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聖女は何も知らなかった

作者: いかも真生
掲載日:2026/04/17

ご訪問ありがとうございます

※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています

白く華奢な手が、少しだけ膨らんだお腹をゆるゆると撫でる様を見て。

あたしは愕然と立ち竦む。

なぜ?どうして?

この女は、死んだのではなかったのか?

その指先は、まるで確かめるように、愛おしむように。

ゆっくりと腹部をなぞっている。

生きている人間の、呼吸のリズムを伴って。

あり得ない。

喉がひくりと鳴る。

声を出そうとしても、空気だけが漏れて形にならない。


──だって、この女は


あの日、確かに。

あたしの目の前で、息を引き取ったはずだ。

確かにこの目で、首が落ちたところを見たのだから。


「……どうかなさいまして?」


不意に、女が口を開いた。

その声音は、記憶の中と寸分違わない。

柔らかく、どこか気だるげで、それでいて妙に現実味を帯びている。

あたしの背筋に、ぞわりと冷たいものが走った。


「な、んで……」


やっと絞り出した声は、情けないほど掠れていた。

女は、ふっと微笑む。

その笑みは、生前と同じ──いや、それ以上に静かで、底知れないものを含んでいる。


「まあ、何も知らずにいらしたのね」


からかうように言いながら、彼女はもう一度、自分の腹を撫でた。

その仕草に、あたしの視線は釘付けになる。

ほんのわずかに膨らんだ腹。

見間違いなんかじゃない。


「おかわいそうに」


女は、あたしの視線に気づいたように呟く。

その言葉の意味を理解する前に、空気が変わった。

部屋の温度が、すっと下がる。

息が白くなるほどではない。

けれど、確実に“何か”が違う。


「なにも知らず、なにも気付かず」


女が、ゆっくりと首を傾げる。


「生きていれば、幸せだったでしょうに」


その目は、まっすぐあたしを捉えているのに。

どこか、あたしじゃない“別の何か”を見ているようでもあった。

逃げなきゃいけない。

そう思うのに、足が動かない。

まるで床に縫い付けられたみたいに、指一本すら動かせない。

女の手が、再び腹を撫でる。


「王太子妃殿下がお帰りよ」


お送りして差しあげて。

囁くように紡がれた言葉に、呼応するように。

背景と化していた女たちが滑るように動き出す。


「触らないでッ!」


腕を取ろうとする手から逃れながら、女に駆け寄る。

あと数歩、というところで腕を捕まれ、進めなくなった。


「離っ!」

「落ち着いて」


耳元を擽る聞き覚えのある声音にゾッとした。

恐る恐る振り替えれば、そこには夫の姿。

腕を掴んでいたのは近衛兵。


「ウ、ウィル」

「なんだい、メアリー」


にこにこ、といつも通りの笑顔に安堵の息が漏れる。

ああ、よかった。


「ウィル、どうしてここにヴィクトリアがいるの?」

「彼女は処刑されたよ。君も見ただろう?」

「でも!今あたしの目の前にいるじゃない!!」


ウィリアムに詰め寄ろうとしても、捕まれた腕のせいで動けない。

振り払おうとしても、びくともしない。


「離しなさいよ!あたしを誰だと思ってるの!?」


近衛兵に向かって声を張り上げるが、全く反応がない。


「……メアリー」


ウィリアムが、困ったように小さく笑う。

まるで子どもを諭すみたいに。


「落ち着いて、メアリー」


そっと肩を包まれ、ウィリアムを見上げる。

太陽を背にした彼の表情が、少し暗い。


「疲れてるんだね?部屋に戻って休もう」

「誤魔化さないでウィル!どうしてヴィクトリアが生きてるの!?」


はあ、と大きな息が落ちてきた。


「……やっぱり、無理か」


天を仰いだウィリアムがぽつりと零した言葉は、あたしに向けられたものじゃないみたいだった。


「ウィル……?」


嫌な予感が、じわじわと胸の奥を侵していく。

ウィリアムは、もう一度だけ小さく嘆息して。

それから、困ったように笑った。


「君は、本当に厄介だなぁ」


ぞくり、と背筋が粟立つ。

さっきまでと同じ声。

同じ表情。

なのに、決定的に“何か”が違う。


「……なに、それ」

「そのままの意味だよ」


あまりにもあっさりと返されて、言葉を失う。


「ヴィクトリアが死んだと、どうしてそう思ったの?」

「だって!だって……あたし、この目で…っ!」

