聖女は何も知らなかった
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白く華奢な手が、少しだけ膨らんだお腹をゆるゆると撫でる様を見て。
あたしは愕然と立ち竦む。
なぜ?どうして?
この女は、死んだのではなかったのか?
その指先は、まるで確かめるように、愛おしむように。
ゆっくりと腹部をなぞっている。
生きている人間の、呼吸のリズムを伴って。
あり得ない。
喉がひくりと鳴る。
声を出そうとしても、空気だけが漏れて形にならない。
──だって、この女は
あの日、確かに。
あたしの目の前で、息を引き取ったはずだ。
確かにこの目で、首が落ちたところを見たのだから。
「……どうかなさいまして?」
不意に、女が口を開いた。
その声音は、記憶の中と寸分違わない。
柔らかく、どこか気だるげで、それでいて妙に現実味を帯びている。
あたしの背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。
「な、んで……」
やっと絞り出した声は、情けないほど掠れていた。
女は、ふっと微笑む。
その笑みは、生前と同じ──いや、それ以上に静かで、底知れないものを含んでいる。
「まあ、何も知らずにいらしたのね」
からかうように言いながら、彼女はもう一度、自分の腹を撫でた。
その仕草に、あたしの視線は釘付けになる。
ほんのわずかに膨らんだ腹。
見間違いなんかじゃない。
「おかわいそうに」
女は、あたしの視線に気づいたように呟く。
その言葉の意味を理解する前に、空気が変わった。
部屋の温度が、すっと下がる。
息が白くなるほどではない。
けれど、確実に“何か”が違う。
「なにも知らず、なにも気付かず」
女が、ゆっくりと首を傾げる。
「生きていれば、幸せだったでしょうに」
その目は、まっすぐあたしを捉えているのに。
どこか、あたしじゃない“別の何か”を見ているようでもあった。
逃げなきゃいけない。
そう思うのに、足が動かない。
まるで床に縫い付けられたみたいに、指一本すら動かせない。
女の手が、再び腹を撫でる。
「王太子妃殿下がお帰りよ」
お送りして差しあげて。
囁くように紡がれた言葉に、呼応するように。
背景と化していた女たちが滑るように動き出す。
「触らないでッ!」
腕を取ろうとする手から逃れながら、女に駆け寄る。
あと数歩、というところで腕を捕まれ、進めなくなった。
「離っ!」
「落ち着いて」
耳元を擽る聞き覚えのある声音にゾッとした。
恐る恐る振り替えれば、そこには夫の姿。
腕を掴んでいたのは近衛兵。
「ウ、ウィル」
「なんだい、メアリー」
にこにこ、といつも通りの笑顔に安堵の息が漏れる。
ああ、よかった。
「ウィル、どうしてここにヴィクトリアがいるの?」
「彼女は処刑されたよ。君も見ただろう?」
「でも!今あたしの目の前にいるじゃない!!」
ウィリアムに詰め寄ろうとしても、捕まれた腕のせいで動けない。
振り払おうとしても、びくともしない。
「離しなさいよ!あたしを誰だと思ってるの!?」
近衛兵に向かって声を張り上げるが、全く反応がない。
「……メアリー」
ウィリアムが、困ったように小さく笑う。
まるで子どもを諭すみたいに。
「落ち着いて、メアリー」
そっと肩を包まれ、ウィリアムを見上げる。
太陽を背にした彼の表情が、少し暗い。
「疲れてるんだね?部屋に戻って休もう」
「誤魔化さないでウィル!どうしてヴィクトリアが生きてるの!?」
はあ、と大きな息が落ちてきた。
「……やっぱり、無理か」
天を仰いだウィリアムがぽつりと零した言葉は、あたしに向けられたものじゃないみたいだった。
「ウィル……?」
嫌な予感が、じわじわと胸の奥を侵していく。
ウィリアムは、もう一度だけ小さく嘆息して。
それから、困ったように笑った。
「君は、本当に厄介だなぁ」
ぞくり、と背筋が粟立つ。
さっきまでと同じ声。
同じ表情。
なのに、決定的に“何か”が違う。
「……なに、それ」
「そのままの意味だよ」
あまりにもあっさりと返されて、言葉を失う。
「ヴィクトリアが死んだと、どうしてそう思ったの?」
