32. 国家建造物損壊
食堂に、静寂が落ちる。
真空のような沈黙。さっきまでの怒号も、悲鳴も、咆哮も、何もかもが嘘だったかのように完全な静寂が満ちていた。
ひっくり返ったテーブルと砕けた椅子だけが、ここで何かが起きたことを示している。
リーシェの右手が、震えていた。
重い。
魔物だけではない。人間を四人、収納した。魔物とは違う。人間には意識がある。感情がある。恐怖がある。ガルドが最後に見せた泣き顔が、荒くれ者の一人が「助けて」と叫びかけた声の残響が、収納空間の底に沈んでいく。
――これが、人間を入れるということ。
初めてだった。
ダンジョンの魔物とは、明らかに「重さ」が違う。意識を持った存在を丸ごと呑み込んだ重さが、精神の奥にずしりとのしかかる。
右手を見た。震えが止まらない。指先が白い。
「リ、リーシェちゃん……」
カウンターの奥から、ゲオルグが顔を出した。目が皿のように見開かれている。
「……ごめんなさい、大将。店、散らかしちゃった」
「い、いやそんなことより……今の……」
「ちょっと出かけるわ」
リーシェはそれだけ言って、宿を飛び出す。
ゲオルグの声が背中にかかったが、振り返らなかった。
「……トト」
リーシェは震える手を握りしめた。
トトが治安局にいる。殴られて。傷ついて。
迎えに行かなければ。
西日が建物の輪郭を金色に縁取り、空は茜色に染まりつつある。
――最短で行くわ。
リーシェは夕暮れの街を走り出す。
◇
治安局の建物は、王都の官庁街にそびえていた。
白い石壁。鉄格子の嵌った窓。正面には重厚な扉と、その両脇に直立する二人の衛兵。夕日の残照が壁面を照らし、権力の威容を茜色に浮かび上がらせている。
リーシェは正面に回らなかった。
裏手の路地に立ち、白い壁面を見上げた。鉄格子の窓が上の方に並んでいる。
リーシェは右手を壁に向けた。
「ナイナイ」
壁が消える。
人が一人通れるほどの四角い穴が、石壁にぽっかりと開いた。切り口は滑らかで、まるで最初からそこに出入口があったかのように自然だった。ダンジョンの壁を抜いた時と同じ要領。ただし今回の相手は、国家の建造物だ。国家建造物損壊、不法侵入の重罪確定である。
しかし、リーシェにとってはそんなことどうでもよかった。
穴の向こうに、薄暗い廊下が見える。人の気配はない。
身を屈めてそっと穴をくぐった。廊下の壁に取り付けられた魔法灯が、等間隔にぼんやりとした光を落としている。
ふぅと息をつくと、振り返り、右手を壁に向けた。
「出ろ」
消した壁が、元通りに出現した。四角い穴が塞がり、白い石壁が修復される。切り口の痕跡すら残っていない。
足音を殺し、廊下を進む――。
治安局の内部は、思ったよりも広かった。一階は事務室と応接室。二階は局長室と会議室。そして地下に、留置場がある。
地下への階段は、すぐに見つかった。石段を降りると、空気が変わる。冷たく、湿り、黴の匂いがする。壁の魔法灯は間隔が広くなり、薄暗い影が通路の先に伸びていた。
地下一階。
通路の突き当たりに、鉄格子の扉があった。その手前に、木の椅子に座った男が一人。
守衛だった。
五十過ぎの、白髪混じりの男。革鎧の上から厚手の外套を羽織り、腰には短剣を吊っている。傍らには読みかけの本と、湯気の立つマグカップ。夕方の守衛が、静かに職務をこなしている。
リーシェの足音に気づき、守衛が顔を上げた。
「ん? 誰だ」
警戒の色はあるが、敵意はない。真面目に職務を全うしている者特有の、穏やかな緊張感。
「面会に……来たの」
リーシェは能面のような顔で静かに言葉を紡ぐ。
「面会? 面会許可証は?」
「……ない」
「ないなら駄目だ」
守衛はきっぱりと言った。
「規則でな。面会許可証がないなら、誰であろうと通すわけにはいかん。局長の許可がなければ、たとえ王様が来ても同じだ」
その声に、嘘はなかった。この男は本当に規則を守っている。権力に阿るのでも、怠慢でもなく、自分の仕事を誠実にこなしているだけだ。
リーシェは一瞬、迷った。
この人は悪い人ではない。ガルドとは違う。ただ仕事をしているだけの、普通の人だ。
でも。
時間がない。
トトが奥にいる。殴られて、傷ついて。一秒でも早く助けたい。
「……ごめんなさい」
リーシェは小さく呟いた。
「ん? 何が――」
「ナイナイ」
守衛が消えた。
椅子に座ったまま。マグカップを手にしたまま。読みかけの本が膝の上に開いたまま。
ぼんやりとした灯りの下に、空の椅子だけが残された。
――帰りに、戻すから。
リーシェは自分にそう約束した。
鉄格子の扉に手をかけた。鍵がかかっている。
「ナイナイ」
錠前だけを消した。鉄格子の扉が軋みながら開く。




