25. 鮮やかな色彩
カウンター席で二杯目のカモミールを飲みながら、リーシェはぼんやりと窓の外を眺めていた。
街は相変わらずダンジョン攻略の話題で騒がしい。しばらくは続くだろう。やがて噂が噂を呼び、尾ひれがつき、攻略者の正体について突拍子もない憶測が飛び交うようになる。
けれど、自分たちに辿り着く手がかりはないはずだ。ポータルから出てくるところを見た者はいない。ダンジョンの中で誰かに会うこともなかった。
大丈夫。きっと、静かに暮らせる。
――そう自分に言い聞かせた。
トトが厨房からひょっこり顔を出す。
「姐さん、お昼はワイバーンのシチューにしましょうか? それとも竜血のパスタ?」
「……どっちでもいい。美味しい方」
「どっちも美味いっすよ!」
「じゃあ両方」
「よっしゃ! 腕が鳴るっす!」
トトが嬉しそうに厨房に引っ込んでいく。その背中を見ながら、リーシェはほんの少しだけ口元を緩めた。
大丈夫。
この宿があって、トトの料理があって、カモミールがある。
それだけあれば、静かに暮らせる。
――きっと。
窓の外で、秋の風が街路樹の葉を揺らしていた。一枚の枯葉がくるくると舞い、通りの向こうへ飛んでいく。
その枯葉が消えた路地の奥で、黒い影が動き出したことに、リーシェは気づかなかった。
◇
ダンジョン踏破の報から三日が経った。
街の興奮は収まるどころか、日に日に熱を帯びていく。酒場では「攻略者は他国の英雄に違いない」「いや、古代の魔導師が蘇ったのだ」と憶測が飛び交い、ギルドの掲示板には新たな布告が貼り出されていた。
――『黒鉄の迷宮の踏破者は王都治安局へ届け出ること。報告は義務です』
表向きは安全管理の名目だ。だがその文面の裏に潜む意味を、読み取れる者は少なくない。踏破者を国家戦力として確保する。未報告は国益侵害として処罰する。つまり――名乗り出ろ、さもなくば罪人にする、という脅しだ。
リーシェはその布告を一瞥し、何も言わずに通り過ぎた。
いつも通りの朝だった。カモミールを飲み、トトの朝食を食べ、午後は薬草取りに出かける。何も変わらない。何も変わらないはずだ。
けれど。
街の空気は、確実に変わり始めていた。
◇
その日、トトは宿の厨房で腕を組み、難しい顔をしていた。
目の前には、今朝の仕入れで手に入れた食材が並んでいる。人参にキャベツ。干し肉。安物の香草。どれも悪くはないが、良くもない。いつもと変わらない、ありふれた品揃えだ。
トトはため息をついた。
ありふれた食材では、ありふれた料理しか作れない。もちろん腕でカバーはできる。煮込みの時間、焼き加減、塩の振り方ひとつで味は変わる。だが限界がある。どれだけ技術を磨いたところで、素材の質がそのまま料理の天井になる。それは料理人にとっての宿命であり、トトが誰よりもよく知っている真実だった。
もちろん、一般客へ出す料理ならこれで充分だ。うちの食堂は高級レストランではない。温かくて、腹が膨れて、ちょっとだけ幸せな気分になれる家庭料理。常連たちはそれで満足してくれるし、トト自身もその料理に誇りを持っている。
だが。
――姐さんには、もっと美味いものを食べさせたい。
その思いが、ここ数日ずっと胸の中で燻っていた。消そうとしても消えない、熾火のような衝動。
ダンジョンから戻ったあの夜のことを、トトは鮮明に覚えている。ワイバーンのステーキを一口食べた時の、リーシェの顔。あの時、姐さんは笑った。本当に、本当に小さな笑みだったけれど――あれは間違いなく、幸せの表情だった。
能面のように動かない顔が、ほんの一瞬だけ溶けた。凍りついた湖面に、春の陽が一筋差したような。あの瞬間を、トトは一生忘れないだろう。
トトは「味」の意味を知っている。
リーシェにとって、食事は単なる栄養摂取ではない。自分の料理だけが、彼女をこの世界に繋ぎ止める楔だ。色を失った彼女の世界の中で、唯一色のある時間。それを作れるのは、世界で自分だけだ。
ならば、その色をもっと鮮やかにしたい。
もっと美味い素材で。もっと芳醇な香草で。そして何より――上級品のカモミール。市場に出回る干された安物ではない、王都の専門商が扱う、薫り高い本物の生のフレッシュカモミール。乾燥品とは比べものにならない、蜂蜜のように甘く、青草のように爽やかな、あの生きた香り。あれがあれば、姐さんの精神はもっと安定する。暴走のリスクだって下がるはずだ。
問題は、金だ。
ワイバーンの素材は山ほどある。リーシェの収納空間に、国宝級の財産が眠っている。だが、正規のルートで売れば出所を疑われる。ワイバーンの素材など、普通の冒険者が持っているわけがない。まして今は、ダンジョン踏破者を探す目が街中に光っている時期だ。
となれば――裏市場しかない。
トトは厨房の棚から、布に包まれた小さな袋を取り出した。中には、リーシェから「好きに使っていいわよ」と渡されたワイバーンの鋼鱗が三枚入っている。一枚で金貨三十枚以上の価値がある超高級素材だ。
三枚もあれば、生のフレッシュカモミールはもちろん、希少な香草も、最高級の食材も、好きなだけ買える。
「姐さんに美味いもん食わせるためっす」
誰に言うでもなく呟いた。その声には、決意があった。
トトはエプロンを外し、布袋をしっかりと懐にしまい込んで、宿を出た。




