その王冠、証拠品として押収します
王宮で人が死んだ朝、私は胡椒入りの丸パンを二口しか食べていなかった。
「テッサ。出るぞ」
王都巡察院の統括官、エヴァン・ローデが、食堂の扉から私を呼んだ。
普段は名前ではなく姓か役職で呼ぶ男である。
それだけで、面倒な事件だと分かった。
「勤務開始まで、あと十九分あります」
「死体が十九分待つなら、俺も座る」
「待ちませんね」
「だから立て」
私は丸パンを紙で包んだ。
向かいに座っていた新人巡察官が、慌てて席を空ける。
エヴァンは空いた椅子へ一度も目を向けなかった。
「統括官は、朝食を?」
「質問の目的は?」
「空腹で判断を誤られると、私の仕事が増えます」
「食べていない」
「予想どおりです」
私は包みを開き、パンを半分に割った。
大きい方を差し出す。
エヴァンは私の手元とパンを見比べた。
「なぜ大きい方だ?」
「体積に比例して配分しました」
「俺を大型の家畜のように扱うな」
「食べないなら返してください」
彼は黙って受け取った。
食堂を出るまでに、きれいになくなっていた。
遺体が見つかったのは、王宮東棟の地下文書庫だった。
死者は王室医師のオーデル・ハイン。
五十二歳。
少なくとも、名簿にはそう記されていた。
石床に横たわる男は、七十を越えているように見えた。
頬の肉は落ち、指の関節は太く変形し、こめかみから後頭部まで白髪が広がっている。
「本人確認は?」
エヴァンが尋ねた。
「歯列と古傷が一致しています」
検視官が答える。
「オーデル医師で間違いありません。ただし、三日前の診療記録では健康状態に問題なし。昨年描かれた肖像とも、外見が二十年以上違います」
「一晩で老いた?」
私が言うと、検視官は顔をしかめた。
「医学的には説明できません」
「魔法なら?」
「術式痕が多すぎます。身体全体が、長い年月を通過したような状態です」
エヴァンが遺体の脇へしゃがんだ。
右手は胸元で握られている。
左手の人差し指には、黒い染料が付いていた。
「右手を開けられるか?」
「死後硬直が始まっています。骨を傷める可能性があります」
「記録を残してから開けろ」
以前のエヴァンなら「構わん」と言っていた。
私が遺体の扱いについて三度抗議してから、言い方を変えたらしい。
検視官が指を一本ずつほどく。
掌から、小さな銀色の留め具が落ちた。
鳥の羽根を三枚重ねた意匠。
王家の紋章に似ているが、現在使われているものとは形が違う。
「戴冠衣の留め具です」
エヴァンが言った。
「現行品ではありません。初代国王の頃の意匠です」
「統括官は、どうしてそんなことまで知っているんです?」
「王宮警備の試験範囲だ」
「初代国王の服飾品が?」
「試験を作った者が暇だったのだろう」
私は封証布を取り出し、留め具を包んだ。
封証布は、術式の残る証拠品を保管するための、魔法を通さない織布だ。
王冠のない国の記憶を、私は持っている。
この世界で目を開けるより前、権力を示す紋章より、証拠品につけられた小さな番号の方が、人を裁きの場へ連れていく場所があった。
だから王家の印を前にしても、私の手は止まらない。
遺体の衣服や靴底からは、すでに六点の試料を採取し、番号を振ってある。
留め具へ証拠番号を書いた札を結びつける。
「七番?」
エヴァンが札を見た。
「これが七点目です」
「パンまで数えてはいないだろうな」
「朝食のパンも、統括官に押収されました」
「あれは任意提出だ」
「返還されていません」
「胃の中だ。手続きが難しい」
検視官が咳払いした。
私たちは遺体へ視線を戻す。
オーデル医師の左手は、床へ向けて伸ばされていた。
黒く汚れた人差し指の先に、七本の線が引かれている。
ほぼ平行。
六本は同じ長さだが、端の一本だけが短い。
「七人」
検視官が呟いた。
「そう見せたいのかもしれません」
私は答えた。
「数字なら、七と書けば済みます。わざわざ線の長さを変える理由がない」
エヴァンは床へ顔を近づけた。
「指の染料と同じだ」
「書類用の複写墨ですね」
「医師は死ぬ直前、何かを写し取った」
「けれど紙がない」
「持ち去られたか、別の場所に残したか」
エヴァンが立ち上がる。
