23. 黒い外套の男
「なあ、もう誰も出てこないぞ?」
「別の出口から出たのか?」
「ダンジョンに別の出口なんてねーよ!」
「じゃあ中にまだいるのか? それとも……」
騒ぐ人々の注目がダンジョン入口に集まっている隙に、二人は木陰からそっと離脱した。さりげなく人込みを抜け、路地を曲がり、人通りの少ない道を選んで歩く。
「姐さん」
「なに?」
「今日、楽しかったっす」
トトの声は、澄んでいた。
「……そう」
「また行きません? ダンジョン」
「……やだ」
「えーーっ! 行きましょうよぉ……」
「もう一生分は稼いだじゃない。これ以上何するのよ?」
「俺、ずいぶんレベルアップしたっすけど、一匹も倒してない……どこかで試したいんす」
「試したいねぇ……」
リーシェは口をキュッと結んだ。
あまり突っぱねて、トトがどこかのパーティへ入ってコックを辞められても困るし、かといって頻繁に行くのも面倒くさい。
はぁぁぁ……。とリーシェは深いため息をついた。
「……考えとく」
「やった!」
「考えとくって言っただけ」
「姐さんの『考えとく』はOKってことっすよね?」
「……知らない。早くカモミールが飲みたいわ……」
「わっかりました! 特別美味しいカモミール入れてあげるっす!」
「え? カモミールなんて誰が入れても同じじゃないの?」
「なーに言ってるんすか! お湯の温度とかカップの温め方とかいろいろあるっす!」
「あら、そういうもの?」
「そうっすよ!」
「ふふっ、楽しみだわ」
二人は歩いた。リーシェは気怠く、トトは軽やかに。
だが――その背中を、ひとつの視線が追っていた。
群衆の端。ダンジョン入口の喧騒から少し離れた場所に、ひとりの男が立っていた。
黒い外套。フードの奥から覗く鋭い目。腰には細身の剣が吊るされていた。
男は、たまたま二人がポータルから出て木陰に隠れるのを遠くから目ざとく見つけていたのだ。そして、裏道へと消えていくのを、密かに追っていた。
「……なぜ、この騒動の中を人目を避けるように帰る?」
男は呟いた。低く、静かな声だった。
群衆が探している「攻略者」を、他の誰もが見逃した中で、この男だけが捉えていた。
「少女と、青年。二人パーティ……? ありえんが……面白い」
男はフードを深く被り直し、二人が消えた路地の方角へすっと歩き出した。
群衆の喧騒が、その足音をかき消していく。
◇
宿に戻ったのは、日が傾いたころだった。
食堂にはいつもの数少ない客がぽつぽつといるだけで、かつての賑わいは戻っていない。ガルドの嫌がらせの影響が、まだ続いているのだ。
だが今夜のリーシェは、空いた席の多さが気にならなかった。
なぜなら。大将に補償してもあまりある原資がアイテム画面の中にずらっと並んでいるのだから。
「どうぞ、姐さん! ワイバーンのステーキっす!」
トトが誇らしげに皿を差し出した。
カウンターの上に置かれた皿から、芳醇な香りが立ち上っている。赤褐色に焼き上げられた肉は厚みがあり、ナイフを入れると中から淡い桃色の肉汁が溢れ出した。付け合わせには香草のソテーと根菜のグリル。ソースは竜血をベースにした深い赤で、皿の上に芸術的な弧を描いている。
「伝説の素材を最高の料理にできるのは、世界で俺だけっすよ!」
トトは胸を張った。その自信は、決して根拠のないものではなかった。ワイバーンの肉は本来、極めて硬く、独特の臭みがあり、調理は至難とされている。それを、この青年は見事に手懐けてみせたのだ。
リーシェはフォークとナイフを手に取り、一切れを口に運んだ。
舌の上で肉が解ける。龍の力強さと、トトの料理だけが持つ繊細な優しさが渾然一体となって、味覚の奥の奥まで染み渡っていく。今日一日の疲れが、フラッシュバックの痛みが、全て溶かされていくようだった。
――瞬間。
また、あの感覚が訪れた。
温かい。懐かしい。胸の奥の、ずっと閉じていた扉が、そっと押し開けられるような。
ざわついていた精神が、凪いでいく。
深い、深い、安堵。
「……美味しいわ」
リーシェの声が、かすかに震えた。
「でしょう!」
トトがガッツポーズをする。その満面の笑みを見ながら、リーシェは思った。この男の料理がなければ、自分はいつか壊れてしまうかもしれない。あのフラッシュバックの後、精神を保てたのは彼のスープのおかげだと思う。
そして今、この一皿が、また自分をこの世界に繋ぎ止めてくれている。
「やっぱりトトの料理は最高ね」
リーシェは少しだけ――本当に少しだけ、微笑んだ。
トトは一瞬固まり、それから顔を赤くして視線を逸らした。
「そ、そう言ってもらえると……その……ありがたいっす……」
「なに照れてるのよ」
「い、いや、姐さんが笑うの珍しいから、つい……」
「笑ってない」
「笑ってたっす! 絶対!」
「……うるさい」
リーシェはワイングラスを傾けた。大将の秘蔵だという赤ワイン。味は――やっぱりぼやけている。けれど、トトの料理の余韻が舌に残っている間は、かすかに葡萄の芳醇さが感じ取れる気がした。
それだけで、充分だった。




