯列と古傷が一致しています」


 検視官が答える。


「オーデル医師で間違いありません。ただし、三日前の診療記録では健康状態に問題なし。昨年描かれた肖像とも、外見が二十年以上違います」


「一晩で老いた?」


 私が言うと、検視官は顔をしかめた。


「医学的には説明できません」


「魔法なら?」


「術式痕が多すぎます。身体全体が、長い年月を通過したような状態です」


 エヴァンが遺体の脇へしゃがんだ。


 右手は胸元で握られている。


 左手の人差し指には、黒い染料が付いていた。


「右手を開けられるか?」


「死後硬直が始まっています。骨を傷める可能性があります」


「記録を残してから開けろ」


 以前のエヴァンなら「構わん」と言っていた。


 私が遺体の扱いについて三度抗議してから、言い方を変えたらしい。


 検視官が指を一本ずつほどく。


 掌から、小さな銀色の留め具が落ちた。


 鳥の羽根を三枚重ねた意匠。


 王家の紋章に似ているが、現在使われているものとは形が違う。


「戴冠衣の留め具です」


 エヴァンが言った。


「現行品ではありません。初代国王の頃の意匠です」


「統括官は、どうしてそんなことまで知っているんです?」


「王宮警備の試験範囲だ」


「初代国王の服飾品が?」


「試験を作った者が暇だったのだろう」


 私は封証布を取り出し、留め具を包んだ。


 封証布は、術式の残る証拠品を保管するための、魔法を通さない織布だ。


 王冠のない国の記憶を、私は持っている。


 この世界で目を開けるより前、権力を示す紋章より、証拠品につけられた小さな番号の方が、人を裁きの場へ連れていく場所があった。


 だから王家の印を前にしても、私の手は止まらない。


 遺体の衣服や靴底からは、すでに六点の試料を採取し、番号を振ってある。


 留め具へ証拠番号を書いた札を結びつける。


「七番?」


 エヴァンが札を見た。


「これが七点目です」


「パンまで数えてはいないだろうな」


「朝食のパンも、統括官に押収されました」


「あれは任意提出だ」


「返還されていません」


「胃の中だ。手続きが難しい」


 検視官が咳払いした。


 私たちは遺体へ視線を戻す。


 オーデル医師の左手は、床へ向けて伸ばされていた。


 黒く汚れた人差し指の先に、七本の線が引かれている。


 ほぼ平行。


 六本は同じ長さだが、端の一本だけが短い。


「七人」


 検視官が呟いた。


「そう見せたいのかもしれません」


 私は答えた。


「数字なら、七と書けば済みます。わざわざ線の長さを変える理由がない」


 エヴァンは床へ顔を近づけた。


「指の染料と同じだ」


「書類用の複写墨ですね」


「医師は死ぬ直前、何かを写し取った」


「けれど紙がない」


「持ち去られたか、別の場所に残したか」


 エヴァンが立ち上がる。


「文書庫を閉鎖する。王宮側には、死因不明のため調査中とだけ伝えろ」


「殺人の可能性は?」


「口にするな」


「怖いんですか、王家が?」


 エヴァンは私を見た。


 襟元の留め金まで、いつもどおり正しい位置にある。


 この男は、動揺すると姿勢が良くなる。


「王家は怖くない」


「では、何が?」


「君が恐怖を忘れることだ」


「褒めています?」


「警告している」


「言い方を学んだ方がいいですよ」


「今さら直らない」


「どこでそんな言い方を覚えたんです?」


 彼は答えず、遺体の左手を見た。


「オーデル医師の執務室へ行く」


 医師の執務室には、診療記録が一冊も残っていなかった。


 棚の埃には本を抜き取った跡があり、机の引き出しも空だった。


 扉の脇には、王宮内の重要区画で使われる入室記録板がある。


 記録によれば、オーデル医師が文書庫で発見されるより前の夜、王妃付きの書記官がこの部屋へ入っていた。


 退出時刻は記されていない。


「随分と急いで片づけたようですね」


「まだ医師の死亡が公になっていない時間だ」


 エヴァンが記録板を外す。


「王妃側は、医師の死が表沙汰になる前に動いていた」


「あるいは、見つけたくないものがあることを」


 記録板も証拠品として封じる。


 ただし、壁際の燭台だけが不自然に曲がっていた。


 私が台座を持ち上げると、裏に薄い紙片が貼られている。