「文書庫を閉鎖する。王宮側には、死因不明のため調査中とだけ伝えろ」
「殺人の可能性は?」
「口にするな」
「怖いんですか、王家が?」
エヴァンは私を見た。
襟元の留め金まで、いつもどおり正しい位置にある。
この男は、動揺すると姿勢が良くなる。
「王家は怖くない」
「では、何が?」
「君が恐怖を忘れることだ」
「褒めています?」
「警告している」
「言い方を学んだ方がいいですよ」
「今さら直らない」
「どこでそんな言い方を覚えたんです?」
彼は答えず、遺体の左手を見た。
「オーデル医師の執務室へ行く」
医師の執務室には、診療記録が一冊も残っていなかった。
棚の埃には本を抜き取った跡があり、机の引き出しも空だった。
扉の脇には、王宮内の重要区画で使われる入室記録板がある。
記録によれば、オーデル医師が文書庫で発見されるより前の夜、王妃付きの書記官がこの部屋へ入っていた。
退出時刻は記されていない。
「随分と急いで片づけたようですね」
「まだ医師の死亡が公になっていない時間だ」
エヴァンが記録板を外す。
「王妃側は、医師の死が表沙汰になる前に動いていた」
「あるいは、見つけたくないものがあることを」
記録板も証拠品として封じる。
ただし、壁際の燭台だけが不自然に曲がっていた。
私が台座を持ち上げると、裏に薄い紙片が貼られている。
【王立慈養院・第七休養棟】
その文字を見た瞬間、舌の奥に鉄の味がした。
「知っているな」
エヴァンが言った。
「九年前、弟が入れられた場所です」
ミロは当時十二歳だった。
触れた魔石の熱を吸い取り、手の中で冷やすことができた。
珍しい魔力だった。
王家の慈善制度を担当する役人は、将来は王立工房で働けると説明した。
両親を亡くしたばかりの私には、弟を学ばせる金がなかった。
私は書類へ署名した。
三日後、ミロは別の施設へ移送された。
移送先として記された建物は、存在しなかった。
「知っていたんですね」
私は紙片から目を離さずに言った。
「何をだ?」
「私の弟が、第七休養棟にいたことです」
「採用時の身辺記録で読んだ」
「それだけではないでしょう?」
沈黙した。
エヴァンの沈黙は、扉より分厚い。
「何年調べていたんです?」
「七年」
「私が巡察院へ入る前から?」
「ああ」
「なぜ黙っていたんです?」
「生存を示す証拠がなかった」
「生きている可能性だけでも、教えるべきでした」
「行き先のない期待を渡して、君に抱えさせるのか?」
「抱えるかどうかは、私が決めます」
「君は抱える。骨まで食い込んでも手放さない」
「それでも、決めるのは私です」
エヴァンはしばらく答えなかった。
やがて、紙片から指を離す。
「……そうだ」
低い声だった。
「君のためだと思って黙っていた。だが、決める権利まで奪ったのは俺だ」
彼は私を正面から見た。
「すまなかった」
この人が謝るところを、初めて見た。
言葉を選ぶのが下手な男だからこそ、逃げずに口にしたのだと分かった。
「謝れば、許されると思っています?」
「思っていない」
「では、覚えておいてください」
「ああ」
「私は、私のことを自分で決めます」
「二度と忘れない」
エヴァンは机に置かれた紙片を、指先で押さえた。
「俺が最初に調べたとき、第七休養棟は、記録上は既に閉鎖されていた。令状を取ろうとした翌日、担当判事が辞職した。その翌週、証言者が河で見つかった」
「だから諦めた?」
「逆だ」
声が低くなった。
「王家が処分できない形まで、証拠を増やすことにした」
「そのために私を採用したんですか?」
「違う」
即答だった。
「君を採用したのは、採用試験で王都長官の不正会計を見つけ、試験問題の余白に告発文を書いたからだ」
「落とされると思いました」
「俺も落としたかった」
「なぜ採ったんです?」
「落とす理由より、採る理由が一つ多かった」
「何です?」
「王家の印を見ても、飾りではなく証拠品として扱える人間だった」
エヴァンは封証布に包まれた留め具を指した。
「第七休養棟へ行く。君は院に残れ」
「同行します」
「命令だ」
「拒否します」
「処分する」
「弟を見つけるために入った職場です。処分されても目的は変わりません」
