29. 刻まれた発信刻印
――姐さんに食べさせたかったのに。
あの甘い香りで、姐さんの心を穏やかにしたかったのに。
その思いだけが、意識を繋ぎ止めていた。
「口を割らねぇか……。なら、もうちょっと可愛がってやるよ」
ガルドが指を鳴らすと、荒くれ者たちがトトを引きずり起こした。
暴行は、しばらく続いた。
狩人は路地の角から一部始終を見ていた。介入するつもりなどない。駒は駒の仕事をすればいい。情報が引き出せれば上等。引き出せなくても、別のカードがある。
◇
治安局の地下牢――。
冷たい石の床に、トトは転がされた。
ガルドが見下ろしている。腕章の白と青が、牢の薄暗い灯りの中でやけに鮮やかだった。
「強情な奴だ……。取り調べはまた明日だ! 次はブスを追い込んでやる!」
ガルドはものすごい目でトトを睨みつけた。情報を引き出せなかった苛立ちと、それでも権力を握っている優越感が、醜くない交ぜになった顔だった。
「あ、姐さん……。ははっ……」
トトは嗤った。
腫れた頬が痛む。折れたかもしれない肋骨がきしむ。口の中は血の味しかしない。それでも、笑いが込み上げてきた。
こんなことになってしまって、姐さんには本当に申し訳ない。自分の軽率さが、全ての原因だ。もっと慎重に動くべきだった。裏市場が安全だなんて、なぜ思い込んでしまったのだろう。
だが――ワイバーンですら瞬殺した姐さんにとって、こんな男たちは何の脅威にもならない。むしろ心配なのは、姐さんが怒りに任せて【解体】ボタンを押してしまいかねないことだった。人間を素材にバラすのは、さすがにまずい――多分。
「何がおかしい!?」
ガルドがトトを蹴った。
グハッ!
身体が跳ねる。だがトトは咳き込みながらも、ゆっくりとガルドの顔を見上げた。
腫れた目の奥に、不思議な光が宿っていた。恐怖でも、憎しみでもない。もっと静かで、もっと深い何か。
「姐さんは……神の使いなんす……」
血に濡れた唇から、その言葉が零れた。
「あっしら人間が近づいていい様なお方じゃないのかもしれない……」
トトの脳裏に、あの光景がよぎっていた。レベルアップの時にリーシェの背中に輝いた光背。読めるはずのない古代文字を読んだ、あの瞬間の横顔。
あの人は、人間ではないのかもしれない。
もっと遠い、もっと高い場所から来た存在なのかもしれない。
それでも――あの人の料理を作れるのは、自分だけだ。
「はぁ? お前頭大丈夫かよ!? あの荷物運びが天使だって? 馬鹿言ってんじゃねぇよ!」
もう一度、蹴りが入った。
ゴホォ……。
視界が急速に暗くなる。意識の糸が、ぷつりと切れた。
最後に見えたのは、鉄格子の隙間から漏れる薄い灯りと、その灯りに照らされた自分の右手だった。石畳の上に投げ出された指先に、カモミールの花弁が一枚だけ張りついていた。
――姐さん。
明日のスープは、きっと美味くするっすから。
トトはガクッと意識を手放した。
「ちっ……。ちょっと焼きを入れすぎちまったか……」
ガルドは舌打ちし、首を振ると、鉄格子の扉を乱暴に閉めて足早に出ていった。靴音が石の廊下に反響し、やがて遠ざかっていく。
牢獄に、静寂が戻った。
◇
「神の使い? どういうことだ……?」
密かに影から様子を見ていた狩人は、低く呟いた。
あの青年の目は、嘘をついている目ではなかった。殴られ、蹴られ、意識を失いかけながらも零れ出した言葉。あれは演技ではない。本気で、心の底から信じている言葉だった。
だが――ただの荷物運びで、クビになって、今日も薬草取りに精を出す少女が「神の使い」?
にわかには信じがたい。しかし、ダンジョンの踏破という事実がある。あの少女に常識では説明のつかない力があることは、もはや疑いようがなかった。
狩人は首をかしげながら牢の中に入り、気絶したトトの傍にしゃがみ込んだ。
呼吸は荒いが、命に別状はない。若い身体だ。一晩寝れば動けるようになるだろう。
狩人はトトの右手をそっと持ち上げ、じっと見つめた。料理人の手だった。包丁ダコがあり、火傷の跡があり、爪は短く切り揃えられている。この手で、あの少女のために料理を作っている。
静かにうなずくと、狩人は外套の内側から小さな針を取り出した。
針の先端に、微かな光が宿っている。紋章術の媒体だ。
トトの右手の甲に、針をそっと刺す。気絶しているトトは反応しない。ぴくりとも動かない。
針が抜かれた後、皮膚の下に薄い紋が浮かび上がった。数秒で色が消え、目視では何も見えなくなる。だが紋は消えていない。皮膚の下に沈み込み、そこに息を潜めている。
発信刻印。
刻印を持つ者の位置を、遠方からでも把握できる追跡術式。逃げても追える。隠れても見つけられる。本人が気づかない限り、永遠に逃がさない。