【王立慈養院・第七休養棟】


 その文字を見た瞬間、舌の奥に鉄の味がした。


「知っているな」


 エヴァンが言った。


「九年前、弟が入れられた場所です」


 ミロは当時十二歳だった。


 触れた魔石の熱を吸い取り、手の中で冷やすことができた。


 珍しい魔力だった。


 王家の慈善制度を担当する役人は、将来は王立工房で働けると説明した。


 両親を亡くしたばかりの私には、弟を学ばせる金がなかった。


 私は書類へ署名した。


 三日後、ミロは別の施設へ移送された。


 移送先として記された建物は、存在しなかった。


「知っていたんですね」


 私は紙片から目を離さずに言った。


「何をだ?」


「私の弟が、第七休養棟にいたことです」


「採用時の身辺記録で読んだ」


「それだけではないでしょう?」


 沈黙した。


 エヴァンの沈黙は、扉より分厚い。


「何年調べていたんです?」


「七年」


「私が巡察院へ入る前から?」


「ああ」


「なぜ黙っていたんです?」


「生存を示す証拠がなかった」


「生きている可能性だけでも、教えるべきでした」


「行き先のない期待を渡して、君に抱えさせるのか?」


「抱えるかどうかは、私が決めます」


「君は抱える。骨まで食い込んでも手放さない」


「それでも、決めるのは私です」


 エヴァンはしばらく答えなかった。


 やがて、紙片から指を離す。


「……そうだ」


 低い声だった。


「君のためだと思って黙っていた。だが、決める権利まで奪ったのは俺だ」


 彼は私を正面から見た。


「すまなかった」


 この人が謝るところを、初めて見た。


 言葉を選ぶのが下手な男だからこそ、逃げずに口にしたのだと分かった。


「謝れば、許されると思っています?」


「思っていない」


「では、覚えておいてください」


「ああ」


「私は、私のことを自分で決めます」


「二度と忘れない」


 エヴァンは机に置かれた紙片を、指先で押さえた。


「俺が最初に調べたとき、第七休養棟は、記録上は既に閉鎖されていた。令状を取ろうとした翌日、担当判事が辞職した。その翌週、証言者が河で見つかった」


「だから諦めた?」


「逆だ」


 声が低くなった。


「王家が処分できない形まで、証拠を増やすことにした」


「そのために私を採用したんですか?」


「違う」


 即答だった。


「君を採用したのは、採用試験で王都長官の不正会計を見つけ、試験問題の余白に告発文を書いたからだ」


「落とされると思いました」


「俺も落としたかった」


「なぜ採ったんです?」


「落とす理由より、採る理由が一つ多かった」


「何です?」


「王家の印を見ても、飾りではなく証拠品として扱える人間だった」


 エヴァンは封証布に包まれた留め具を指した。


「第七休養棟へ行く。君は院に残れ」


「同行します」


「命令だ」


「拒否します」


「処分する」


「弟を見つけるために入った職場です。処分されても目的は変わりません」


「知っている」


 エヴァンは目を閉じた。


「知っているから、言いたくなかった」


「何をです?」


「一緒に来てくれと」


 私はしばらく彼を見た。


「それは命令ですか?」


「頼んでいる」


「聞き慣れない言葉ですね」


「二度言わせるな」


「記録には残します」


「好きにしろ」




 ◇◆◇




 第七休養棟は、王都北端の森に埋もれていた。


 窓は煉瓦で塞がれ、門の表札は剥がされている。


 廃墟に見えた。


 ただし、裏口の錠だけが新しい。


 エヴァンが細い針金を取り出す。


「それは巡察院の正規装備ですか?」


「今から正規にする」


「規則を書き換える気です?」


「統括官には提案権がある」


「侵入器具を提案する統括官は初めてでしょうね」


 錠が外れた。


 建物の内部には埃が少なかった。


 壁の燭台には新しい蝋が残り、床には細い車輪跡が続いている。


 地下へ降りる階段の前で、エヴァンが止まった。


「前を歩く」


「私が見つけた跡です」


「だから何だ?」


「巡察官の発見を横取りしないでください」


「危険を横取りしている」


「同じようなものです」


「まったく違う」


