24. 影鎗騎士団
穏やかな夜だった。
ランプの灯りが食堂を橙色に染め、トトが厨房と行ったり来たりしながら次々と料理を出してくる。ワイバーンの素材を使った即興の小品たち。竜血のスープ、鋼鱗の出汁で煮込んだ野菜、竜脂で焼いたパン。どれもが驚くほど美味しく、リーシェの皿は珍しく空になった。
「姐さん、完食っすね!」
「……食べすぎたわ」
「いいんすよ! 今日はお祝いなんすから!」
「お祝いって……何の」
「ダンジョン踏破の! ……あ、秘密だった。じゃあ、二人だけのお祝い」
「……ばか」
リーシェはそう言って、ワインを一口含んだ。
窓の外に、あの作り物めいた月が浮かんでいる。蒼白い光がガラス越しに差し込み、カウンターの上に仄かな輝きを落としていた。
いつもなら、あの月を見ると胸がざわつく。この世界のものではない自分を突きつけられるような、そんな感覚に襲われる。
けれど今夜は、少しだけ違った。
トトの料理の温もりが防波堤になっているのか、いつもの不安が遠い。
――この静かな時間が、ずっと続けばいいのに。
リーシェは自分がそう思ったことに、少しだけ驚いた。何かを望むこと自体が、この世界に来てから初めてかもしれない。
カモミールを飲んで、トトの料理を食べて、味の薄いワインを傾けて、穏やかな夜を過ごす。それだけでいい。それだけで。
だがこの静かな時間が、長くは続かないことを二人は、まだ知らない。
◇
翌朝。
リーシェが目を覚ましたのは、窓から差し込む朝日のせいではなかった。
階下の食堂から、ざわめきが聞こえてくる。いつもの朝とは明らかに違う、興奮を含んだ声の波。
「……うるさい」
リーシェは枕に顔を埋めた。だが、ざわめきは収まるどころか大きくなっていく。
渋々ベッドから起き上がり、階段を降りると、食堂で冒険者たちが騒いでいた。
「おい見ろよ! 号外だぜ!」
冒険者の一人が、ギルドで配られていたらしい公報紙を広げていた。
――『ダンジョン攻略者、正体不明!』
――『史上最速クリアか!? 前人未到の最深部を踏破した謎のパーティ』
――『ギルド本部、情報提供に懸賞金を設定!』
「すげぇよな! 誰がやったんだ?」
「Aランクの連中でも無理だろ、あのダンジョン……」
「もしかして、他国の英雄が旅の途中で……?」
食堂中がその話題で持ちきりだった。
リーシェはカウンターの隅に腰を下ろし、トトが差し出したカモミールティーを受け取った。
「……最悪」
小さく呟く。
トトは苦笑しながら、声をひそめた。
「懸賞金まで出てるっすよ……大丈夫っすかね……」
「……黙ってればバレないでしょ」
「……ですよね」
二人は目を合わせ、ほんの一瞬だけ共犯者の笑みを交わした。
――その時。
リーシェはふと、首筋にちくりとした感覚を覚えた。
視線だ。
誰かに見られている。
さりげなく食堂を見回す。冒険者たちは号外に夢中で、こちらを見ている者はいない。常連客も、トトに料理を注文する者も、リーシェになど関心がないようだった。
――気のせいかしら。
リーシェはカモミールを一口飲み、窓の外に目をやった。
朝の陽光が通りを照らしている。行き交う人々。荷車を引く馬。いつもの朝の光景だ。
だが――通りの向こう側、宿の斜向かいにある建物の軒先に、黒い外套の人影が見えた気がした。
目を凝らした時には、もう消えていた。
人混みの中に紛れたのか、それとも最初から誰もいなかったのか――。
「姐さん? どうかしました?」
「……なんでもない」
リーシェはカモミールに視線を戻した。
淡い黄金色の液体が、カップの中で静かに揺れている。湯気が細く立ち上り、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
――気のせいよ。
そう自分に言い聞かせた。
けれど首筋のちくりとした感覚は、カモミールを飲み干した後も、ほんのわずかに残っていた。
◇
宿の斜向かい。路地の影に立つ黒い外套の男は、窓の向こうの黒髪の少女の姿を見つめていた。
「あの二人……か」
男は低く呟いた。
昨日、ダンジョンのポータルから出てきた二人。群衆を避け、裏道に消えた二人。あの行動は、何かを隠そうとしているものに他ならない。
少女の方は、黒髪ロング。整った顔立ち。年齢は十八前後。冒険者ギルドに登録があるがただの荷物運び。
青年の方は、茶髪の短髪。筋肉質。元冒険者で、現在は宿の厨房で働いている。
どちらも、Cランクにすら届かない無名の冒険者。そんな二人が、前人未到のダンジョンを踏破した? ありえない。
が――。
攻略者の名乗り出ない異常事態、人目を忍ぶようにポータルから出てきた二人、彼らが何かを知っているのは間違いないだろう。
「……調べる価値はありそうだ」
男は外套を羽織りなおしたが、その際、その内側の徽章を朝の光が一瞬だけ照らした。
その徽章に刻まれていたのは、王国直属の諜報機関――影鎗騎士団の紋章だった。




