7. 逃げ出す緩み
「そしたら姐さんが、俺の作った賄い食べて、嬉しいこと言ってくれたんす」
「何か言ったっけ? 私……」
「えー?! 忘れたんすか? 『今までで一番美味い』って言ってくれたじゃないっすか!」
「ふふっ、そうだったかしら?」
リーシェはワイングラスを傾け、かすかに笑みを浮かべた。
あの日のことは、忘れられない。白く弾けた視界。舌の上に広がった、この世界で初めての『味』――。
「ほんとは、覚えてんでしょ?」
トトはニコッと笑ってリーシェの顔をのぞきこむ。
「どうだったかしら?」
リーシェはふふっと鼻で笑って、窓の外へと視線を流す。
「あの一言で救われたんす。本当に」
トトの声が、少しだけ静かになった。
「冒険者として失敗して、借金まみれで、俺なんか生きてる意味あんのかなって、正直そう思ってたんすよ。でも姐さんがあの一言を言ってくれた時――ああ、俺にも誰かを幸せにできることがあるんだって。この手で作ったもので、誰かの心を動かせるんだって。そう思えたんす」
リーシェは少し驚いた。
自分はただ、思ったことを口にしただけだ。あの時も今も、トトの料理は美味しい。色を失った世界の中で、たったひとつだけ鮮やかに輝く皿。それを一言伝えただけなのに。
けれど――その「ただの一言」が、目の前の青年の人生を変えたのだ。
自分の言葉にそんな力があるとは、思ってもみなかった。この自分が、誰かを救うなんて。
「……そう」
リーシェの声は平坦だったが、グラスを持つ指先が、ほんのわずか震えていた。
「そうなんすよ! だから俺、姐さんの力になりたいんす!」
トトの目は真っ直ぐだった。曇りのない、純粋な瞳。こんなふうに誰かを想える人間が、この世界にはいるのだ。
(この子、いい子ね……ちょっとうるさいけど)
「姐さんは今日も薬草取りだったんですか? 大丈夫なんすか? 一人で大変じゃないすか?」
「ああ、ゴブリン出てきたりするのよ。困るわ……」
「えぇぇぇぇっ!? だ、だ、だ、大丈夫……だったんすか?」
トトの顔が一瞬で青ざめた。ゴブリンは分類上こそ下位の魔物だが、それでも魔物は魔物だ。鋭い爪と武器を持ち、群れで襲いかかる狡猾さもある。戦闘の心得がなければ、命を落とす人も珍しくない。
だが、リーシェは何でもないことのように答える。
「大丈夫よ。収納したから」
「……へ?」
トトは固まった。
収納。魔物を、収納?
その二つの言葉がトトの頭の中で噛み合わない。死体や素材を収納袋にしまうことはあっても、生きた魔物を収納するなど聞いたことがない。そもそも生物は収納できないというのが、この世界の常識だった。
「『ナイナイ』って収納したの。まだ生きてるわよ。見る?」
「だ、出さなくて大丈夫っす……」
トトは両手を大袈裟に振って制止した。その困惑しきった顔を見て、リーシェの唇がかすかに綻ぶ。この反応は嫌いじゃない。
「でも……最近ちょっと調子悪いのよね……」
「……調子?」
「そう。こうやって酔っぱらっていい気分で、気を抜いてため息でもついたりしたら……」
「ど、ど、ど、どうなるん……すか?」
トトの声が裏返る。リーシェはグラスを揺らしながら、いたずらっぽくうっすらと微笑んだ。酔いのせいか、いつもの無表情に、ほんのわずかな悪戯の色が差している。
「ふふっ、どうなるかしらねぇ……。はぁ……」
リーシェが吐息を漏らした――その瞬間だった。
本当に、何の前触れもなく。
カウンターの上に、緑色の影が出現した。
「ギギッ!?」
ゴブリンだった。
収納していたはずのゴブリンが、突然姿を現したのだ。小柄な醜い身体。ぎょろりとした黄色い目。いきなり酒場のカウンターに放り出されて、状況が把握できずきょろきょろと周囲を見回している。
「うわぁぁぁ!?」
トトが悲鳴を上げた。後ろにひっくり返り、派手に尻餅をつく。
「何で出てきちゃうのよぉ……はぁ……」
リーシェは眉ひとつ動かさず、白い手をかざした。
「ナーイナイ」
可愛らしい掛け声。
すぅ、と。
世界から音が消えた。
ゴブリンが開きかけた口から、叫びが生まれることはなかった。トトの荒い息づかいも、客たちのざわめきも、暖炉の薪が爆ぜる音さえも――一切が吸い込まれるように消失する。
そして、ゴブリンの姿が空間ごと指先に呑まれていった。
絶望的な静寂が、一瞬だけ食堂を支配する。
心臓の音すら聞こえない、完全な無音。まるで世界そのものが水中にもぐったかのような――。
その静寂の中で、トトはリーシェの横顔を見ていた。ランプの灯りに照らされた白い頬。長い黒髪。微動だにしない漆黒の瞳。美しく――そして、恐ろしかった。
次の瞬間、堰を切ったように日常の音が戻ってくる。グラスの触れ合う音。遠くの笑い声。暖炉の薪が爆ぜる小さな音。それらが一斉に耳に流れ込んできて、トトはようやく、自分が息を止めていたことに気づいた。