 彼は私の返事を待たず、階段を降りた。


 地下には七台の寝台が並んでいた。


 どの寝台にも、人が眠っている。


 子どもに見えた。


 けれど壁の記録板に書かれた入棟日は、最も新しい者でも六年前。


 彼らはほとんど年を取っていない。


 七台目の寝台に、ミロがいた。


 九年前とほとんど変わらない顔。


 少しだけ骨張った指。


 眠る前に噛む癖のあった、右の親指の爪。


「ミロ」


 走り出そうとした私の前へ、エヴァンの腕が出た。


「どいてください」


「床を見ろ」


 寝台の周囲に、細い銀線が張り巡らされている。


 一歩踏み込めば、魔法陣を断ち切る位置だった。


「装置が停止したら、何が起きるか分からない」


「では、どうすれば?」


「順番に見る」


「弟がそこにいるのに?」


「いるからだ」


 エヴァンは私の正面へ立った。


「テッサ。七回息をしろ」


「何ですか、それ?」


「君は怒ると呼吸を忘れる」


「数えたんですか?」


「毎回」


「気持ち悪いですよ」


「五回目」


「まだ二回目です」


「反論できるなら動ける」


 私は息を吸った。


 吐いた。


 七回目が終わる頃には、床の銀線が見えるようになっていた。


 装置の中心には、七つの透明な筒がある。


 それぞれ寝台へ繋がり、上部で一本の管にまとまっていた。


 管の先は、壁の中へ消えている。


 寝台脇の記録箱には、七人分の名前と魔力特性が記されていた。


 その下に、別の名前が並んでいる。


 国王。


 王妃。


 王太子。


 第一王女。


 同じ日付で、病状の改善や若返りが記録されていた。


「魔力だけではありません」


 私は紙を握った。


「この子たちの時間を取っている」


 エヴァンが装置の計器を読む。


「正確には、これから生きるはずだった年月だ。身体を眠らせ、未来だけを抜き取っている」


「だから年を取らない」


「抜かれた年数が尽きたとき、目を覚まさずに死ぬ」


 記録の末尾に、次回作動予定日があった。


 明日。


 王家の戴冠記念祝宴の日。


 作動量の欄には、残存分すべて、と記されていた。


 ミロの欄には、残存年数三日と記されている。


 紙が手の中で鳴った。


「明日まで?」


「ああ」


「止められますか?」


「装置だけを壊せば、全員の時間が一度に途切れる可能性がある。送り先を断つ必要がある」


「送り先は王宮ですか?」


「おそらく」


 エヴァンが壁の管を叩く。


「この先にある受け皿を見つける」


 私たちは巡察院へ緊急連絡を送った。


 到着した魔術師と医師に、七人の状態と装置の計器を一つずつ記録させる。


 建物の出入口には巡察官を配置し、施設全体を封鎖した。


「装置には絶対に触れるな」


 エヴァンが魔術師たちへ告げる。


「数値に変化があれば、どれほど小さくても報告しろ。七人から目を離すな」


 医師が頷き、寝台のそばへ向かう。


 私はミロの寝顔を見た。


 ここへ残りたかった。


 けれど、彼を救うには、ここにいてはいけない。


「行きましょう」


 私が言うと、エヴァンは何も言わずに頷いた。


 立ち去る前、エヴァンが記録箱の底から小さな手帳を見つけた。


 オーデル医師の筆跡だった。


 最初の頁には、一文だけ。


【紙は燃やせる。人の口は塞げる。それでも王冠は、受け取った年月を忘れない】


 それ以降は、王冠の修理記録と、石の光量についての覚え書き。


 王族の病状が回復するたび、王冠の七つの宝石が明るくなっている。


「王冠が受け皿」


 私が言った。


「それなら、オーデル医師は王冠を調べた」


 エヴァンは手帳と、封証布に包まれた留め具を並べた。


「古い留め具。指についた複写墨。長さの違う七本の線」


「七本の線は、子どもの人数ではない」


「何かの形だ」


「王冠の内部?」


 エヴァンが私を見た。


「王立工房へ行く」




 ◇◆◇




 王立工房の地下には、歴代の祭具設計図が保管されていた。


 王冠の設計図だけ、中央部分が切り取られている。


 だが、設計図の裏に押された管理印から、製作者の名が分かった。


 初代王付き金工師、ハン・ヴェルダ。


 彼の作業日誌は、王都西区の子孫宅に残されていた。


