26. 壮大な釣堀
裏市場は、街の東端にある倉庫街の奥にあった。
表通りから何本か路地を折れ、日の当たらない裏道を抜け、錆びた鉄扉を叩き、合言葉を告げると、薄暗い地下通路に通される。冒険者時代の人脈が、こういう時に生きた。あの頃は嫌で嫌でたまらなかった裏社会との付き合いが、まさか姐さんのために役立つ日が来るとは。
地下に広がる市場は、想像以上に活気があった。
正規のギルドでは扱えない曰く付きの素材。出所不明の魔道具。盗品すれすれの美術品。それらが所狭しと並び、怪しげな商人たちが値をつけ合っている。空気は黴と蝋燭の煤で淀み、ランプの灯りが人々の顔を不気味に照らしていた。
トトは慣れた足取りで市場の奥へ進み、顔見知りの仲買人を探した。
「よぉ、トトじゃねぇか。久しぶりだな」
声をかけてきたのは、髭面の大男だった。禿頭に古い傷跡。元冒険者の仲買人で、名をバドという。冒険者時代にたびたび世話になった男で、荒っぽいが義理堅い。少なくとも、トトはそう思っていた。
「バドさん、ちょっと買い取ってほしいもんがあるんすけど」
「へぇ。お前まだ冒険者やってたのか?」
「まあ、ちょっとだけ」
トトは布袋を開き、中身を見せた。
薄暗い灯りの下でも、鋼鱗は鈍い光沢を放っていた。黒みを帯びた銀色。表面に走る微細な紋様。見る者が見れば、一目でそれが何であるかわかる。
バドの目が、一瞬で変わった。
「……おい。これ……」
「しっ! 静かに、お願いっす」
「ワイバーンの……鋼鱗……?」
バドの声が掠れていた。禿頭に汗が浮かび、素材を持つ手が微かに震えている。裏市場の古株ですら、こんな素材を目にすることは稀だった。自分で扱うなんて一生に一度あるかないかだろう。
「三枚あるんすけど、買い取れます?」
「……買い取れるかって……お前な……」
バドは周囲をきょろきょろと見回し、声をひそめた。
「こんなもん、ここで見せたら大騒ぎになるぞ。どこで手に入れた?」
「それは言えないっす」
「言えない、か……」
バドの目が細くなった。仲買人の目だ。出所を詮索するのは野暮だと知りつつも、このクラスの素材には必ず「裏」がある。それを承知の上で引き受けるのが裏市場の流儀であり、同時にそれが仲買人の旨味でもある。
「……わかった。ただし、ここじゃダメだ。奥の個室に来い」
バドはトトを市場の最奥にある個室へ案内した。重い木の扉を閉め、ランプの灯りを絞り、声を潜めての取引。
交渉は驚くほどスムーズだった。鋼鱗三枚で金貨六十枚。市場の相場よりはかなり安いが、即金で、しかも出所を問わないという条件を考えれば上出来だ。
トトは革袋に詰まった金貨の重みを手のひらに感じながら、ほくほく顔で個室を後にした。
「これで、姐さんにとびきりの飯を作れるっす……!」
トトの顔は綻んでいた。リーシェが「美味しい」と言ってくれる顔を想像すると、自然と足取りが軽くなる。頬が緩む。鼻歌すら出そうになる。
地下通路を抜け、鉄扉をくぐり、路地に出た。
幸福な帰り道だった。
――幸福な、帰り道のはずだった。
トトは気づかなかった。
裏市場に入った瞬間から、自分が「見られて」いたことに。
バドと取引している間、個室の壁の向こう側で、すべてが筒抜けだったことに。
ワイバーンの鋼鱗のような規格外な素材。それが出た瞬間、売り手の動線が追われ、関係者が洗い出される。そうなるように――この裏市場そのものが、とうの昔に仕掛けられた装置だったことに。
釣堀。
治安局がそう呼ぶ、情報収集の罠。裏市場を黙認する代わりに、高額素材の取引を監視する。犯罪者を炙り出すための、巨大な網。
もちろん、そんなことバドや仲買人たちは知る由もない。裏社会の上層部と治安局だけの秘密だった。
そして、トトは、その網に自ら飛び込んだのだ。
――姐さんに美味いものを食べさせたい。
ただそれだけの、純粋な想いで。
◇
裏市場の壁の裏。監視室と呼ばれる窓のない小部屋で、黒い外套の男が報告書を書いていた。
影鎗騎士団の監視役――通称、狩人。
この男が三日前から裏市場に張り込んでいたのは、偶然ではない。ダンジョン踏破者が素材を換金するなら、正規ルートを避けて裏に流す。狩人はそう踏んでいた。
そしてその読みは、見事に的中した。
男は報告書の最後に一文を書き加えた。
――茶髪の青年。元冒険者。ワイバーンの鋼鱗三枚を換金。宿は旧街区の『月桂樹亭』。仲間に黒髪の少女あり。
ペンを置き、男は低く呟いた。
「踏破者は"人"じゃない。国の"道具"だ。勝手は許さん!」
早速、治安局長の秘書に連絡を取りアポを取る。歯車が回り始めた。
狩人は黒い外套の襟を立て、監視室を後にする。
狩りが、始まった。




