3. ナイナイ
考えても仕方がない。リーシェは草むらの奥に青い葉が覗いているのを見つけ、そっと手を伸ばした。
その時だった。
――ガサリ。
茂みが揺れた。
この森には小動物も多い。リスか、野うさぎか。そう思って、リーシェは顔を上げる――――。
次の瞬間、三つの影が飛び出してきた。
ゴブリンだった。
緑色の肌に、濁った黄色い目。錆びた短剣を振りかざし、涎を垂らしながら迫ってくる。小柄だが、その動きは獣のように素早く、獰猛な殺意を剥き出しにしていた。腐った肉のような臭気が、風に乗って鼻を突く。
ギュォォォォ! ギャギャギャギャ!
甲高い叫び声が森に響き渡る。先頭の一匹が、真っ直ぐリーシェに飛びかかってきた。錆びた刃が、木漏れ日を反射して鈍く光る。あと数歩。あと一瞬で、その刃は彼女の白い首筋に届くだろう。
普通の人間なら悲鳴を上げて逃げ惑うか、恐怖で足が竦むところだ。
だが、リーシェは違った。
(……あ、死ぬのかな?)
どこか他人事のような感慨が、静かに胸の中を流れていった。
心臓は穏やかに脈打ち、呼吸も乱れない。目の前に迫る死が、まるで遠い景色のように感じられる。薄い硝子一枚を隔てた向こう側で、誰か別の人間が襲われているような――そんな奇妙な隔たりがあった。
死への恐怖というものが、どうにも希薄なのだ。この世界に根を張っていないからかもしれないし――本当の自分は、もうとっくに死んでいるのかもしれない。
(まあ、いいか――)
その時、身体が勝手に動いた。
右手が伸びる。滑らかに、迷いなく。唇が開き、自然と言葉を紡いでいた。
「ナイナイ」
◇
音が、消えた――。
先頭のゴブリンの叫び声が途中で途切れた。まるで見えない手に口を塞がれたかのように、声が虚空に吸い込まれていく。
それだけではない。乱暴にかき分けられる草むらの音も、風の囁きも、自分の呼吸音さえも。世界から、音という音が根こそぎ消え去った。
森が、息を止めた――。
刹那――先頭のゴブリンが、跡形もなく消えた。
リーシェの指先に吸い込まれるように、存在ごと、音ごと、何もかもが――消失した。悲鳴を上げる暇すらなく、最初からそこに何もいなかったかのように、忽然と。
残ったのは、静寂だけだった。耳の奥が痛くなるほどの、絶望的な無音。世界から色彩が抜け落ちたような、そんな錯覚さえ覚える。
「……え?」
リーシェは自分の右手を見つめた。白く細い指先が、微かに震えている。
何が起きたのか、自分でもよく分からない。ただ、いつものように荷物を収納する魔法を、無意識に起動してしまっていたのだ。
【ナイナイ】
それは、失われた記憶の中で唯一覚えていた魔法だった。目覚めた時から、当たり前のように使えた。荷物運びを楽にするだけの、地味な魔法だと思い込んでいたのだが――魔物でも、収納できてしまうらしい。
「ギ……?」
後ろの二匹が慌てて立ち止まり、呆然と立ち尽くしていた。
仲間が消えた。叫び声も、断末魔も、血飛沫の一滴さえもなく。一瞬前まで確かにそこにいた仲間が、影も形もなく消え去った。
ゴブリンの濁った目に、初めて恐怖の色が浮かんだ。本能的な、根源的な恐怖。
三匹は仲間だったのだろう。彼らは群れで狩りをする習性がある。共に獲物を追い、共に血肉を貪り、共に眠る。その絆が、今、目の前で断ち切られた。理解の及ばない力によって、跡形もなく。
獲物だったはずの少女が、今は得体の知れない何かに見えているのだろう。黒髪が風に揺れ、覇気のない瞳が二匹を見つめている。その瞳には感情の欠片もなく、ただ底知れぬ虚ろな闇が広がっているだけだった。
闇の奥に、何かが蠢いている。そんな錯覚を、ゴブリンたちは覚えたかもしれない。
「ギィ……ッ」
二匹は震えながらのけぞった。牙を剥くことも、短剣を構えることもできない。本能が告げているのだ。あれに逆らってはいけない。あれは、自分たちの知る世界の理から外れた存在なのだ、と。
「……逃げないの?」
リーシェが小首を傾げた。
その仕草はどこか幼く、無邪気にさえ見える。だがその声を聞いた瞬間、ゴブリンたちはビクリと身を震わせ――脱兎のごとく茂みの中へ逃げていった。枝を折り、葉を散らし、悲鳴のような叫びを上げながら。
その足音が遠ざかり、やがて森に静寂が戻った。
「……行っちゃった」
リーシェはぼんやりと、逃げていった方向を眺めた。木立の向こうに、緑色の影はもう見えない。森は何事もなかったかのように静まり、鳥のさえずりが少しずつ戻ってきていた。まるで、今の出来事が夢だったかのように。