 夜半に扉を叩いた私たちを、老婦人は寝間着姿で迎えた。


「王冠のことなら、祖父の祖父の、そのまた祖父が書いた箱がありますよ」


 長い説明のあと、屋根裏から木箱が下ろされた。


 中には錆びた工具と、一枚の薄い金属板。


 金属板には七本の溝が刻まれている。


 六本は同じ長さ。


 一番端だけが短い。


 オーデル医師が床に残した線と同じだった。


 金属板の裏には、古語で説明が刻まれている。


【王冠は授かった年月を内環へ記す。七条の溝を合わせ、始祖の留め具を挿せば、内環は開く】


 私は封証布を開いた。


 銀の留め具を金属板の端へ当てる。


 ぴたりとはまった。


「鍵だった」


「ああ」


「オーデル医師は、王冠の内側からこの形を写し取った」


「だが、開く前に防護術が作動した」


「それで一晩で老いた?」


 エヴァンは作業日誌をめくった。


【名を暴こうとする者から、王冠は残りの年月を取り立てる】


 オーデル医師は殺されたのではない。


 王冠を開こうとして、自分の未来を奪われた。


 それでも文書庫まで歩き、鍵と図を残した。


「王冠の中に、全員の記録がある」


「古い魔法は契約を守るために記録を必要とする。王家が紙を消しても、術式そのものは消せない」


「王冠を押収しましょう」


「明日の祝宴では、王妃が着用する」


「頭ごと押収します?」


「報告書が面倒だ。分けろ」


 私は笑いかけた。


 けれど、右手が震えていた。


 エヴァンが気づく。


「手を」


「平気です」


「平気かどうかは聞いていない」


「命令ですか?」


「処置だ」


 金属板で切ったらしく、掌から血が出ていた。


 エヴァンは私の手を取り、自分のハンカチを巻いた。


 結び目が妙に整っている。


「痛みは十段階でいくつだ?」


「三です」


「君は九でも三と言う」


「なら聞く意味がありません」


「声を聞く意味がある」


 顔を上げる。


 エヴァンは包帯代わりの布を見たままだった。


「統括官」


「何だ?」


「今の言葉、意味を考えて言いました?」


「考える時間がない」


「では、事件のあとで確認します」


「忘れろ」


「巡察官は記録が仕事です」


「不便な部下だ」


「採用したのは、あなたです」


 エヴァンは私の手を離さなかった。


 老婦人が屋根裏へ戻った音がして、ようやく指が解かれた。




 ◇◆◇




 翌夜、王宮の大広間では戴冠記念祝宴が開かれていた。


 病床の国王に代わり、王妃は王冠を戴き、百人を越える貴族の前で杯を掲げている。


 王太子は玉座の脇に座っていた。


 病弱だと聞いていたが、頬には色が戻っている。


 王妃は今夜、彼ら王族のために、七人から残りの年月をすべて吸い上げるつもりなのだ。


 私とエヴァンは巡察院の正装で広間へ入った。


 楽団の音が止まる。


「祝宴の最中に、何用ですか?」


 王妃が尋ねた。


「王室医師オーデル・ハインの死亡事件について、証拠品を押収します」


 エヴァンの声は、広間の端まで届いた。


「証拠品?」


「王冠です」


 ざわめきが広がった。


 王妃は笑った。


「巡察院は、王家の象徴まで盗品扱いするのですか?」


「盗品とは言っていません」


 私は答えた。


「人の年月を奪い、オーデル医師を死なせた道具として扱います」


「荒唐無稽ね」


「では、王冠を外し、内部を確認させてください」


「祝宴の最中に外すことはできません」


「儀礼上ですか?」


「王冠の術が途切れます」


 言ったあとで、王妃の口元が止まった。


 広間が静まる。


 私は一歩前へ出た。


「術については、何も申し上げていません」


「古い祭具には、何らかの術があるでしょう」


「何の術です?」


「王家を守る術よ」


「七人の子どもの未来を使って?」


 王妃の背後で、王太子が立ち上がった。


「母上」


「黙りなさい」


 その一言に、余裕が消えた。


 エヴァンが押収令状を開く。


「王都巡察法第十二条。身分、称号、所有者を問わず、人命を奪った疑いのある物は司法管理下へ移す」


「王家の祭具に適用できる法ではない」


「その法を制定したのは初代国王です」


「初代王の法が、現在の王冠へ及ぶと?」


「確かめます」


