5. 認められない現実
明日も薬草採取の依頼があるかしら――?
でも、それすらもどこか他人事のようで、切迫感が湧いてこない。焦りも、恐怖も、霧の向こうに霞んでいる。
(もしかして、死んだら……思い出せるのかしら……?)
リーシェはふとそんなことを思い、慌てて首を振った。
死を想えばそれに飲み込まれる。たとえ思いついただけとしても、それはまるで麻薬のように甘美な匂いをまき散らし、心をからめとってくる。
いつか誰しも死ぬとしても、今選ぶのは違う気がしたのだ。
リーシェは窓辺の椅子からベッドへと移り、煎餅布団に身を横たえた。古い木枠の軋む音が、静かな部屋に響く。
目を閉じると、今日の出来事が瞼の裏に浮かんでは消えた。ゴブリンの叫び声。消える音。震える指先。逃げていく緑色の影。
そして、窓の外では作り物の月が、変わらず冷たい光を投げかけている。
彼女はそのまま、泥のような眠りに落ちていった。
◇
同じ頃――。
ダンジョンの第三階層で、ガルド率いる『黄金の剣』は立ち往生していた。
薄暗い石造りの通路に、松明の炎が揺れている。壁には苔が生え、どこからか水の滴る音が響いていた。本来ならば、Bクラスパーティにとっては準備運動のような場所だ。目を瞑っていても進めるほど、何度も踏破してきた道のはずだった。
「くそっ、くそっ……!」
ガルドは地団駄を踏んだ。金色の髪が乱れ、整った顔が醜く歪んでいる。
前衛の盾役が、壊れた盾を手に途方に暮れていた。革製の取っ手が千切れ、腕を通すことができない。先ほどオークの一撃を受け止めた際に、劣化していた革が限界を迎えたのだ。
「おい、修理道具は!?」
ガルドは新入りの荷物運びを鋭くにらんだ。
「な、ないです……」
「部材は!? 予備の革紐とか!」
「それも……」
荷物運びが、おろおろと首を振った。背中の収納袋は膨らんでいるが、中身は食料と最低限の備品だけ。それ以上は入りきらずに運べなかったのだ。
「はぁ!? リーシェはいつも持ってきてただろうが!」
その名前を口にした瞬間、ガルドの胸に苦いものが込み上げた。
「そ、そんなの、普通は準備してませんよ。そんなのまで入れてたら容量オーバーで飲み物とか入りませんから……」
荷物運びの声が震え、怯えた目でガルドを見上げている。
ガルドは頭を抱えた。
盾がなければ前衛が機能しない。つまりこれ以上戦えない。たかが取っ手一つ、革紐一本。それがないだけで、攻略が止まる。
こんなことは、今まで一度もなかった。
「くぅぅぅ……。ブスめ……」
リーシェはどんな時でも必要なものを出してくれていた。無表情でぶっきらぼうで、愛想などこれっぽっちもなかったが、それに大きく助けられてきたのも事実だった。
――――リーシェは面倒くさいから備品全部を【収納魔法】で突っ込んでいただけなのだが、こんな破格な【収納魔法】を持っている人は他にはいない。
「……撤退だ」
苦渋の決断だった。その言葉を絞り出すのに、どれほどの屈辱を飲み込んだことか。
パーティの面々が顔を見合わせる。困惑と、そして――失望の色が、その目に浮かんでいた。
「リーダー、流石にこれは……」
「うるせえ! あのブスの話はすんなよ!」
ガルドは怒鳴った。だが、その声は虚しく石壁に反響するだけだった。
誰も何も言わない。重い沈黙が、湿った空気と共にパーティを包み込んだ。
ガルドは顔をしかめながら、来た道を振り返った。松明の明かりが揺れ、自分たちの影を壁に投げかけている。
ふぅ……。はぁ……。
ため息が静かに響き――パーティは無言で歩き出す。誰も、ガルドの方を見ようとしなかった。
「くそっ……くそっ……!」
――あのブスめ。俺に恥をかかせやがって。
絶対に認められない。ガルドはギリッと奥歯を鳴らした。
自分の愚かさを省みることなく。
全ての責任を、あの黒髪の少女に押し付けながら。
◇
彼は知らない。
その『ブス』と罵った少女が、伝説の魔物すら一瞬で消し去る、世界最凶の力を持っていることを。
そして――その力が、やがて世界の命運を左右することになることを。
今はただ、薄暗いダンジョンの中で、己の矮小さにすら気づかぬまま、男は踵を返した。
松明の炎が、ゆらゆらと揺れていた――。
◇
翌日の夕方――。
宿の食堂は、夕暮れ時の柔らかな光に包まれていた。
カウンター席に腰掛けたリーシェは、目の前の皿を見つめている。今日の夕食は煮込み料理だった。湯気が立ち上り、香ばしい匂いが漂っている。
スプーンで一口――。
リーシェはにっこりとほほ笑み、ふぅと息をついた。
◇
一年前のことを思い出す――。
この宿に初めて足を踏み入れた日のこと。
記憶を失い、草原で目覚めてから数ヶ月。リーシェはどうにか冒険者ギルドに登録し、荷物持ちの仕事を始めていた。だが、どこへ行っても、何を食べても、世界は色褪せたまま。
どこの食堂へ行ってもむなしかった。
他の客たちは美味しそうに頬張り、談笑しているが――。
――砂を噛むような味がした。




