8. ゆっくりと解けて
他の客たちは何が起きたのかわからず、きょとんとしている。
「酔って……精神が乱れると、出ちゃうみたいなのよね」
リーシェは何事もなかったかのようにワインを一口含んだ。
「そ、それ、まずくないっすか……?」
トトが青ざめた顔で、がたがたと膝を震わせながら立ち上がる。
「それ……もし姐さんが寝てる時とか、もっとヤバいの出てきたらどうすんですか……?」
「そん時はそん時よ……」
リーシェはどうでもいいことのように言い放ち、ワイングラスを傾ける。その口調はいつも通り気怠く、自分の命すら他人事のようだった。
「いや、ちょっと……えぇ……?」
トトは眉をひそめた。
なんという凄まじい魔法だろう。怖い。正直に言えば、今の光景は心底怖かった。音が消えたあの瞬間、世界から自分だけが切り離されたような感覚。これが戦場で、敵から収納魔法を向けられたなら――想像するだけで背筋が粟立つ。
けれど、それ以上にトトの胸を締めつけたのは、別のことだった。
リーシェの「そん時はそん時」という言葉。あれは本当に、自分がどうなってもいいと思っているのだ。この人は、自分の命に無頓着すぎる。生きることに本当に執着がないのだ。
それが、たまらなく心配だった。
「カモミール飲めば落ち着くんだけど……今日はちょっと、色々あったから」
色々。
たった二文字。リーシェはそれ以上語らなかった。追放され、噂を流され、ギルドで門前払いを受け、どこのパーティにも受け入れてもらえない。でも、この人は愚痴ひとつ零さない。
零さないのではなく、零し方を知らないのかもしれない。
トトはキュッと唇を結んだ。
「じゃあ俺の料理も効くかもしれないっすね!」
何かしなければと思った。今、この瞬間に、この人のために自分ができることを。
少し考え――トトはぱっと顔を輝かせた。
「ちょっと待っててください! 新作、出しますから!」
ウインクをひとつ投げて、厨房に駆け込んでいく。
リーシェはふふっと小さく笑った。ほんの少しだけ目元が緩んで、それはこの世界に来てから誰にも見せたことのない表情だったかもしれない。
グラスの中で、ルビー色のワインが、ランプの灯りを受けてきらりと揺れた。
◇
しばらくして、トトが湯気の立つ皿を両手で捧げるように持ってきた。
ハーブと鶏肉のスープだった。澄んだ黄金色の液体に、細かく刻まれたハーブと白い鶏肉が浮かんでいる。立ち上る湯気の向こうに、トトの自信に満ちた笑顔が見えた。
「どうぞ、姐さん。心が落ち着くハーブをたっぷり使ったんす。カモミールの代わりになるかはわかんないすけど……」
リーシェはスプーンを手に取り、一口含んだ。
――温かい。
舌の上に広がるのは、澄んだ鶏の旨味と、ほのかに甘いハーブの香り。それが喉を通り、胸の奥まで、じんわりと沁みていく。冷たく凍えていた身体の芯が、張り詰めていた何かが、ゆっくりと解けていくのがわかった。
ざわついていた心が、凪いでいく。
収納空間の中でうずくまるゴブリンも、ガルドの醜い罵声も、ギルドで向けられた冷たい視線も――遠くなる。スープの温もりに押し流されるように、すべてが遠くへ。
「……美味しいわ」
ぽつりと零れた言葉は、先ほどまでの気怠い声とは少し違っていた。
「よっしゃ!」
トトが小さくガッツポーズをする。その喜びようが、まるで世界一の褒め言葉をもらったかのようで、リーシェは不思議に思う。たった一言で、なぜこんなに嬉しそうにできるのだろう?
「本当に美味しかったわよ? ぜひ、メニューに加えて?」
リーシェが小首をかしげると、トトは一瞬嬉しそうにしたが、すぐに表情を曇らせた。
「大将に話してみますが……しばらくは難しい……かも」
トトはそう言って、店内をぐるりと見回した。リーシェもつられて視線を巡らせる。
いつもなら、この時間帯は冒険者たちで賑わっているはずだった。ダンジョンから戻った冒険者たちが戦利品の自慢をし、酒を酌み交わし、明日の計画を語り合う。そんな喧騒が、この食堂の夜の景色だったはずだ。
だが今夜は、数えるほどしか客がいない。空いたテーブルが寒々しく並び、厨房から漂う料理の香りだけが、行き場を失ったように食堂の中をさまよっている。
トトの表情が曇る。
「それが……どうもギルドの方から、うちの宿を避けるようにって指示が出てるらしいんすよ」
「え? なんで?」
「姐さんへの嫌がらせじゃないですかね……姐さんがここに泊まってるの、あいつら知ってますから」
リーシェは言葉を失った。
スプーンが、止まる。
自分のせいだ。この宿に迷惑をかけてしまっている。トトの料理が美味しいから、ここが居心地がいいから、ただそれだけの理由で居座り続けた結果がこれだ。トトや、宿の大将や、他の従業員たち。何も悪くない人たちが、自分のせいで割を食っている。




