34. エレガントな奪還
リーシェは治安局の壁に開けた穴をくぐり、外に出ると、振り返って右手を壁に向けた。
「出ろ」
消した壁が、元通りに出現した。四角い穴が塞がり、白い石壁が修復される。
――痕跡はゼロ。のはず。
壁は元通り。守衛も元通り。牢の鉄格子も元通り。トトがいないことを除けば、治安局の内部には何の変化もない。
リーシェは壁に背をつけ、夕空を見上げた。
茜色が薄れかけた空に、作り物めいた月が白くぼんやりと浮かんでいる。まだ明るい。だが、長くはない。
もう宿には戻れない。
治安局にマークされ、すでに調査員が入ってしまっているだろう。
大将には迷惑をかけてしまった。落ち着いたらちゃんとツケ含めて補償をしなくては――。
さて――どうしよう?
どこへ行けばいいの?
リーシェは小さくため息をついた。ふぅという音が夕暮れの空気に溶けていく。
収納空間の中で、トトが眠っている。傷ついた身体のまま、時を止められて。あの人を安全な場所に出してやらなければならない。傷の手当てをしなければ。温かい場所で、横にならせてやらなければ。
だが「安全な場所」が、今のリーシェにはどこにもなかった。
こんなことギルドにだって相談できないのだ。
くぅぅぅ……。
――まだ明るいうちに、夜露を凌げる場所を見つけなきゃ。
どっちにしても街にはいられないわ。
リーシェは壁から背を離し、駆け出した。
頭の中はトトのことでいっぱいだった。あの腫れ上がった顔。裂けた唇。それでも「秘密は守りました」と笑った、あの血まみれの笑顔。
だから――気づかなかった。
修復した壁が、ほんの一センチほど歪ていたことに。
元の石壁の目地と、復元された石壁の目地が、微妙に噛み合っていない。日中なら見過ごす程度の、ごくわずかな痕跡。けれどそれは確かに、「ここに穴が開けられた」という動かぬ証拠だった。
夕暮れの路地を、黒髪の少女が駆けていく。
茜色の残照が石畳を染め、リーシェの長い影が建物の壁を這うように伸びていた。収納空間の中にトトの温もりを抱えて。右手の震えを握りしめて。行くあてもないまま、ただ一つの願いだけを胸に。
――トトを、安全な場所へ。
それだけを考えて、リーシェは走った。
◇
しばらくして――。
狩人は治安局の地下牢を訪れた。
日課のようなものだった。トトの様子を見て発信刻印の状態を確認しておく。明日の取り調べに使えるだけの体力が残っているかも、確かめておく必要がある。
地下への階段を降りる。守衛に軽く頷き、鉄格子の通路を進む。
突き当たりの牢の前で、足が止まった。
空だった。
冷たい石の床に、乾いた血の痕が残っている。だが、トトの姿はどこにもない。
鉄格子の扉は閉まっている。鍵もかかっている。外から見る限り、何一つ異常はない。
なのに、中は空だ。
狩人は無言で牢の中を見回した。
窓はない。床にも壁にも穴はない。通気口すら人が通れる大きさではない。鉄格子は歪んでおらず、錠前にも抉った跡がない。
物理的に、ここから出る方法が存在しない。
にもかかわらず、囚人が消えた。
狩人はゆっくりと口元を歪めた。
笑っていた。
いやらしく、冷たく、獲物の足跡を見つけた狩人だけが浮かべる種類の笑み。
「……来たか」
低い声が、空の牢に落ちた。
右手の甲に刻んだ発信刻印は、今も脈動している。トトがどこにいようと、誰のもとに帰ろうと、その位置は把握できる。
鉄格子の向こうの空っぽの牢を見つめながら、狩人は外套の襟を正した。
「痕跡を残さず、鍵を開けず、守衛にも気づかせず……囚人だけを消す」
それは脱獄とかそんな既存の概念では説明のつかない、もっと根本的な「消失」。
「――面白い。実に、面白い」
くっくっく……と、喉の奥で笑いが弾けた。
闇の中で、狩人の目だけが鋭く光っていた。
牢の床に残された乾いた血痕。その上に、カモミールの花弁が落ちていた。
狩人はそれを拾い上げ、鼻先に近づける。甘い香りが、黴と鉄錆の匂いに混じって微かに漂う。
「……カモミール、か」
こんなエレガントな奪還を図れる少女……最高の獲物じゃないか!
狩人は外套の内側に手を入れ、小さな水晶盤を取り出した。発信刻印の受信媒体。あの青年の右手の甲に刻んだ紋と対になる、追跡術式の片割れ。
水晶盤の表面に、淡い光の点が一つ、灯っていた。
点は、ゆっくりと移動している。南東の方角へ。街の外れに向かって。
「連れて行ってくれよ、料理人」
狩人は水晶盤を外套にしまい、踵を返した。
「お前の大切な『攻略者』のところへ、な」
急ぐ必要はない。獲物は逃げられない。どこへ行っても、刻印が導いてくれる。
むしろ泳がせた方がいい。泳がせて、力の全容を見極める。そして、最も効果的な瞬間に――網を投じる。
「くっくっく……はぁっはっはっは!」
狩人の笑い声が、石の廊下に響きわたった。
地下牢には再び、静寂が戻る。
空になった牢の石床の上で、カモミールの花弁だけが薄い灯りに照らされ、小さな白い光を放っていた。




