28. 漂う花弁
これは本物だ。
権力が、自分を求めている。国が、自分の力を必要としている。
――やっと、だ。
やっとこの時が来た。自分が正しかったことを証明する時が。
「……やる」
ガルドは腕章を掴み取った。白と青の紋章を腕に巻くと、背筋が伸びる。久しぶりの感覚だった。「権力の側にいる」という、あの心地よい重さ。鎧を着た時のような、全能感にも似た昂揚。
自分は正義の側だ。悪いのはあのブスとその仲間だ。治安局がそう言っている。国がそう言っている。
――だから、何をしてもいい。
ガルドの口元が、醜く歪んだ。
◇
夕刻。
トトは市場で買い込んだ高級食材を両手に抱え、上機嫌で宿への帰路についていた。
頭の中では、もう献立が組み上がっている。まず前菜。濃いめに淹れたカモミールティーにハチミツと寒天を加えてジュレにし、薄く切った冷製豚肉の上に乗せる。カモミールの甘い香りと豚肉の旨味が口の中で溶け合う、精神安定と食欲の両方を満たす一品だ。
メインは希少な香草と最高級の牛ヒレで作るロースト。低温でじっくり火を入れ、中心をほんのりと桃色に仕上げる。付け合わせは薬草のグリル。ほろ苦い薬草の風味が、肉の甘さを引き立てる。
姐さんの精神を安定させる素材をふんだんに使った、最高の一食。
「姐さん、驚くだろうなぁ……」
独り言を漏らしながら、裏路地を歩く。夕日が建物の隙間から差し込み、石畳に長い影を落としていた。紙袋の中でフレッシュカモミールの花が揺れ、甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
不意に、角を曲がった先の路地で足が止まった。
男たちが、待ち構えていたのだ。
「……え?」
建物の影になって日が差さない場所。通りの両端に人影が立っている。
三人。いや、四人。
見覚えのある面構え。
「久しぶりだな、トト」
路地の奥から、ガルドが歩いてきた。
腕には白と青の腕章。背後に従うのは、金で雇ったであろう荒くれ者たちだ。品のない顔。ぎらつく目。こういう裏仕事を日銭で請ける、街の底辺にうごめく連中。
「くっ……。ガルド……」
トトの足が止まった。逃げ道は、前後を人影に挟まれて絶たれていた。
「俺様は治安局の臨時協力員だ」
ガルドが腕章を見せつけるように掲げた。その顔には、パーティのリーダーだった頃と同じ――いや、それよりもさらに醜い、借り物の権力を振りかざす者特有の愉悦が浮かんでいた。
「踏破者の関係者として、お前を拘束する。王都治安局の命令だ」
「……俺は何も――」
「黙れ」
ガルドが顎をしゃくった。
荒くれ者たちがトトを取り囲む。後ろから腕を掴まれ、紙袋が叩き落とされた。
石畳の上に、食材が散乱した。
牛肉の包みが汚れた地面に転がり、蜂蜜の瓶が割れ、琥珀色の液体が石畳の隙間に染み込んでいく。
そして――フレッシュカモミールの花が、ぶちまけられた。
白い花弁が夕風に舞い上がり、薄暗い路地の中でひらひらと漂う。甘い香りが、暴力の予感と混じり合って、不気味な美しさを見せた。
「吐けよ。ブスとお前が何をやったか。全部だ」
「し、知らないっすよ。何のことっすか」
「とぼけんな」
ガルドの拳が、トトの顔面に入った。
鈍い音。
グハッ!
視界が回った。口の中に鉄の味が広がる。膝が折れ、石畳に手をついた。指先が、散らばったカモミールの花に触れる。
「もう一度聞くぞ。ダンジョンを攻略したのは誰だ? お前とあのブスは何をやったんだ?」
トトは顔を上げた。
口の端から血が垂れている。頬が腫れ始め、左目の上が切れていた。痛い。頭がぐらぐらする。
だが、その目は真っ直ぐだった。
「知らないって言ってるじゃないっすか」
「この野郎……!」
蹴りが腹に入った。息が詰まる。地面に転がり、身体を丸める。背中に靴の底が何度も何度も叩きつけられた。
ゴハッ! グハァァァ!
「吐け!」
「はぁ……はぁ……はぁ……。知らない……っす……」
「嘘つくんじゃねぇ! 裏市場でワイバーンの鋼鱗売っただろうが! 踏破者と無関係なわけねーだろがよ!」
トトは歯を食いしばった。
全部知られている。鋼鱗を売ったことも、リーシェと組んでいることも――。
否定しても無駄だとわかっている。
けれど。
「……知らない」
絶対に言わない。
姐さんの秘密は、死んでも守る。
この命に代えても。
何があっても。
「てめぇ……!」
ガルドの目が血走った。殴打が続く。顔に。腹に。背中に。トトの視界が明滅し、意識が何度も遠のきかける。そのたびに、あの笑顔を思い出す。ワイバーンのステーキを食べた時の、姐さんの小さな笑み。あの笑顔を守るためなら、この程度の痛みなど。
石畳に散らばった食材が、トトの血で汚れていく。割れた蜂蜜の瓶。潰された香草。泥にまみれた牛肉。
そしてフレッシュカモミールの白い花が、赤い水たまりの上に浮かんでいた。




