43. 緊急安全保障会議
リーシェはドサッと干し草に身を投げ、顔を埋めた。
乾いた草の匂いの中に、さっき飲んだ野草茶の残り香が微かに混じっている。
麦畑の上を、風が渡っていく。銀色の波が月の光を散らし、小屋の壁に細い光の縞を投げかける。虫の声が戻ってきていた。控えめに、けれど確かに。まるで世界が、まだ壊れていないことを証明するかのように。
隣でトトが小さく寝返りを打った。無意識に、リーシェの方へ身体を向けている。傷だらけの腕が、リーシェの袖をかすめた。
リーシェは何も言わなかった。振り払いもせず、ただ、その寝息に耳を澄ませる。
規則正しい呼吸。生きている音。温かい、人の気配。
やがて、浅い眠りが訪れた。
月が傾き始めている。
夜は、まだ長い。
◇
翌朝――。
王宮の最奥、豪奢な白大理石の回廊を抜けた先に、重厚な樫の扉がある。金の象嵌で王家の紋章が刻まれたその扉の向こうは、国家安全保障会議室――王国の最高機関が集う場所だった。
室内には既に四人の男が着席している。
上座に座るのは宰相グレンヴァル。六十を過ぎた痩身の老人で、鷲のような鋭い目と、深く刻まれた眉間の皺が特徴的だった。白髪を後ろに撫でつけ、黒い長衣の胸元に宰相の紋章を留めている。王国の全行政を束ねる男。
その隣に控えるのが、治安局長レオルド。昨夜の失態のせいか、顔色は土気色で、額にはじっとりと汗が浮かんでいた。
対面には騎士団長ヴァルゲン。五十代半ばの巨漢で、会議室でさえ革鎧を脱がない。腕を組み、革張りの椅子を軋ませながら、不機嫌そうに口髭を撫でている。
その隣に、王国軍参謀総長カーティス。細身の眼鏡の男で、常に手元の書類から目を離さない。感情を表に出さない冷徹な軍人だが、今朝ばかりはその薄い唇が引き結ばれ、苛立ちが滲んでいた。
四人の顔は、一様に渋かった。
早朝に叩き起こされ、ろくに朝食も摂れぬまま召集された緊急会議。それだけでも不快だというのに、議題が議題だった。正体不明のダンジョン攻略者相手に、治安局の精鋭部隊が全滅。王都の安全保障に、看過できない穴が空いたのだ。
宰相グレンヴァルが、長いテーブルの端をトントントンと指で叩いた。苛立ちを隠そうともしない、乾いた音。
「……魔導院の首席賢者は、まだか」
「参加するとの回答は得ておりますが……。今どこにいるかは……」
控えの事務方が冷や汗を浮かべながら回答する。
「あの小娘め……。一体何をやっておるのだ……」
宰相はギリッと奥歯を鳴らした。
首席賢者――魔導院の最高位にして、王国の魔法戦力を統括する役職。
その座に就いているのは、なんと齢十八の少女だった。
リリカ・アステリア。アステリア公爵家の長女。先月、その凄まじいまでの魔力量と、圧倒的な魔法理論の理解力をもって、史上最年少で首席賢者に任命された王国きっての才媛。
しかし同時に、宮廷で最も扱いにくい人間の一人でもあった。
「もういい! 始めるぞ!」
宰相が手を打ち、レオルドをにらんだ。待っていても埒が明かない。
「レオルド。報告せよ」
「は……はい」
治安局長レオルドが立ち上がった。書類を手にしているが、その紙がかすかに震えている。視線が泳ぎ、声は上ずっていた。昨夜の城壁の上でへたり込んだ男が、一晩経っても立ち直れていないことは明らかだった。
「ま、まず、経緯からご報告いたします」
レオルドは咳払いを一つしてから、淡々と語り始めた。
未踏破の『黒鉄の迷宮』が、何者かによっていきなり攻略されたこと。しかし攻略者がギルドに名乗り出なかったこと。裏市場に流れたワイバーンの鋼鱗から、容疑者として元冒険者の少女と料理人の青年を特定したこと。
料理人を拘束し、尋問したが口を割らなかったこと。
その後、容疑者の少女が治安局に侵入し、料理人を奪還したこと。ただ、どうやったかは不明。
王都の外の小屋に潜伏していた二人を発見し、精鋭部隊によって煙幕による制圧作戦を実行したこと。
そして――音信不通なこと。
「音信不通とは何だ。死体はあるのか」
騎士団長ヴァルゲンが低い声で問うた。
「い、いえ。まだ小屋へは近づけないので遠くからの観測ですが――死体は見つかっておりません。ですが、連絡が……取れません……」
「『音信不通』じゃない。『全滅』って言うんだそういうのは!」
ヴァルゲンの声に、いら立ちがにじんだ。
「いや、せ、正確に報告をと思いまして――」
「まぁいい、勝手に動いて消されたってことだろ?」
ヴァルゲンは鼻で嗤った。
「そもそも」
参謀総長カーティスが、書類から顔を上げた。眼鏡の奥の目が、冷たくレオルドを射抜く。
「なぜ独断で精鋭部隊を投入した。この規模の案件は、騎士団もしくは王国軍との合同作戦が原則だ。治安局の管轄を越えている」
カーティスはいら立ちをぶつけるようにパンパンと書類を叩いた。
「そ、それは……。料理人と少女なので……、こんなことになるとは……」
レオルドはしどろもどろに答える。
「ワイバーンを倒せた連中なんだろ? 理由になっとらんぞ?」
レオルドは返す言葉もなく、口を結び、うつむいた。