「だって!だって……あたし、この目で…っ!」
「うん。見たね」
遮るように頷かれて、息が詰まる。
「よく出来ていただろう?」
──理解が、追いつかない。
「は…?」
間の抜けた声が漏れる。
ウィリアムは、ほんの少しだけ肩を竦めた。
「君の前で処刑されたのは、彼女じゃないよ」
その言葉が、ゆっくりと頭の中に沈んでいく。
沈んで──沈んで。
底に触れた瞬間、ぐにゃりと世界が歪んだ。
「……え?」
「替え玉だよ」
当然だろう、と。
事も無げにあっさりと告げられた事実に、膝から力が抜ける。
「な……んで……そんな……」
「必要だったんだ」
何でもないことのように言い切られて、呼吸が乱れる。
「ヴィーをあのまま失うわけにはいかなかった」
その声音は、穏やかで。
けれど一切の迷いがなかった。
「じゃ、じゃあ……じゃあ、あたしは?」
震える声で、やっとそれだけを絞り出す。
ウィリアムは、少しだけ目を細めた。
その視線は優しくて。
けれど、どこか遠い。
「君は、“聖女”だろう?」
答えになっていない答え。
なのに、それが全てを物語っていた。
「?どう、いう?」
苦しい。
空気が薄いように感じる。
「そもそも、君がヴィーを排除しようとしなければ、こんな面倒なことをする必要がなかったんだ」
ひどい。
そう思ったはずなのに。
どうしてか、反論の言葉が出てこない。
「だって!……だって、ヴィクトリアは悪役令嬢で…っ!」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
ウィリアムは一瞬だけ、きょとんとした顔をして。
それから、小さく笑った。
「悪役令嬢?」
その響きを、まるで知らない言葉みたいに繰り返す。
「なんだい?それ。誰が決めたの?」
心臓が、どくんと大きく跳ねた。
「君がそう思ったから?それとも、誰かにそう聞いたから?」
「ち、違……だって、ヴィクトリアは……」
言葉が、続かない。
思い出そうとするほどに。
自分の中の“確信”が、形を失っていく。
「彼女は、ただ自分の立場を守ろうとしただけだよ」
婚約者にすり寄る人間がいたら、牽制するのは当然だろう?と。
穏やかな声音。
責める色はない。
けれど、それが余計に残酷だった。
「君が貴族としての立ち位置から逸脱してから、ずっとね」
ずっと。
その一言が、妙に重く響く。
「……あたし、が……?」
「そう」
あっさりと肯定される。
婚約者のいる男性に、みだりに近付いてはいけない、と。
緊急時を除いて、下の者から声を掛けてはいけない、と。
ヴィクトリアから告げられた言葉は全て、ただの嫉妬だと思っていた。
「でも、君は“聖女”として呼ばれた」
聖女に阿ようとする愚か者たちが、家格も無視してヴィクトリアを蔑むようになった。
君に倣うように。
だから。
民衆に希望を見せるために。
貴族たちを黙らせるために。
国外への牽制のために。
指折り数えるように並べられる言葉に、頭がくらくらする。
「便利だったよ、メアリー」
にこりと笑う。
あの、優しい顔のままで。
「だから、王太子妃の座も用意した」
──用意、した。
「でも、それだけだ」
とん、と。
軽く肩を叩かれる。
まるで、本当に“それだけのこと”だと言うみたいに。
「君は妃としての役目は、何一つできなかった」
形だけ整えられたのは、慰問くらいか。
視界の端で。
ヴィクトリアが、静かにこちらを見ていた。
腹を撫でる手は、止まらない。
「慰問に行っても、勝手に炊き出しだのなんだの。問題を起こしてばかりだっただろう」
「だって!」
だって、孤児院の子どもたちが痩せ細っていて、かわいそうだったもの。
「私財もないのに?国庫を当てにされるのは困るんだよ」
眉を下げて微笑むウィリアムの手が離れる。
追いかけるように、腕を上げる。
「だから、これ以上は──」
ウィリアムの声が、すぐ耳元で落ちる。
「いらない」
ああ、あたしは──。
なにを信じていたんだろう。
あたしが信じていたものは、なにも──。
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