36. 壊れた女神
リーシェはラベルを一瞥して、かすかに目を細めた。
ガルドの荷物の中にあった回復ポーション。安物だが、ないよりはましだ。そしてこれがガルドの持ち物だということに、リーシェは皮肉な満足を覚えていた。
「あいつが付けた傷だもの。あいつの物で治させてもらうわ」
トトの頭をそっと持ち上げた。片手で後頭部を支え、もう片方の手でガラス瓶の口をトトの唇に当てる。緑色の液体が、裂けた唇の隙間からゆっくりと流れ込んでいった。
零さないように。むせさせないように。
じっと目を凝らし、慎重にポーションを飲ませていくリーシェの横顔は、真剣そのものだった。眉根がわずかに寄り、黒い瞳が揺れもせずトトの唇を見つめている。
だが――トトはそれどころではなかった。
リーシェの体温が、すぐそばにある。後頭部を支える手のひらの柔らかさ。屈み込んだ拍子に近づいた顔。黒髪がさらりと頬を掠め、ふわりと漂ってくる華やかで柔らかな匂い。
(ち、近すぎるぅ……)
肋骨にひびが入っていようが、顔面が腫れていようが、十八歳の美少女にここまで接近されて平静を保てるほど、トトは達観できていなかった。心臓が暴れている。顔が熱い。
そんなことをトトが思っているなどとは露知らず、リーシェは最後の一滴まで飲ませ終えると、小さく息を吐いた。
「……よし」
上手く飲ませられたことに、ほっとした顔。
ポーションの効果はすぐに現れた。
顔の腫れが、目に見えて引いていく。切れた眉の上の傷口がゆっくりと塞がり、乾いた血が薄く剥がれ落ちた。裂けた唇が繋がり、頬の赤紫色の変色がゆっくりと肌色に戻っていく。
だが、そこまでだった。
安物のポーションでは、完治というわけにはいかない。痛みは残り、動きは鈍い。それでも、さっきまでの酷い有様に比べれば、格段にましだった。
「……ぅ、ぁあ……。だいぶ楽になりましたけど、まだ……ゴホッ」
「無理しないで。横になって」
リーシェは干し草を掻き集めて枕を作り、トトの頭をそっと乗せた。さっきまでポーションを飲ませていた手つきと同じ――丁寧で、慎重で、壊れ物を扱うような手つきだった。
◇
しばらく、沈黙が続いた。
屋根の隙間から差し込む月明かりが、干し草の上に白い縞模様を描いている。外では麦が揺れ、虫が途切れることなく鳴いていて、その合唱が沈黙を柔らかく包んでいた。
先に口を開いたのは、リーシェだった。
「……ごめんなさい」
声が、小さかった。いつもの気怠い声とは違う。どこか壊れそうな、硝子の縁を指で弾いたような響き。
「私のせいで……こんな目に遭わせてしまったわ。私の秘密を守ろうとして……殴られて」
「姐さん……」
「あの人たちが知りたかったのは、私のこと。あなたが黙らなければ、こんな――」
「やめてくださいよ」
トトが遮った。横たわったまま、天井を見上げて。腫れの引いた顔に、苦笑が浮かんでいた。
「俺が軽率だったんす。姐さんに美味いもん食わせたくて、裏市場なんかに手を出して……」
トトの声が、少しだけ掠れた。
「あそこが治安局の釣り堀だなんて……知らなかった。龍鱗なんて出したら、そりゃ目ぇつけられますよね……。俺がバカだったんす」
「……あなたのせいじゃない」
「姐さんのせいでもないっすよ」
二人の視線が、交わった。
月明かりの中で。干し草の匂いの中で。虫の声に包まれながら。リーシェの黒い瞳と、トトのブラウンの瞳が。
リーシェが先に目を逸らした。
「……馬鹿ね」
呟くように言った。
「高級食材なんかなくても、いつものあなたの料理で十分なのに」
「それは――」
トトが口ごもった。腫れの残る頬が、わずかに赤くなった。
「……笑顔が見たかったんすよ」
「は?」
「姐さんが、俺の飯食って……あの一瞬だけ、ちょっとだけ表情が変わるじゃないっすか。あれが見たくて……もっと美味いもん作れたら、もっと笑ってくれるかなって……」
トトの目は天井を向いていた。リーシェの顔を見る勇気がなかったのかもしれない。
リーシェは、何も言わなかった。
ただ、すっと視線を逸らして、小窓の外に目を向けた。
「……ほんと馬鹿だわ」
声はいつもの無表情。
「こんな魂の抜けた、壊れた人形みたいな女に何言ってんの」
「壊れた人形なんかじゃないっす!」
トトが声を上げた。横たわったまま、天井に向かって。
「姐さんは俺にとって……本当に女神のような存在なんす」
「……女神?」
リーシェは肩をすくめた。
「こんな壊れた女神なんていないわ」
その声に自嘲が混じっていた。記憶がない。味がわからない。感情が希薄。この世界に馴染めない。それを「女神」と呼ぶなら、随分と不良品の女神だ。
「そんな卑下しなくても……。姐さん!」
トトがガバッと上体を起こした。干し草が散る。
「これからも俺に料理を作らせてください!」
真っ直ぐな目だった。殴られ、蹴られ、牢に投げ込まれ、それでもなお――この男の目には、一点の曇りもなかった。




