42. 【解体】ボタン
トトの寝顔が、すぐ隣にある。腫れた頬。裂けた唇。それでも、眠っている顔は穏やかだった。リーシェのそばにいるというだけで、安心しきった顔で眠っている。
――この人は、馬鹿だ。
なぜここまで無防備になって、こんな壊れ切った自分を信用しきれるのだろう?
リーシェは目を逸らし、小窓の向こうに視線を投げた。
あの作り物みたいな月が、白く浮かんでいる。麦の波が揺れている。風がざわざわと鳴っている。
その向こうに、見えない誰かの目がある。それはもう、確信に近かった。
「……タルい」
いつもの口癖。いつもの響き。
――でも、今夜のそれは、いつもより少しだけ弱かった。
疲れていた。身体が、ではない。心が。
ただ静かに暮らしたいだけ。なのに世界が、放っておいてくれない。
リーシェは目を閉じた。
瞼の裏に、あのフラッシュバックの残像がちらついた。満天の星の中に浮かぶ碧い惑星。それを背景に微笑む青い髪の女性。
――『あらあら、ダメじゃない……』
あの声の意味も、自分が何者なのかも、今はまだわからない。
リーシェはドサッと干し草の上に横たわった。
――わかりたくないのかもしれない。
知ってしまったら、きっともう、こうして干し草の上で寝転がることすら許されなくなる。そんな予感があった。
明日は苛烈な一日になるだろう。国の威信をかけて、自分たちを狩りに来る。今度はもっと大規模に。もっと周到に。煙幕の次は、何が来る?
準備が――要るのでは?
――やれやれ。
リーシェはバッと起き上がった。
右手を振り、意識を収納空間に繋ぐ。ヴゥンと虚空に淡い光の画面が浮かび上がった。
そこに並んでいたのは、顔、顔、顔。
まずガルドと荒くれ者たち。ガルドは白と青の腕章をつけたまま、口を半開きにした間の抜けた表情で時を止められている。かつてパーティのリーダーとして威張り散らしていた男の、これが今の姿だ。
その隣には、先ほど収納した襲撃部隊の男たち。黒装束の精鋭が、まるで卒業写真の集合写真のように整然と並んでいる。口元のマスクがずれた者、拳を振り上げたまま固まった者、逃げ出そうとした姿勢のまま停止した者。全員が、時を止められた瞬間の表情をさらしていた。
その数、合わせて十五。
人間が十五人。
リーシェは画面を見つめ、小さく首を振った。ため息が漏れる。こんなものを抱えているのだ。精神が安定しないのも当然だった。
画面を捲る。人間たちの列が過ぎ、魔物たちの一覧が現れた。
ゴブリン。コボルド。大蜘蛛。トロール。ダンジョンで収納した魔物たちが、種族ごとに整理されて並んでいる。
リーシェの指が、画面の端に表示された小さなボタンの上で止まった。
【解体】
収納した魔物を一瞬で素材群へと解体する力。一度押せば、二度と元には戻せない。生きた存在が、魔石と素材に分解される。
今まで、このボタンを押すことを躊躇っていた。
収納空間の中で時を止められた魔物たちは、仮死状態とはいえ生きている。それを不可逆的に「物」に変えてしまうことに、リーシェの中の何かが抵抗していた。
だが、明日は決戦になる。
収納空間の中に抱える「重さ」は、精神の安定に直結する。魔物の数が多ければ多いほど、蓋が緩みやすくなる。先ほどの煙幕攻撃の最中に暴走しかけたのは、その重さに耐えきれなかったからだ。
負担は、最小限にしておかねばならない。
リーシェは唇をきゅっと結んだ。
そして、ゴブリンの欄の【解体】ボタンに指先を合わせ――押す。
画面の中で、ゴブリンの姿が光に包まれ、一瞬で崩れた。後には小さな魔石と、鞣し革に適した緑色の皮と、数本の骨が残された。
コボルドは魔石と爪と毛皮。
大蜘蛛は魔石と蜘蛛糸の束と、硬質な外殻――。
淡々と、リーシェは【解体】ボタンを押していった。一匹、また一匹。画面の中で生き物が物に変わっていく。その工程に、何の感慨もないふりをした。
魔物を解体するたびに、収納空間の「重さ」が少しずつ軽くなっていく。精神を圧迫していた生命の気配が薄れ、蓋を押し上げようとする力が弱まる。
最後の魔物が魔石と素材に変わった時、リーシェは深く息を吐いた。
軽い。
ずっと背負っていた重荷を下ろしたかのように、精神が楽になっていた。収納空間の蓋が安定し、暴走の気配が遠退いている。
――これで、明日は戦える。
リーシェは画面を消そうとして、ふと手を止めた。
人間たちの顔が、まだそこにある。ガルドの間抜けな顔。荒くれ者たちの怯えた顔。黒装束の精鋭たちの、任務遂行中の厳しい顔。
その隣に並ぶ、【解体】ボタン。
人間にも、使えるではないか――。
リーシェは画面を見つめた。無表情のまま。黒い瞳に、画面の淡い光が映り込んでいる。
この指先一つで――。
ガルドの横の解体ボタンに指を伸ばしてみる。
あと一センチで彼は素材になる。人間を解体したら何になるのかは分からないが、命は失うだろう。
トトをボコボコにしたとんでもない奴。いなくなった方が社会のためだ――。
そうは思ったものの、リーシェはふぅと息をついて指を離した。
怒りに任せてここで押す人もあるだろう。しかし、リーシェには熱い意志の力というものが欠けていた。
トトをひどい目に遭わせたことについて不快感はあるが、だからといって『殺してしまえ』という風には吹き上がれない。
やはり自分には何かが欠けているようだ。
それでもいつか――このボタンを、人間に対して押す日が来るのだろうか。
明日、押してしまうような気がして――ぶんぶんと首を振った。
リーシェは口を噤み、画面を閉じる。
考えたくなかった。その可能性について、今は。




