38. 小さな球体
リーシェはカップの中の薄黄色の液面を見つめ、もうひと口啜る――。
屋根裏の空気が、ほんの少しだけ穏やかになった。
魔石コンロの青白い炎が、二人の影を壁に揺らしている。干し草の匂いと、野草茶の香りが混じり合って、この場所が今この時だけは、安全な場所のように感じられた。
落ち着くと、腹が空いてくる。
「なんかあったかしら……」
リーシェは収納空間のリストを開き、端の方を漁った。
見つかったのは、干しイチジクとレーズンの小袋。ダンジョン攻略時の非常食の残りだった。
リーシェはそれを取り出し、トトにも渡した。
「……これしかないわ」
「いやいや、十分っすよ! ありがたい!」
二人は並んで座り、もくもくと干し果実をかじった。
甘い。素朴な甘さだ。リーシェの舌にも、かすかに甘味が感じられた。こんな極限状態だからだろうか、トトの料理のようにはっきりとした味ではない。けれどゼロでもない。砂を噛むような無味ではなく、確かに「甘い」と感じられる程度の、微かな味。
こんなことになるなら、もっとまともな食べ物を入れておくのだった。
リーシェはため息をつきながら、レーズンを一粒、口に放り込んだ。
小窓の外を、風が渡っていく。麦畑の銀色の波が揺れ、虫たちの合唱が夜の空気を満たしている。
◇
トトはいつの間にか干し草の上でうとうとしていた。簡易ハーブティの効果か呼吸は穏やかで、表情にも苦痛の色は薄い。
リーシェは小窓の傍に座り、外の麦畑をぼんやりと眺めていた。月は天頂近くまで昇り、麦の海を銀色に染めている。虫の音が静かな夜に響いていた。
その時だった――。
いきなり虫の声が消えた。
秋の夜を彩っていた虫たちの合唱が、まるで指揮者が棒を振り下ろしたかのように、ぴたりと沈黙してしまったのだ。
――何?
リーシェは一気に臨戦態勢に入った。
自然の音が不自然に途切れる時、それは何かがそこにいるということだ。
耳を澄ます。
麦の擦れる音に混じって、金属が微かに擦れ合う音が聞こえた。まだ遠いが、確実にこちらに近づいている。
リーシェは静かに立ち上がり、眠るトトの傍に膝をついた。
「トト」
「ん……ふぁ……姐さん?」
「起きて。静かに……」
緊張を含んだ声のトーンにトトは一瞬で目を覚ました。リーシェの黒い瞳を見上げ、その中に映る冷たい光に息をのむ。
「まさか……来たんすか?」
「ここは危ない。収納に入って」
トトは頷いた。抵抗も質問もせず、ただ一言。
「頼みます、姐さん」
「ナイナイ」
トトの身体が、ふわりと消えた。干し草の上に残ったのは、体温の名残と、かすかな野草茶の匂いだけ。
リーシェは小窓に戻った。
目を凝らす。
月明かりに照らされた麦畑の中を、影が動いていた。黒装束。あちらにもこちらにも複数。低い姿勢で、畑を縫うように接近してくる。
三つ。いや、四つ。もっと、いるかもしれない。
統率が取れている。訓練された動き。ガルドのような冒険者崩れではない。
リーシェは無表情のまま、小窓の隙間から外を見据えた。
先頭の一人が、麦の影から顔を出した。
「ナイナイ」
――音が消えた。
先頭の黒装束が纏っていた麦の擦れる音が、足音が、全てが一瞬で消失した。
麦が、一度だけ不自然に揺れた。それだけ。
二人目が気づかずに進む。先行する仲間を見失ったことにすら、まだ気づいていない。
「ナイナイ」
消えた。
音もなく。痕跡もなく。最初からそこに誰もいなかったかのように。
消え方が静かすぎて、後続の者たちには仲間に何が起きたのかわからない。
ただ――。
三人目が動きを止めた。
何かがおかしいことに気づいたのだ。前方の気配が二つ、唐突に途絶えている。通信も反応もない。
手信号が飛んだ。
黒装束たちの動きが変わった。小屋への直接接近をやめ、左右に散開し始める。
リーシェは舌打ちしたい気持ちを飲み込んだ。
――見えない相手は、消せない。
次の瞬間、何かが飛来した。
ぽん、と軽い音。小屋の壁板の隙間から、小さな球体が転がり込む。ぽん、ぽん、と続けて二つ、三つ。
バシュ!バシュッ!と球体が砕け白い煙が、爆発的に噴き出した。
「……っ!」
催涙弾。魔法で精製された、粘膜を焼く白煙。
煙は瞬く間に小屋の中を満たし、屋根裏にまで昇ってきた。
まるで赤熱した針を眼球に突き立てられたような激痛が、両目を貫く。涙が止めどなく溢れ、視界が白く歪み、やがて何も映さなくなる。喉が焼け、肺が痙攣する。息を吸おうとするたびに、煙が喉の奥を灼いた。
「かっ……はっ……!」
リーシェは膝をついた。




