6. 初めての『味』
いつものことだ。この世界の食べ物は、どれもこんな感じなのだ。形はある。匂いもある。だが、舌の上で何の感動も生まれない。栄養を摂取しているという事実だけが、虚しく胃の中に落ちていく。
リーシェは静かにスプーンを置き、ため息をついた。
半分ほど残った皿を、感慨もなく眺める――。
そんな様子を見ていた筋肉質の青年が、厨房から出てきてニコニコしながら話しかけてきたのだ
「お嬢さん、はい、今日の賄い。これ、試してみてもらえる? このシチューは自信作なんすよ」
素朴な器を差し出した。茶色い髪を短く刈り込んだ、人懐っこい笑顔の男だった。
リーシェは期待せずに受け取った。どうせいつもと同じだ。砂を噛むような味。形だけの食事。そう思いながら、スプーンを口に運んだ。
――瞬間、視界が白く弾けた。
温かい。
懐かしい。
誰かの手の、ぬくもり。
舌の上に広がる味が、胸の奥深くまで染み込んでいく。野菜の甘み、肉の旨味、香草の優しい香り。それらが渾然一体となって、リーシェの心を揺さぶった。
「……っ」
思わずスプーンを止めた。目の奥が、じわりと熱くなる。
「お嬢さん? 口に合いませんでした?」
青年が心配そうに覗き込んでくる。リーシェは小さく首を振った。
「……いえ。美味しいわ。今までで一番……」
初めてだった。この世界で『味』を感じたのは。
それがトトとの出会い。あの日から、リーシェはこの宿に住み着いた。彼の料理だけが、自分をこの世界に繋ぎ止めてくれる。そんな気がしたから。
◇
食事を終えたリーシェは、赤ワインをちびりちびりと舐めるように飲んでいた。
ルビー色の液体がグラスの中でゆらりと揺れる。窓の外では宵闇がゆっくりと街を飲み込みはじめていて、遠くの通りに灯る魔石灯の明かりが、滲んだ水彩画のように見えた。食堂には他に数人の客がいるだけで、いつもより随分と静かだ。カウンターの隅に置かれたランプが、リーシェの横顔をやわらかく照らしている。
リーシェは物憂げに頬杖をついた。
ワインの味は――あまり、わからない。トトの料理を食べた直後なら、ほんの一瞬だけ葡萄の芳醇な余韻が舌に残る気がする。けれどそれも、波打ち際の泡沫のようにすぐ消えてしまう。
それでも、ワインを飲む時間は嫌いではなかった。酔いが回ると、思考の輪郭がぼやけて、何も考えなくて済む。この世界に馴染めない自分のことも、失われた記憶のことも、全部ぼんやりと遠ざかっていく。
だが今夜は、そんな心地よい空白に浸ることができなかった。
収納空間の中で凍りついたままの、一体の魔物。うずくまったまま時を止められた、あのゴブリンの苦悶の表情が、まぶたの裏にちらついている。
どうしよう――――。
リーシェはため息をついた。
わからない。わからないし、考えるのもタルい。
リーシェはワインを一口含み、そっと目を閉じた。
「姐さん、新しいパーティ、見つかりました?」
厨房から顔を出したのはトトだった。汗を拭きながら、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべている。あの笑顔を見ると、不思議と胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
元は冒険者だったが、夢半ばで挫折し、膨らんだツケが払えず住み込みで働き始めたらしい。だが料理の腕は確かで、この宿の常連客の多くは彼の料理目当てだった。
彼は冒険者に復帰したいようだったが、リーシェとしてはずっと厨房に立って、豊かな皿をふるまい続けて欲しい――と、密かに思っている。
「どこも受け入れてくれないわ」
リーシェは静かに首を振り、ワインを一口。
「姐さんの腕ならどこでも引く手数多でしょうに」
「禁術使いだの、仲間を見捨てただの、変な噂が広まってるみたいで」
まるで他人事のように淡々と告げる。
「はぁ!? 姐さんがそんなことするわけないじゃないっすか!」
トトは自分のことのように声を荒げた。カウンターを乗り出し、拳を握りしめている。ブラウンの瞳に、まっすぐな怒りの炎が灯っている。
その様子を見て、リーシェは不思議に思った。
なぜ彼は、こんなにも私のことで怒れるのだろう。私自身ですら怒っていないのに。私の代わりに拳を震わせて、私の代わりに声を上げて――まるで、私が感じるべき感情を、全部引き受けてくれているみたいだ。
「……なんであなた、私にそんな構うの?」
「え? そりゃあ……」
トトは少し照れたように頭を掻いた。視線が泳ぎ、それからふと、どこか遠い日を見つめるような目になる。
「姐さん、覚えてないかもしれないけど。俺が冒険者やめてここで働き始めた時、すっげー落ち込んでたんすよ。夢破れて、借金抱えて、もう何もかも嫌になってて」
「……」
「毎日さ、厨房で鍋磨きながら、何やってんだろ俺って。剣を振るはずだった手で野菜刻んでさ。大将に『練習』ってんで、誰に食わせるわけでもない賄いを、意地で作り続けてたんす」
トトは照れ笑いを浮かべたが、その声にはかすかな震えが混じっていた。