 私は封証布を開き、銀の留め具を示した。


 王妃の顔が初めて歪んだ。


「それをどこで?」


「オーデル医師が残しました」


「触れてはならない!」


 王妃が王冠へ手を伸ばす。


 その動きだけで、十分だった。


 王冠に秘密があると、自ら認めたようなものだ。


 衛兵が私たちを囲む。


 だが、王太子が片手を上げた。


「退け」


「殿下」


「王冠が潔白なら、開けば済む」


 王妃が息子を睨む。


「あなたの命を支えているのよ」


「それが子どもの命なら、私のものではない」


 王太子が自ら王冠へ手をかけた。


 王妃は抵抗したが、周囲の視線の前で振り払うことはできなかった。


 王冠が外される。


 エヴァンが受け取り、卓上へ置いた。


 私は内側を調べた。


 七本の細い溝。


 端の一本だけが短い。


 私は封証布越しに銀の留め具をつまんだ。


 床に残された線と同じ向きへ揃え、王冠へ差し込む。


 小さな音がした。


 封証布の表面を白い火花が走り、消えた。


 王冠の防護術だ。


 だが、魔法を通さない布までは越えられない。


 王冠の内側から、薄い輪がせり出してくる。


 金属の表面に、文字が浮かび上がった。


 名前。


 生年月日。


 奪われた年月。


 その年月を受け取った王族。


 一人、二人ではない。


 何代にもわたる、数え切れない名前。


 最後の七人の中に、ミロ・ヴァルの名もあった。


 受益者の欄には、マルティナ王妃。


 王太子レオル。


 現国王。


 広間の誰も、声を出さなかった。


「王冠は、受け取った年月を忘れない」


 私はオーデル医師の言葉を読んだ。


「紙を燃やしても、子どもを眠らせても、ここには残る」


 王妃の肩が落ちた。


 敗北を認めたのかと思った。


 そう見えたのは、一瞬だけだった。


 次の瞬間、王冠の七つの石が光った。


 王妃が何かを唱えている。


 内環に浮かんだ七人の残存年数が、みるみる減り始めた。


 第七休養棟の装置が作動したのだ。


「今ここで、残りの年月まで奪う気ですか!?」


「王冠の加護が途絶えれば、この国は割れる!」


 王妃の声が広間へ響く。


「七人の平民と、一千万の民。どちらを選ぶべきか、考えるまでもない!」


「私は、王冠を戴く者のいない国を知っています」


 王妃の顔から、怒りが一瞬だけ消えた。


「何を言っているの?」


「この世界で目を開けるより前のことです」


 私は封証布を広げた。


「そこでも朝は来ました。店は開き、人は働き、誰かが誰かを守っていた。国を生かしていたのは、王冠ではありません」


 王冠に差し込んだ留め具から、証拠番号七番の札が揺れた。


「人です」


 王冠から白い光が噴き上がる。


 エヴァンが私の前へ出た。


「下がれ!」


「統括官こそ!」


「これは命令だ!」


「久しぶりに聞きました!」


 私は彼の脇から、封証布を王冠へ被せた。


 光が布の内側で膨らみ、すぐに消えた。


 封証布は魔法を通さない。


 王冠であっても、証拠品になれば同じだった。


「何をしたの?」


 王妃が呟く。


「押収です」


 私は布の端を縛った。


「王冠を、司法管理下へ移しました」


 エヴァンが王妃の前へ立つ。


「マルティナ王妃。未成年者の誘拐、監禁、禁術使用、オーデル・ハインの死亡に関する容疑で拘束する」


「私を誰だと思っているの?」


「被疑者だ」


 衛兵たちは動かなかった。


 王太子が王妃から視線を逸らす。


 私は拘束具を取り出した。


「お手を」


「平民が、私に触れるの?」


「嫌でしたら、ご自分で後ろへ回してください」


 王妃は私を睨んだ。


 やがて、ゆっくりと両手を背へ回した。


 拘束具が閉じる。


 その音は、王冠が開いたときより小さかった。


 けれど広間にいた全員が聞いた。




 ◇◆◇




 王冠が封じられた翌朝も、日は昇った。


 市場は開き、職人は槌を振るい、パン屋からは焼きたての匂いが流れた。


 王冠を失っても、国は何事もなかったように動き続けた。


 王冠の押収から三か月後。


 眠らされていた七人は、順番に目を覚ました。


 奪われた年月のすべてを取り戻すことはできなかった。


