30. 魔物の息遣い
狩人は立ち上がり、外套の襟を立てた。
「これで、逃がしても構わない。どうしても口を割らないなら、むしろ逃がした方がいいくらいだ」
低い声で呟く。
「逃がした先に、踏破者がいる」
トトは餌だ。撒いて泳がせる餌。この男がどこへ逃げても、誰のもとへ帰っても、全てを把握できる。
くっくっく……。
狩人は口元を歪めた。いやらしく、冷たく、獲物を追い詰める者だけが浮かべる笑み。
牢獄の片隅で、トトは眠っていた。
冷たい石の床の上で、身体を丸めて。血にまみれた右手の甲に、目に見えない紋を刻まれたまま。
その指先に張りついたカモミールの花弁だけが、この場所にそぐわない、小さな白い光を放っていた。
◇
薬草を摘み終えたリーシェが宿に戻ってきたのは、陽が傾いてきた頃だった。
籠いっぱいの薬草。依頼分はとうに超えていたが、無心に摘み続けていたらこんなになってしまってたのだ。
しかし、食堂に入ると妙に静かだった。
厨房からトトの鼻歌が聞こえない。あるのは、カウンターの向こうで腕を組んでいる大将の渋面だけだった。
「おかえり、リーシェちゃん」
月桂樹亭の主人、ゲオルグ。五十過ぎの大柄な男で、元冒険者らしい太い腕に白いエプロンが似合わない。普段は豪快に笑っているその顔が、今日に限ってどこか曇っていた。
「……トトは?」
「それがなぁ。昼に『ちょっと買い物に行ってくるっす』って出かけたきり、まだ戻ってこねぇんだよ」
リーシェの足が止まった。
「何かあった……?」
「うーん、今までこんなことなかったんだがなぁ……。仕込みにもう間に合わんよ……」
ゲオルグは太い眉を寄せ、窓の外に目をやった。
「仕方ない、俺がやっておくか……。あ、お湯湧いてるよ」
「ありがとう……」
リーシェはカウンターのいつもの席に座った。
安物の乾燥カモミールにお湯を注ぎ――カップに移す。なぜかいつもより香りが薄い。それでも、温もりだけは感じ取れる。
――遅いわね。
時計の針が、やけに遅く進む。
カモミールを一口飲んだ。温かい液体が喉を通る。だが精神は、凪がない。
水面の下で、何かがざわついている。
収納空間の中の魔物たちが、いつもより近く感じる。普段は意識の奥底に沈んでいる気配が、じわりと浮き上がってきていた。ゴブリン、大蜘蛛、コボルト、トロール――収納した全ての魔物の息遣いが、精神の水面をひたひたと叩いている。
――落ち着きなさい。
リーシェは自分に言い聞かせ、カモミールの香りを深く吸った。
「……大丈夫」
小さく呟く。
だが――トトがいない。トトの料理がない。スープもあの温かい味も。精神の錨が、今この瞬間だけ外れている。
リーシェはパタパタと階段を上り、二階の自室に戻った。
小さな部屋だ。ベッドと机と椅子。窓辺にはカモミールの乾燥花が瓶に入れてある。トトが「部屋でも香りがあった方がいいっすよ」と言って置いてくれたものだ。
リーシェは机の上にポットを置き、残りのカモミールティーを注いだ。湯気が細く立ち上り、甘い香りが部屋に広がる。
その香りに包まれながら、椅子に座り、目を閉じた。
――大丈夫。トトは帰ってくる。きっとどこかで道草を食っているだけ。あの人は、放っておいても帰ってくる。いつだって「姐さん!」と笑いながら。
自分に言い聞かせる。何度も何度も。カモミールの香りを、堤防のように積み上げていく。
そうしなければ、内側のざわめきが――。
階下で、ガン! と乱暴に扉が開く音がした。
次に聞こえた声が、リーシェの背筋を刺した。
「よう大将、元気してっか? リーシェはいるか?」
ガルドの声だった。
続けて、複数の足音。がらの悪い男たちの笑い声。ゲオルグの低い声が「何の用だ」と問い返し、それを遮るようにガルドの尊大な声が響く。
「俺様は治安局の臨時協力員だ。リーシェに用がある。おい、ブス! 降りてこい!」
テーブルをガン!と叩く音。食器ががちゃりと鳴る。ゲオルグが「店で暴れるな」と怒鳴る声。
リーシェは能面のような無表情でカップを置いた――。
ゆっくりと立ち上がり、階段のところまで歩く。
吹き抜けを見下ろせば、食堂の光景が視界に入る。
ガルドが食堂の中央に立っていた。腕には白と青の腕章。その後ろに、がらの悪い荒くれ者が三人。品のない顔。ぎらつく目。裏仕事を日銭で請ける類の連中だった。
ゲオルグがカウンターの内側から彼らを睨んでいるが、腕章の権威に手が出せないでいる。
「よう、久しぶりだな。ブス」
ガルドは勝ち誇った笑みを浮かべていた。腕章を見せつけるように腕を掲げ、胸を張っている。かつてパーティのリーダーだった頃よりも尊大で、かつてよりも醜い。借り物の権力に酔った人間特有の、底の浅い全能感。
「王都治安局の臨時協力員だ。リーシェ、お前を重要参考人として連行する」
「……」
リーシェは無表情でガルドを見つめた。




