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美少女荷物持ちの収納魔法【ナイナイ】が実は世界最凶だった件 ~魔王すら瞬殺だけど、カモミールを飲んでいたいの~  作者: 月城 友麻


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72. 美しき星【レテS】

 リリカは後ずさり――へなへなと、地面に座り込んだ。


 杖を落としたことにも気づかない。ただ、震える手で自分の胸を押さえている。


「あらあら」


 シアンが、くすりと笑った。


 碧い瞳が、崩れ落ちた二人を見下ろしている。リーシェと、リリカ。割れた魂の、二つの欠片。


 六枚の翼が、微かに揺れた。光の粒子が舞い散り、時間の止まった世界の中で、金粉のようにきらきらと漂っている。


 全ては――この女性との邂逅(かいこう)が、始まりだったのだ。



        ◇



 一年数か月前のこと、決して交わらない別の宇宙、別の星――――。


 空の色が、淡い桃色だった。


 雲の形も違う。大気に含まれる光の粒子が違う。


 星の名は【レテS】。


 洗練された文明と高尚な文化を誇る、美しい星。数万年の歴史の中で争いを克服し、芸術と知性の極致を追い求めてきた世界。空は淡い桃色をたたえ、大地には幾何学的に整えられた都市が広がり、建築の一つ一つが芸術品のように優美な曲線を描いていた。この星の住人たちは直線を「怠惰な線」と呼び、直線がほとんどないのだ。全ての構造物が曲線で構成され、光と風を最も美しく受け止める角度で設計されていた。


 その星の、とある丘の上。


 白亜の邸宅が、柔らかな日差しの中に佇んでいた。


 邸宅を囲む庭は広大で、花壇には大輪の花々が色とりどりに咲き誇っている。白い花、薄紫の花、淡い金色の花。風が吹くたびに花弁が揺れ、甘い芳香が桃色の空に溶けていく。


 その庭に面した演奏室は、天井が高く、三方の壁が硝子張りになっていた。外光がたっぷりと注ぎ込み、白い大理石の床が柔らかく輝いている。室内を風が通り抜け、カーテンがふわりとたなびく。


 部屋の中央に、漆黒のグランドピアノ。


 その前に座るのは、アカデミーの才媛と呼ばれる黒い髪の少女。


 十七歳のリーシェ。


 ――ただし、今の彼女ではない。


 瞳が違う。あの無気力で、タルいと呟き続ける少女ではない。黒い瞳に強い光が宿り、口元にはかすかな自信の笑みが浮かんでいる。背筋は伸び、指先は鍵盤の上で優雅に待機している。生命力に満ちた、輝く少女がそこにいた。


 白い指がゆったりと鍵盤へと降りていき――最初の和音が、空気を震わせた。


 柔らかく、透き通った音色。水面に落ちた雫が波紋を広げるように、旋律が演奏室に広がっていく。


 リーシェの指が舞い始めた。


 右手が旋律を紡ぎ、左手が和声を支える。音符の一つ一つが呼吸するように膨らみ、縮み、重なり合い、離れていく。曲は穏やかな序奏から始まり、やがて中間部で静かに高揚し、再び凪の水面に還っていく。


 それはまさに神の音楽だった。


 五千年の歴史を持つ【レテS】の音楽が到達した、一つの究極の形。無駄な音が一つもない。装飾も、誇張も、過剰な感情もない。ただ純粋な美だけが、音の粒子となって空間を満たしていく。庭に咲き誇る花々が風に揺れるのを止め、鳥たちが枝の上で羽を休め、桃色の空すらも一段と柔らかく凪いだように見えた。


 リーシェには、アカデミーの誰も知らない番号がある。


 4837-S。


 それが、リーシェに与えられた識別番号だった。この星系を創造した神族――女神レテの、四千八百三十七番目のクローン。そしてSは、この星レテSで生まれたことを示す符号。


 それがリーシェという存在の、最も根源的な定義だった。



         ◇



 始まりは、約五万年前に遡る。


 かつてこの宇宙に一つの種族がいた。名もなき文明。だがその知性は、宇宙そのものの構造に手を伸ばすほどに鋭く、深かった。


 彼らは素粒子の研究を重ね、量子力学の実験を繰り返した。粒子を砕き、砕いた粒子をさらに砕き、物質の最小単位を追い求めた。加速器を巨大化させ、信じられないほど膨大なエネルギーを注ぎ込み、原子の奥の奥のさらに奥を覗き込もうとした。


 だが、突き詰めれば突き詰めるほど、謎は深まるばかりだった。


 粒子は観測するたびに異なる振る舞いを見せた。一つの粒子が二つの場所に同時に存在し、観測した瞬間に片方が消えた。離れた粒子同士が光よりも速く情報を共有し、因果律そのものを嘲笑うかのように振る舞った。


 どんなに巨大な加速器を作っても。どんなに膨大なエネルギーを注いでも。根源の理論は構築できなかった。まるで宇宙が解き明かされることを拒んでいるかのように――。


 そしてある日――。


 一人の理論物理学者が、研究室の片隅で膨大な数式の海に溺れていた。


 三日三晩、まともな食事も取らずに計算し続けていた。机の上には書き潰したノートが山のように積み上がり、床にはくしゃくしゃに丸めた紙が散乱している。血走った目で数式を睨み、消しては書き、書いては消し、ほとんど正気とは思えない執念で、宇宙の根源に迫ろうとしていた。


 そして、ある一つの数式を書き終えた瞬間。


 ペンが、止まった。


 数秒間、男は自分が書いた数式を見つめていた。まばたきを忘れていた。呼吸すら忘れていた。


「こ、これだ……」


 声が震えていた。





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