「知っている」
エヴァンは目を閉じた。
「知っているから、言いたくなかった」
「何をです?」
「一緒に来てくれと」
私はしばらく彼を見た。
「それは命令ですか?」
「頼んでいる」
「聞き慣れない言葉ですね」
「二度言わせるな」
「記録には残します」
「好きにしろ」
◇◆◇
第七休養棟は、王都北端の森に埋もれていた。
窓は煉瓦で塞がれ、門の表札は剥がされている。
廃墟に見えた。
ただし、裏口の錠だけが新しい。
エヴァンが細い針金を取り出す。
「それは巡察院の正規装備ですか?」
「今から正規にする」
「規則を書き換える気です?」
「統括官には提案権がある」
「侵入器具を提案する統括官は初めてでしょうね」
錠が外れた。
建物の内部には埃が少なかった。
壁の燭台には新しい蝋が残り、床には細い車輪跡が続いている。
地下へ降りる階段の前で、エヴァンが止まった。
「前を歩く」
「私が見つけた跡です」
「だから何だ?」
「巡察官の発見を横取りしないでください」
「危険を横取りしている」
「同じようなものです」
「まったく違う」
彼は私の返事を待たず、階段を降りた。
地下には七台の寝台が並んでいた。
どの寝台にも、人が眠っている。
子どもに見えた。
けれど壁の記録板に書かれた入棟日は、最も新しい者でも六年前。
彼らはほとんど年を取っていない。
七台目の寝台に、ミロがいた。
九年前とほとんど変わらない顔。
少しだけ骨張った指。
眠る前に噛む癖のあった、右の親指の爪。
「ミロ」
走り出そうとした私の前へ、エヴァンの腕が出た。
「どいてください」
「床を見ろ」
寝台の周囲に、細い銀線が張り巡らされている。
一歩踏み込めば、魔法陣を断ち切る位置だった。
「装置が停止したら、何が起きるか分からない」
「では、どうすれば?」
「順番に見る」
「弟がそこにいるのに?」
「いるからだ」
エヴァンは私の正面へ立った。
「テッサ。七回息をしろ」
「何ですか、それ?」
「君は怒ると呼吸を忘れる」
「数えたんですか?」
「毎回」
「気持ち悪いですよ」
「五回目」
「まだ二回目です」
「反論できるなら動ける」
私は息を吸った。
吐いた。
七回目が終わる頃には、床の銀線が見えるようになっていた。
装置の中心には、七つの透明な筒がある。
それぞれ寝台へ繋がり、上部で一本の管にまとまっていた。
管の先は、壁の中へ消えている。
寝台脇の記録箱には、七人分の名前と魔力特性が記されていた。
その下に、別の名前が並んでいる。
国王。
王妃。
王太子。
第一王女。
同じ日付で、病状の改善や若返りが記録されていた。
「魔力だけではありません」
私は紙を握った。
「この子たちの時間を取っている」
エヴァンが装置の計器を読む。
「正確には、これから生きるはずだった年月だ。身体を眠らせ、未来だけを抜き取っている」
「だから年を取らない」
「抜かれた年数が尽きたとき、目を覚まさずに死ぬ」
記録の末尾に、次回作動予定日があった。
明日。
王家の戴冠記念祝宴の日。
作動量の欄には、残存分すべて、と記されていた。
ミロの欄には、残存年数三日と記されている。
紙が手の中で鳴った。
「明日まで?」
「ああ」
「止められますか?」
「装置だけを壊せば、全員の時間が一度に途切れる可能性がある。送り先を断つ必要がある」
「送り先は王宮ですか?」
「おそらく」
エヴァンが壁の管を叩く。
「この先にある受け皿を見つける」
私たちは巡察院へ緊急連絡を送った。
到着した魔術師と医師に、七人の状態と装置の計器を一つずつ記録させる。
建物の出入口には巡察官を配置し、施設全体を封鎖した。
「装置には絶対に触れるな」
エヴァンが魔術師たちへ告げる。
「数値に変化があれば、どれほど小さくても報告しろ。七人から目を離すな」
医師が頷き、寝台のそばへ向かう。
私はミロの寝顔を見た。
ここへ残りたかった。
けれど、彼を救うには、ここにいてはいけない。
「行きましょう」
私が言うと、エヴァンは何も言わずに頷いた。
立ち去る前、エヴァンが記録箱の底から小さな手帳を見つけた。
オーデル医師の筆跡だった。
最初の頁には、一文だけ。