「うん。見たね」


遮るように頷かれて、息が詰まる。


「よく出来ていただろう?」


──理解が、追いつかない。


「は…?」


間の抜けた声が漏れる。

ウィリアムは、ほんの少しだけ肩を竦めた。


「君の前で処刑されたのは、彼女じゃないよ」


その言葉が、ゆっくりと頭の中に沈んでいく。

沈んで──沈んで。

底に触れた瞬間、ぐにゃりと世界が歪んだ。


「……え?」

「替え玉だよ」


当然だろう、と。

事も無げにあっさりと告げられた事実に、膝から力が抜ける。


「な……んで……そんな……」

「必要だったんだ」


何でもないことのように言い切られて、呼吸が乱れる。


「ヴィーをあのまま失うわけにはいかなかった」


その声音は、穏やかで。

けれど一切の迷いがなかった。


「じゃ、じゃあ……じゃあ、あたしは?」


震える声で、やっとそれだけを絞り出す。

ウィリアムは、少しだけ目を細めた。

その視線は優しくて。

けれど、どこか遠い。


「君は、“聖女”だろう?」


答えになっていない答え。

なのに、それが全てを物語っていた。


「?どう、いう?」


苦しい。

空気が薄いように感じる。


「そもそも、君がヴィーを排除しようとしなければ、こんな面倒なことをする必要がなかったんだ」


ひどい。

そう思ったはずなのに。

どうしてか、反論の言葉が出てこない。


「だって!……だって、ヴィクトリアは悪役令嬢で…っ!」


かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。

ウィリアムは一瞬だけ、きょとんとした顔をして。

それから、小さく笑った。


「悪役令嬢?」


その響きを、まるで知らない言葉みたいに繰り返す。


「なんだい?それ。誰が決めたの?」


心臓が、どくんと大きく跳ねた。


「君がそう思ったから?それとも、誰かにそう聞いたから?」

「ち、違……だって、ヴィクトリアは……」


言葉が、続かない。

思い出そうとするほどに。

自分の中の“確信”が、形を失っていく。


「彼女は、ただ自分の立場を守ろうとしただけだよ」


婚約者にすり寄る人間がいたら、牽制するのは当然だろう?と。

穏やかな声音。

責める色はない。

けれど、それが余計に残酷だった。


「君が貴族としての立ち位置から逸脱してから、ずっとね」


ずっと。

その一言が、妙に重く響く。


「……あたし、が……?」

「そう」


あっさりと肯定される。

婚約者のいる男性に、みだりに近付いてはいけない、と。

緊急時を除いて、下の者から声を掛けてはいけない、と。

ヴィクトリアから告げられた言葉は全て、ただの嫉妬だと思っていた。


「でも、君は“聖女”として呼ばれた」


聖女に阿ようとする愚か者たちが、家格も無視してヴィクトリアを蔑むようになった。

君に倣うように。

だから。

民衆に希望を見せるために。

貴族たちを黙らせるために。

国外への牽制のために。

指折り数えるように並べられる言葉に、頭がくらくらする。


「便利だったよ、メアリー」


にこりと笑う。

あの、優しい顔のままで。


「だから、王太子妃の座も用意した」


──用意、した。


「でも、それだけだ」


とん、と。

軽く肩を叩かれる。

まるで、本当に“それだけのこと”だと言うみたいに。


「君は妃としての役目は、何一つできなかった」


形だけ整えられたのは、慰問くらいか。

視界の端で。

ヴィクトリアが、静かにこちらを見ていた。

腹を撫でる手は、止まらない。


「慰問に行っても、勝手に炊き出しだのなんだの。問題を起こしてばかりだっただろう」

「だって!」


だって、孤児院の子どもたちが痩せ細っていて、かわいそうだったもの。


「私財もないのに?国庫を当てにされるのは困るんだよ」


眉を下げて微笑むウィリアムの手が離れる。

追いかけるように、腕を上げる。


「だから、これ以上は──」


ウィリアムの声が、すぐ耳元で落ちる。


「いらない」


ああ、あたしは──。

なにを信じていたんだろう。

あたしが信じていたものは、なにも──。


ご一読いただき、感謝いたします

少しでも楽しんでいただけましたら、評価やご感想をいただけますと幸いです

リアクションや感想はすべて拝読しており、執筆の糧とさせていただいております

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