 それでも王立工房と王立治療院が内環の術式を反転させ、王冠に残っていた年月は、それぞれの持ち主へ返された。


 国王は、術の存在を知りながら黙認していたとして退位。


 王妃付きの書記官を含む関係者は、証拠隠滅や禁術への加担を問われ、王妃とともに王都司法院で裁かれることになった。


 王太子は即位を保留し、臨時評議会に政務を委ねた。


 王宮の祭具と診療記録は、すべて巡察院の管理下へ置かれた。


 ミロが目を覚ましたのは、七人の中で最後だった。


「姉さん」


 九年ぶりに呼ばれた。


 私は返事をしようとして、声が出なかった。


 代わりに弟の手を握る。


 ミロは眠る前と同じ顔で、少し困ったように笑った。


「手、痛い」


 慌てて力を緩める。


「ごめんなさい」


「姉さんが謝るの、初めて見た」


「失礼ね」


「隣の人は誰?」


 振り返る。


 病室の壁際に、エヴァンが立っていた。


 毎朝来ていたくせに、ミロが目を覚ました途端、存在を薄くしようとしている。


「上司です」


 私が答えると、エヴァンの眉がわずかに動いた。


「それだけ?」


 ミロが尋ねた。


「今のところは」


「今のところ?」


「病人は休んでください」


「姉さん、顔が赤いよ」


「熱が移ったのかもしれません」


「僕、熱ないけど」


 エヴァンが咳払いした。


「巡察官。外で報告を」


「今、弟と話しています」


「私的な報告だ」


 ミロが面白そうに笑う。


「行ってきたら」


「ミロまで」


「九年待ったから、少しくらい待てるよ」


 私は弟の額へ触れ、病室を出た。


 廊下の窓から、午後の光が入っていた。


 エヴァンは壁際に立ち、紙袋を持っている。


「報告とは?」


 袋を渡された。


 中には胡椒入りの丸パンが二つ。


 どちらもまだ温かい。


「証拠品ですか?」


「違う」


「任意提出?」


「違う」


「では何です?」


「三か月前の返還だ」


「私のパンは、あなたが食べましたよね」


「だから買った」


「一つで十分です」


「一つは俺の分だ」


「一緒に食べるつもりですか?」


「ああ」


「勤務中ですよ」


「今日は休暇を取った」


 私は彼の顔を見た。


「統括官が?」


「制度を確認したら、俺にも使えるらしい」


「試験範囲ではなかったんですか?」


「作った者が働きすぎだったのだろう」


 エヴァンは窓辺の長椅子を指した。


 二人で座る。


 紙袋を開き、パンを一つずつ取った。


 私は一口食べた。


 三か月前と同じ味だった。


「それで、私的な報告とは?」


「君の弟が見つかったら、俺の仕事は終わると思っていた」


「まだ裁判があります」


「事件の話ではない」


「では?」


 エヴァンはパンを持ったまま黙った。


「統括官」


「急かすな。言葉を選んでいる」


「王妃を逮捕するときは、迷いませんでしたよ」


「王妃は俺の返事を待たない」


「私なら待つと?」


「待たせたくない」


 彼はパンを袋へ戻した。


「君が無事に戻るたび、安心する時間が長くなった」


「普通は短くなるのでは?」


「最初は一分だった。今は次に会うまで続く」


 私は何も言えなかった。


 エヴァンは視線を窓の外へ向けた。


「これは命令ではない」


「分かっています」


「任務でもない」


「はい」


「次の休暇も、君の隣の席をもらいたい」


「一席だけですか?」


 彼がこちらを見る。


「不足か?」


「弟の分も必要です」


「三人で?」


「最初は」


「次は?」


「働き次第です」


「評価基準は?」


「言葉を選ぶのに三か月かけないこと」


「難しいな」


「王冠を逮捕した人でしょう?」


「君が逮捕した」


「では、その助手として努力してください」


 エヴァンが笑った。


 仕事中には見せない笑い方だった。


「テッサ」


「何です?」


「次は、死体のない朝食にする」


「約束できます?」


「できない」


「即答ですね」


「死体が出たら、パンを持って行く」


「私の分まで食べないでください」


「今度は、最初から二つ買う」

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