【紙は燃やせる。人の口は塞げる。それでも王冠は、受け取った年月を忘れない】
それ以降は、王冠の修理記録と、石の光量についての覚え書き。
王族の病状が回復するたび、王冠の七つの宝石が明るくなっている。
「王冠が受け皿」
私が言った。
「それなら、オーデル医師は王冠を調べた」
エヴァンは手帳と、封証布に包まれた留め具を並べた。
「古い留め具。指についた複写墨。長さの違う七本の線」
「七本の線は、子どもの人数ではない」
「何かの形だ」
「王冠の内部?」
エヴァンが私を見た。
「王立工房へ行く」
◇◆◇
王立工房の地下には、歴代の祭具設計図が保管されていた。
王冠の設計図だけ、中央部分が切り取られている。
だが、設計図の裏に押された管理印から、製作者の名が分かった。
初代王付き金工師、ハン・ヴェルダ。
彼の作業日誌は、王都西区の子孫宅に残されていた。
夜半に扉を叩いた私たちを、老婦人は寝間着姿で迎えた。
「王冠のことなら、祖父の祖父の、そのまた祖父が書いた箱がありますよ」
長い説明のあと、屋根裏から木箱が下ろされた。
中には錆びた工具と、一枚の薄い金属板。
金属板には七本の溝が刻まれている。
六本は同じ長さ。
一番端だけが短い。
オーデル医師が床に残した線と同じだった。
金属板の裏には、古語で説明が刻まれている。
【王冠は授かった年月を内環へ記す。七条の溝を合わせ、始祖の留め具を挿せば、内環は開く】
私は封証布を開いた。
銀の留め具を金属板の端へ当てる。
ぴたりとはまった。
「鍵だった」
「ああ」
「オーデル医師は、王冠の内側からこの形を写し取った」
「だが、開く前に防護術が作動した」
「それで一晩で老いた?」
エヴァンは作業日誌をめくった。
【名を暴こうとする者から、王冠は残りの年月を取り立てる】
オーデル医師は殺されたのではない。
王冠を開こうとして、自分の未来を奪われた。
それでも文書庫まで歩き、鍵と図を残した。
「王冠の中に、全員の記録がある」
「古い魔法は契約を守るために記録を必要とする。王家が紙を消しても、術式そのものは消せない」
「王冠を押収しましょう」
「明日の祝宴では、王妃が着用する」
「頭ごと押収します?」
「報告書が面倒だ。分けろ」
私は笑いかけた。
けれど、右手が震えていた。
エヴァンが気づく。
「手を」
「平気です」
「平気かどうかは聞いていない」
「命令ですか?」
「処置だ」
金属板で切ったらしく、掌から血が出ていた。
エヴァンは私の手を取り、自分のハンカチを巻いた。
結び目が妙に整っている。
「痛みは十段階でいくつだ?」
「三です」
「君は九でも三と言う」
「なら聞く意味がありません」
「声を聞く意味がある」
顔を上げる。
エヴァンは包帯代わりの布を見たままだった。
「統括官」
「何だ?」
「今の言葉、意味を考えて言いました?」
「考える時間がない」
「では、事件のあとで確認します」
「忘れろ」
「巡察官は記録が仕事です」
「不便な部下だ」
「採用したのは、あなたです」
エヴァンは私の手を離さなかった。
老婦人が屋根裏へ戻った音がして、ようやく指が解かれた。
◇◆◇
翌夜、王宮の大広間では戴冠記念祝宴が開かれていた。
病床の国王に代わり、王妃は王冠を戴き、百人を越える貴族の前で杯を掲げている。
王太子は玉座の脇に座っていた。
病弱だと聞いていたが、頬には色が戻っている。
王妃は今夜、彼ら王族のために、七人から残りの年月をすべて吸い上げるつもりなのだ。
私とエヴァンは巡察院の正装で広間へ入った。
楽団の音が止まる。
「祝宴の最中に、何用ですか?」
王妃が尋ねた。
「王室医師オーデル・ハインの死亡事件について、証拠品を押収します」
エヴァンの声は、広間の端まで届いた。
「証拠品?」
「王冠です」
ざわめきが広がった。
王妃は笑った。
「巡察院は、王家の象徴まで盗品扱いするのですか?」
「盗品とは言っていません」
私は答えた。
「人の年月を奪い、オーデル医師を死なせた道具として扱います」
「荒唐無稽ね」
「では、王冠を外し、内部を確認させてください」
「祝宴の最中に外すことはできません」
「儀礼上ですか?」
「王冠の術が途切れます」
言ったあとで、王妃の口元が止まった。
