2. 箱庭の違和感
翌朝、リーシェは重い足取りでギルドへ向かった――。
朝靄がまだ街路に漂う時刻である。石畳を踏む足音が、静かな通りに響いていた。パン屋の窓からは焼きたての香りが漂い、早起きの商人たちが荷車を引いて行き交っている。
この街の朝は、いつも同じ匂いがする。人々の営みの匂い。生活の匂い。だが、リーシェにとっては、どこか遠い国の風景を眺めているような、そんな隔たりのある光景だった。
ギルドに着くと、冒険に向かう冒険者たちのにぎやかな声が響いている。
「ふぅ……」
リーシェは大きく息をつくと受付へと向かった。
受付嬢のミーナはリーシェを見つけるとハッとして、申し訳なさそうな顔で口をキュッと結ぶ。栗色の髪を丁寧に結い上げた彼女は、いつもは明るい笑顔を絶やさない娘なのだが、今日は眉根を寄せ、唇を噛んでいた。
「リーシェさん……その、大変申し上げにくいのですが」
「なに?」
「リーシェさんを他のパーティに斡旋することが、当面の間できなくなりまして……」
「……へぇ」
リーシェは周囲を見回した――。
冒険者たちがひそひそと囁き合っている。視線がこちらを向いては、すぐに逸らされる。まるで穢れたものでも見るかのように。
「――禁術使いだって」
「仲間を見捨てたらしいぜ」
「魔物を操る邪法の使い手だとか……」
ああ、なるほど。ガルドが何か吹聴し、ギルドにも手を回したらしい。
禁術。邪法。仲間を見捨てた。どれも身に覚えのない話だった。だが、否定する気力も湧いてこない。
「反論とか、されないんですか……?」
ミーナが心配そうに尋ねた。その瞳には、純粋な憂慮の色が浮かんでいる。彼女だけは、リーシェを信じてくれているのかもしれない。
リーシェは小さく首を傾げた。
「タルい」
「た、タルい……?」
「言わしておけばいいわ……」
噂。評判。信用。この世界の人々が大切にしているもの。リーシェには、それがどうにも実感できないのだ。名誉を傷つけられた怒り、というものが湧いてこない。悔しさも、悲しみも、まるで霧の向こうにあるように朧げで、手が届かない。
ただ、生きていくうえでの最低限のお金をどう確保したらいいか――?
それだけは何とか目途をつけておきたかった。
「あの……ソロでの依頼でしたら、ギルドとしてはお受けできますが……」
ミーナが控えめに提案する。その声には、せめてもの救いを差し出そうとする優しさが滲んでいた。
「ソロ?」
「はい。パーティへ入れなくても、個人で受けられる依頼なら大丈夫ですので……」
リーシェは掲示板に目をやった――。
羊皮紙の依頼書が所狭しと貼られている。魔物討伐、護衛任務、ダンジョン探索。どれも戦闘力を必要とするものばかりだ。ソロで受けられる依頼、戦闘力のない荷物持ちが一人でこなせるものは、ほとんどない。
だが、唯一現実的なものが一枚だけあった。
『薬草採取 報酬:銀貨五枚 場所:東の森 ※危険度:低』
銀貨五枚。宿代と食事代で、二日ももたない金額だ。だが、選り好みできる立場ではなかった。
「……これしかないか」
「申し訳ありません……本当に」
ミーナの声が震えていた。彼女の目尻に、うっすらと涙が滲んでいるのが見える。
「別に。ミーナさんのせいじゃないし」
リーシェは依頼書を手に取り、ギルドを後にした。背中に刺さる視線と囁き声が、じわじわと染み込んでくる。それでも振り返らなかった。振り返ったところで、何も変わらないのだから。
◇
東の森は、街から半刻ほど歩いた場所にあった――。
木立の間から差し込む陽光が、地面にまだらな模様を描いている。鳥のさえずりが遠くから聞こえ、風が梢を揺らすたびに、葉擦れの音が波のように広がっていく。
リーシェは草むらをかき分け、黙々と薬草を探しては摘んでいた。思ったより順調ですでに依頼量の半分ほど取れている。青々とした葉が、朝露に濡れて光っていた。
「……平和だわ」
ぽつりと、言葉が漏れた。
これでいい。パーティになんて入らなくていい。ダンジョンなんて潜らなくていい。静かに薬草を摘んで、報酬をもらって、カモミールティーを飲んで眠る。
それだけで十分だ。それだけで、いい。
風が吹いた。木々がざわめき、木漏れ日が揺れる。その音さえも、どこか遠い場所から聞こえてくるようで、リーシェは自分がこの森に溶け込めていないことを感じていた。
(私は、なんでここにいるんだろう)
ふと、そんな考えが浮かぶ。この世界で、この身体で、この名前で。目覚めてから一年が経つのに、生きている実感がいつも薄い。
足元の土を踏みしめても、手のひらで葉に触れても、どこか作り物のような違和感しかない。本当の自分は別の場所にいて、箱庭に置かれたこの身体を遠くから操っているような――そんな奇妙な感覚が、いつも付きまとっている。
死にたいわけではない。でも、生きていたいわけでもない。ただ、流されるままに呼吸をして、日々を過ごしている。それが生きるということなのか、リーシェには分からなかった。




