33. 酸っぱいカモミール
地下牢の通路は、さらに暗かった。両壁に並ぶ鉄格子の牢。ほとんどが空だ。一つだけ、突き当たりの牢に、人の気配があった。
リーシェは足を速め――見つけた。
冷たい石の床の上に、トトが横たわっている。
身体を丸め、壁際に寄り添うように倒れていた。薄暗い灯りの中でも、その状態は一目でわかる。
顔が腫れ上がっていた。左目の上が切れ、乾いた血がこめかみまで筋を引いている。あの人懐っこい笑顔の面影が、暴力によって歪められていた。
服は泥と血で汚れ、呼吸は浅く、荒い。だが、生きている。
リーシェは錠前を消し去ると鉄格子の扉を開き、牢の中に入った。
トトの傍にしゃがみ込む。
「……トト」
声をかけた。いつもの気怠い声よりも、少しだけ柔らかい声で。
「…………」
「トト。起きて」
「…………ね……さん……?」
トトの瞼が、わずかに開いた。腫れた目の隙間から、ブラウンの瞳がリーシェを捉える。
「あ……姐さん……」
焦点の合わない目が、ゆっくりとリーシェの顔を認識した。その瞬間、腫れ上がった顔に――笑みが浮かんだ。
ぼろぼろの顔で。血まみれの唇で。それでも笑った。
「姐さん……秘密は……守りました……」
掠れた声だった。一言ごとに息を切らし、血の混じった唾液を飲み込みながら。
「ボコボコに……殴られましたけど……何も……言ってないっす……」
リーシェは、トトの顔を見つめた。
無表情だった。いつも通りの、能面のような顔。
だが、その黒い瞳の奥で、何かが激しく揺れていた。
怒りか。悲しみか。それとも、もっと名前のない何かか。
こんな目に遭ったのは、自分のせいだ。自分の秘密を守るために、この人は殴られ、蹴られた。顔の形が変わるまで。
それなのに、この人は笑っている。
自分を見つけてくれたことが、嬉しくて笑っている。
「……ばか」
リーシェの声が、小さく震えた。
「何笑ってるのよ。こんな……こんなになって」
「だって……姐さん来てくれたじゃないっすか……。それだけで……充分っす……」
トトの右手が、力なく持ち上がった。指先がリーシェの手に触れる。冷たい。血が通っていない。
その指先に、カモミールの花弁が一枚、張りついていた。
あの路地で散らばった食材の名残。リーシェのために買った、フレッシュカモミールの最後の欠片。殴られ、蹴られ、牢に投げ込まれてなお、この花弁だけがトトの指先にしがみついていた。
――トトが食べさせたかった料理の、最後のかけら。
リーシェの目が、かすかに潤んだ――ほんの一瞬だけ。すぐにいつもの無表情に戻る。
だが、トトの指先に触れたリーシェの手は、わずかに温かかった。
「……行こ?」
「はい……お願いします……」
「ナイナイ」
トトの身体が、ふわりと収納空間に沈んでいった。穏やかに。優しく。今まで魔物にしたどの収納よりも丁寧に、リーシェはトトを自分の内側に受け入れた。
収納空間の中で、時が止まる。トトの痛みも、傷の進行も、このまま凍結される。少しでも早く治療してやりたかったが、ここで手当てをする余裕はなかった。
その瞬間――。
鼻の奥がツーンと酸っぱくなった。どこかから酸っぱいカモミールの香りがしたような錯覚がリーシェを襲う。
「うっ……」
精神が、揺れている。
トトの傷ついた姿を見たことで。人間を収納に入れたことで。収納空間の中にいる存在の数が増えたことで。蓋が、またほんの少しだけ緩んでいる。
――持ちこたえなきゃ。
リーシェは目を閉じ、深呼吸をした。酸っぱいカモミールの香りが、ゆっくりと消えていく。完全ではない。だが、決壊はしていない。
今は、それでいい。
リーシェは立ち上がった。
来た道を戻る。地下牢の通路。鉄格子の扉。そして――空の椅子。
リーシェは椅子の前で立ち止まった。
「出ろ」
守衛のおじさんが、椅子の上に出現した。座ったままの姿勢で。マグカップを手にしたまま。読みかけの本が膝の上に開いたまま。
時間が止まっていたのだ。守衛にとっては、意識が途切れた瞬間から一秒も経っていない。
守衛がきょとんとした顔をした。
「……ん? あれ? 今、何か……」
リーシェはすでに角を曲がっていた。足音を消して、廊下を戻る。
守衛は首をかしげ、マグカップの中身を一口飲んだ。
「……気のせいか」
読みかけの本に目を落とす。
何事もなかったように。
◇
リーシェはさっき入ってきた壁に再度穴を開けると外に出る。
夕焼けの残り火が、まだ西の空を薄紅に染めていた。
「どこへ……行こう……?」
作り物めいた月が、まだ薄い空に白く浮かんでいる。