広間が静まる。
私は一歩前へ出た。
「術については、何も申し上げていません」
「古い祭具には、何らかの術があるでしょう」
「何の術です?」
「王家を守る術よ」
「七人の子どもの未来を使って?」
王妃の背後で、王太子が立ち上がった。
「母上」
「黙りなさい」
その一言に、余裕が消えた。
エヴァンが押収令状を開く。
「王都巡察法第十二条。身分、称号、所有者を問わず、人命を奪った疑いのある物は司法管理下へ移す」
「王家の祭具に適用できる法ではない」
「その法を制定したのは初代国王です」
「初代王の法が、現在の王冠へ及ぶと?」
「確かめます」
私は封証布を開き、銀の留め具を示した。
王妃の顔が初めて歪んだ。
「それをどこで?」
「オーデル医師が残しました」
「触れてはならない!」
王妃が王冠へ手を伸ばす。
その動きだけで、十分だった。
王冠に秘密があると、自ら認めたようなものだ。
衛兵が私たちを囲む。
だが、王太子が片手を上げた。
「退け」
「殿下」
「王冠が潔白なら、開けば済む」
王妃が息子を睨む。
「あなたの命を支えているのよ」
「それが子どもの命なら、私のものではない」
王太子が自ら王冠へ手をかけた。
王妃は抵抗したが、周囲の視線の前で振り払うことはできなかった。
王冠が外される。
エヴァンが受け取り、卓上へ置いた。
私は内側を調べた。
七本の細い溝。
端の一本だけが短い。
私は封証布越しに銀の留め具をつまんだ。
床に残された線と同じ向きへ揃え、王冠へ差し込む。
小さな音がした。
封証布の表面を白い火花が走り、消えた。
王冠の防護術だ。
だが、魔法を通さない布までは越えられない。
王冠の内側から、薄い輪がせり出してくる。
金属の表面に、文字が浮かび上がった。
名前。
生年月日。
奪われた年月。
その年月を受け取った王族。
一人、二人ではない。
何代にもわたる、数え切れない名前。
最後の七人の中に、ミロ・ヴァルの名もあった。
受益者の欄には、マルティナ王妃。
王太子レオル。
現国王。
広間の誰も、声を出さなかった。
「王冠は、受け取った年月を忘れない」
私はオーデル医師の言葉を読んだ。
「紙を燃やしても、子どもを眠らせても、ここには残る」
王妃の肩が落ちた。
敗北を認めたのかと思った。
そう見えたのは、一瞬だけだった。
次の瞬間、王冠の七つの石が光った。
王妃が何かを唱えている。
内環に浮かんだ七人の残存年数が、みるみる減り始めた。
第七休養棟の装置が作動したのだ。
「今ここで、残りの年月まで奪う気ですか!?」
「王冠の加護が途絶えれば、この国は割れる!」
王妃の声が広間へ響く。
「七人の平民と、一千万の民。どちらを選ぶべきか、考えるまでもない!」
「私は、王冠を戴く者のいない国を知っています」
王妃の顔から、怒りが一瞬だけ消えた。
「何を言っているの?」
「この世界で目を開けるより前のことです」
私は封証布を広げた。
「そこでも朝は来ました。店は開き、人は働き、誰かが誰かを守っていた。国を生かしていたのは、王冠ではありません」
王冠に差し込んだ留め具から、証拠番号七番の札が揺れた。
「人です」
王冠から白い光が噴き上がる。
エヴァンが私の前へ出た。
「下がれ!」
「統括官こそ!」
「これは命令だ!」
「久しぶりに聞きました!」
私は彼の脇から、封証布を王冠へ被せた。
光が布の内側で膨らみ、すぐに消えた。
封証布は魔法を通さない。
王冠であっても、証拠品になれば同じだった。
「何をしたの?」
王妃が呟く。
「押収です」
私は布の端を縛った。
「王冠を、司法管理下へ移しました」
エヴァンが王妃の前へ立つ。
「マルティナ王妃。未成年者の誘拐、監禁、禁術使用、オーデル・ハインの死亡に関する容疑で拘束する」
「私を誰だと思っているの?」
「被疑者だ」
衛兵たちは動かなかった。
王太子が王妃から視線を逸らす。
私は拘束具を取り出した。
「お手を」
「平民が、私に触れるの?」
「嫌でしたら、ご自分で後ろへ回してください」
王妃は私を睨んだ。
やがて、ゆっくりと両手を背へ回した。
拘束具が閉じる。
その音は、王冠が開いたときより小さかった。
けれど広間にいた全員が聞いた。
