40. 水面越しの世界
――そして、見えた。
まるで水面越しに世界を覗いているかのように、外の景色がゆらゆらと揺れながら断片的に映っている。小屋の屋根裏。白い煙の中を動き回る黒装束の男たち。彼らの声が水中で聞く音のようにくぐもって聞こえてくる。
「……刻印はそう簡単には消せん。何らかの原因で遮断されてるのかもしれんが……」
「だが、どこへ逃げた? 受信範囲は数キロだぞ。それより遠くへ逃げられたか?」
「いやいや、さっきまで刻印反応があったんだ。そんな一瞬で行けるわけがない」
「ともかく、刻印信号がこのまま切れると困る。あれは上への報告の裏付けにもなってるんだ」
刻印。
リーシェの意識が、その言葉に引き寄せられた。
刻印信号。受信範囲。遮断――。
追跡されていたのだ。最初から。彼らはトトの居場所を何かの刻印で追尾していた。だから街を離れても見つかって、この小屋にまで攻め込まれた。
トトに埋め込まれた刻印に引き寄せられて――。
「そ、そんな……」
リーシェはキュッと唇をかんだ。
今は収納空間に入ったことで、トトの刻印の信号も外界から遮断され、水晶盤には何も出なくなったのだろう。
――トトの身体に罠があった。
その事実が、冷たい水のようにリーシェの胸に沁みる。
あの牢獄で。気絶していた間に。何かを埋め込まれた。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
◇
「嫌な予感がする。一旦撤収するぞ! 引け!」
黒装束たちが撤退を始めていた。
ガラス越しに見える景色の中で、男たちが次々と小屋を出ていく。煙は外気が入り込んで徐々に薄まり、屋根裏の空気が澄んでいく。
リーシェは、ぼんやりとそれを眺めていた。
出たくなかった。
ここは最高だ。誰にも煩わされない。痛みもない。重さもない。ただ漂っているだけでいい。何も考えなくていい。誰とも戦わなくていい。
このまま、ずっとここにいたい。
そんな甘い誘惑が、蜜のように意識を絡め取ろうとしていた。
だが。
自分の中のどこかで、トトが眠っている。
傷だらけの身体で。腫れ上がった顔で。それでも「秘密は守りました」と笑った、あの血まみれの笑顔のまま。
トトをいつまでも仕舞っておくわけにはいかない。
彼には彼の人生がある。自分の都合で、この暗闇に閉じ込めておくなど許されない。
逃げてばかりいては、何も解決しないのだ。
振りかかる火の粉は、払うしかない。
たとえ、タルくても。
「……出ろ」
自分に向けた、短い命令。
ふっ、と身体に重さが戻った。
見れば干し草の上に座っている。煙はほとんど晴れていた。目の痛みはまだ残っているが、涙で洗い流されたのか、視界はぼんやりと戻ってきている。
リーシェは目を擦り、小窓に手をかけた。
月明かりの下、麦畑を撤退していく黒装束の一群が見えた。十人ほどの影が、銀色に輝く麦の穂を掻き分けながら、王都の方角へと遠ざかっていく。
背を向けた敵。
帰すわけにはいかなかった。
彼らがこの任務に就いている限りまた来る。もっと巧妙に、もっと周到に。彼らがいる限り安全は遠い。
そして何より――彼らは、トトを殴った側の人間だ。
「ナイナイ」
静かな声だった。
怒りを滲ませもしない。感情の色を一切持たない、透明な四文字。
撤退する黒装束の一群が消えた。音もなく。振り返る暇もなく。麦畑を踏んでいた足跡だけを残して、この世界から消去された。
麦畑に、静寂が舞い降りる――。
風が止んだわけではない。人の気配だけが――足音も、金属の擦れる音も――完全に消え去った。
数秒の空白の後、虫がまた鳴き始めた。おずおずと、まるでさっきまでの異常を恐れるかのように。やがてその声は自信を取り戻し、いつも通りの夜の合唱へと戻っていく。
リーシェは小窓の縁に頬杖をついて、銀色の麦の海を見下ろした。月明かりは平穏そのもの。先ほどの騒乱が嘘のように穏やかな夜の景色が、どこまでも広がっている。
全員消せたわけではないだろう。監視役が一人か二人、まだどこかに潜んでいるはずだ。だが実行部隊は消せた。しばらくは、安泰に違いない。
◇
「狩人! 応答せよ、応答せよ! ……ダメです、連絡が途絶えました!」
「な、なんだと?! くぅぅぅ……」
王都の城壁の上。双眼鏡で小屋の方角を凝視していた治安局長レオルドは、工作班からの絶望的な報告に頭を抱えた。
リスクを承知の上で、治安局の威信をかけ、精鋭部隊を突入させた。煙幕で視界を奪い、四方から同時に制圧する――完璧な作戦だったはずだ。それが、連絡途絶。
最悪の展開だった。
「いったい何が起こった?!」
「分かりません。確かにターゲットはあの小屋に存在していたんですが、突入したらもぬけの殻で……。撤退途中に全員の消息が途絶えました」
「ありえん……ありえんよ! 一体どうなっとるんだ!!」
レオルドの声が裏返った。夜風が城壁を吹き抜け、彼の白いマントをばたばたと翻す。その下で、中年の局長の顔は蒼白に染まっていた。




