31. 決壊
「おいブス、聞いてんのかよ。お前の相棒は今ごろ治安局の牢屋で泣き叫んでるぜ」
心臓がドクン!と強く脈打った。
「……トトが?」
「口を割らねえもんだからよ」
ガルドがにやにやと笑った。その笑みを、舐め回すように広げながら。
「顔の形が変わるまで、可愛がってやったわ」
――顔の形が変わるまで。
その言葉が、リーシェの中の何かに触れた。
トトの顔が浮かんだ。あの人懐っこい笑顔。「姐さん」と呼ぶ声。朝のスープの湯気。カモミールティーの甘い香り。「姐さん頼んますよぉ」と情けない顔で笑うあの目元。
その顔が――腫れ上がっている。
瞬間。
精神の堤防に、亀裂が走った。
チリ……。
かすかな音が、どこかで鳴った。
ガルドの視線がリーシェの下方、階段の暗がりの方へ向き――顔から、笑みが消えた。
「な……なんだ、あれ……」
階段の暗がりから、緑色の腕がぬるりと伸びていた。
ゴブリンだった。
黄色い目をぎょろつかせ、上半身だけがこの世界に這い出している。下半身はまだ虚空に繋がったまま――収納空間の蓋が緩み、中身が漏れ出しかけている状態。
「ギ……ギギギ……」
不気味な声を漏らしながら周りを見回し――ガルドと目が合った。
食堂の壁際の影から、大蜘蛛の脚が一本、二本と突き出てきた。天井に近い暗がりに八つの赤い目が灯り、糸を垂らす口器がかちかちと鳴る。
「ひっ……!?」
荒くれ者の一人が後ずさった。
リーシェの精神が揺れるたびに、収納空間の蓋がまた一つ、また一つと緩んでいく。
トトが殴られた。トトの顔が変わるまで。トトが。トトが。
――だめ。止まらない。
ゴゴゴゴ……と、低い地鳴りのような振動が食堂の床を震わせた。
廊下の奥から、複数の影が現れた。両足で立つ犬の魔物――コボルトの群れが、わらわらとやってくる。続いて、トロールの太い腕が壁の隙間からにゅっと突き出し、鉄のような指が廊下の柱を掴んだ。
食堂は一瞬にして、魔物の巣と化した。
「は……はぁ!? なんだよこれ!? おい、おいおいおいッ!!」
ガルドが叫んだ。目が泳ぎ、足が震え、かつてパーティリーダーだった男の面影は跡形もなかった。
荒くれ者たちはとうに逃げ腰だった。だが、退路がない。背後の出入口を、二匹のゴブリンが這いずるように塞いでいる。
コボルトの一匹が、ガルドの方へ向き直った。鼻面に皺を寄せ、牙を剥く。本能が教えているのだ。こいつらは餌だ、と。
「ギャアアアア!?」
荒くれ者の一人に大蜘蛛が飛びかかった。天井から糸を引きながら落下し、男の肩に八本の脚を突き立てる。別の一人にはコボルトの群れが殺到し、噛みつき、引っ掻き、引きずり回す。
食堂がめちゃくちゃだった。テーブルがひっくり返り、椅子が砕け、食器が割れる。ゲオルグが「店がぁぁぁ!」と悲鳴を上げ、カウンターの奥に飛び込んだ。
ガルドはトロールの前で腰を抜かしていた。巨大な拳が振り下ろされるのを、両腕で頭を庇いながら「た、助けてくれぇぇぇ!!」と泣き叫んでいる。あの傲慢な笑みはどこにもなかった。借り物の権力が一瞬で剥がれ落ち、そこにいたのはただ泣き喚くだけの、惨めな男だった。
もちろん、ガルドは冒険者だ。完全武装してパーティ組んで組織的に戦えばトロールなど敵ではない。しかし、今持っている武器など『腕章』しかないのだ。魔物は忖度などしてくれない。
ガルドが泣きわめく姿を、リーシェは見ていた。
階段の上に立ったまま。無表情のまま。
魔物たちは暴れている。制御が効かない。蓋が開いたまま閉まらない。精神の堤防が崩れかけている。このままでは、さらに魔物が出てきてしまう。そうなれば、宿が壊れるだけでは済まない。街が焼ける。
――止めなきゃ。
リーシェは自分の胸を押さえた。
心が揺れている。激しく、荒々しく。トトの傷ついた顔が消えてくれない。あの笑顔が、血に塗れたイメージが、脳裏にこびりついて離れない。
でも、ここで壊れるわけにはいかない。
リーシェは深く、深く息を吸った。カモミールの残り香はもう薄い。トトの作ったスープのイメージも、とうに消えている。それでも、記憶の中にある甘い香りを手繰り寄せ、精神の堤防を内側から押さえ込む。
「うぅぅぅ……」
静かに、目を開いた。
黒い瞳に、感情の色はなかった。嵐の目のような、壊れる寸前の硝子のような、透き通る凪。
リーシェの唇が、開いた。
「ナイナイ」
声は小さかった。囁くような、子守歌のような、柔らかな響き。
けれどその一言で、食堂の景色が一変した。
ゴブリンが、大蜘蛛が、コボルトの群れが、トロールが消えた。暴れ回っていた魔物の全てが、音もなく虚空に吸い込まれていく。
そして――同時にガルドが消えた。
泣き叫ぶ途中で。腕章を付けた腕ごと。荒くれ者たちもまとめて飲み込んでいく。
全てが一瞬だった。