◇◆◇
王冠が封じられた翌朝も、日は昇った。
市場は開き、職人は槌を振るい、パン屋からは焼きたての匂いが流れた。
王冠を失っても、国は何事もなかったように動き続けた。
王冠の押収から三か月後。
眠らされていた七人は、順番に目を覚ました。
奪われた年月のすべてを取り戻すことはできなかった。
それでも王立工房と王立治療院が内環の術式を反転させ、王冠に残っていた年月は、それぞれの持ち主へ返された。
国王は、術の存在を知りながら黙認していたとして退位。
王妃付きの書記官を含む関係者は、証拠隠滅や禁術への加担を問われ、王妃とともに王都司法院で裁かれることになった。
王太子は即位を保留し、臨時評議会に政務を委ねた。
王宮の祭具と診療記録は、すべて巡察院の管理下へ置かれた。
ミロが目を覚ましたのは、七人の中で最後だった。
「姉さん」
九年ぶりに呼ばれた。
私は返事をしようとして、声が出なかった。
代わりに弟の手を握る。
ミロは眠る前と同じ顔で、少し困ったように笑った。
「手、痛い」
慌てて力を緩める。
「ごめんなさい」
「姉さんが謝るの、初めて見た」
「失礼ね」
「隣の人は誰?」
振り返る。
病室の壁際に、エヴァンが立っていた。
毎朝来ていたくせに、ミロが目を覚ました途端、存在を薄くしようとしている。
「上司です」
私が答えると、エヴァンの眉がわずかに動いた。
「それだけ?」
ミロが尋ねた。
「今のところは」
「今のところ?」
「病人は休んでください」
「姉さん、顔が赤いよ」
「熱が移ったのかもしれません」
「僕、熱ないけど」
エヴァンが咳払いした。
「巡察官。外で報告を」
「今、弟と話しています」
「私的な報告だ」
ミロが面白そうに笑う。
「行ってきたら」
「ミロまで」
「九年待ったから、少しくらい待てるよ」
私は弟の額へ触れ、病室を出た。
廊下の窓から、午後の光が入っていた。
エヴァンは壁際に立ち、紙袋を持っている。
「報告とは?」
袋を渡された。
中には胡椒入りの丸パンが二つ。
どちらもまだ温かい。
「証拠品ですか?」
「違う」
「任意提出?」
「違う」
「では何です?」
「三か月前の返還だ」
「私のパンは、あなたが食べましたよね」
「だから買った」
「一つで十分です」
「一つは俺の分だ」
「一緒に食べるつもりですか?」
「ああ」
「勤務中ですよ」
「今日は休暇を取った」
私は彼の顔を見た。
「統括官が?」
「制度を確認したら、俺にも使えるらしい」
「試験範囲ではなかったんですか?」
「作った者が働きすぎだったのだろう」
エヴァンは窓辺の長椅子を指した。
二人で座る。
紙袋を開き、パンを一つずつ取った。
私は一口食べた。
三か月前と同じ味だった。
「それで、私的な報告とは?」
「君の弟が見つかったら、俺の仕事は終わると思っていた」
「まだ裁判があります」
「事件の話ではない」
「では?」
エヴァンはパンを持ったまま黙った。
「統括官」
「急かすな。言葉を選んでいる」
「王妃を逮捕するときは、迷いませんでしたよ」
「王妃は俺の返事を待たない」
「私なら待つと?」
「待たせたくない」
彼はパンを袋へ戻した。
「君が無事に戻るたび、安心する時間が長くなった」
「普通は短くなるのでは?」
「最初は一分だった。今は次に会うまで続く」
私は何も言えなかった。
エヴァンは視線を窓の外へ向けた。
「これは命令ではない」
「分かっています」
「任務でもない」
「はい」
「次の休暇も、君の隣の席をもらいたい」
「一席だけですか?」
彼がこちらを見る。
「不足か?」
「弟の分も必要です」
「三人で?」
「最初は」
「次は?」
「働き次第です」
「評価基準は?」
「言葉を選ぶのに三か月かけないこと」
「難しいな」
「王冠を逮捕した人でしょう?」
「君が逮捕した」
「では、その助手として努力してください」
エヴァンが笑った。
仕事中には見せない笑い方だった。
「テッサ」
「何です?」
「次は、死体のない朝食にする」
「約束できます?」
「できない」
「即答ですね」
「死体が出たら、パンを持って行く」
「私の分まで食べないでください」
「今度は、最初から二つ買う」




