15. 運動神経の問題
「え、いや、もうちょっと――」
「帰る」
「姐さぁぁん! まだ入って一時間じゃないっすかぁ! もうちょっと! もうちょっとだけ……」
トトは追いかけて拝み倒す。
「……タルいんだけど」
「お願いします! もう少しだけ! ツケには利子もあるんすよ!」
「……利子?」
リーシェの足が止まった。
「大将、そういうとこキッチリしてるんすよ……。客が減った分色付けてバーンと返しましょう!! ねっ、ねっ?」
「……はぁ」
リーシェは深いため息をついた。天井を仰ぎ、闇の中に溶けた高みをぼんやりと見上げる。
「もうちょっとだけ。帰ったら美味しい料理出しますからぁ~」
せっかく十階層にまで来ているのだ。こんな機会はまたとない。トトは必死になって説得した。
「……三十分だけよ」
リーシェはジト目でトトをにらんだ。
「ありがとうございます! 愛してます!」
「二回目……。キモい」
リーシェは素っ気なく返して歩き出した。黒髪が揺れ、魔法灯の光を受けてさらりと流れる。
「くふふふ、やったぁ!」
トトはピョンと飛び上がる。リーシェは次、どんな景色を見せてくれるのか? きっとまた想像を超えた展開が待っているのだろう。ワクワクが止まらない。
次のボスも倒せたりしたら――。
「うひょぉ!」
トトはにやけ顔が止まらなかった。
ただ、その背中を追いかけながら、さっき見た光の輪のことを思い出す。あれは本当に気のせいだったのだろうか。あの一瞬、リーシェの姿は――まるで、聖典に描かれた天使のように見えた。
まさか、と首を振る。
天使というのは威厳があって圧倒的なオーラで人々を導く存在だと、伝説では語られているのだ。
この無気力で、面倒くさがりで、ワインのツケすら払えない姐さんが、神の使いなわけがない。
――けれど。
あの光だけは、どうしても忘れられなかった。
◇
さらに攻略は進む。
十一階層。壁に穴を開けながら、二人は最短ルートを突き進んでいた。
リーシェが「ナイナイ」と呟くたびに石壁が消え、新たな通路が姿を現す。もはや手慣れたものだった。トトが地図を広げ、「次は右っす」と指示を出し、リーシェが壁を消す。まるで流れ作業のような連携が、いつの間にか出来上がっていた。
「姐さん、もうすぐ十二階への階段っすね。このペースなら――」
ゴゴゴゴゴ……。
いきなり足元が――揺れた。
「あ」「あ」
二人は同時に足元を見た。
石畳にひび割れが走っている。壁面の古代文字が赤く明滅し、天井から砂がぱらぱらと落ちてくる。見覚えのある光景だった。
「また来るっすよ姐さん!」
トトはガシッとリーシェの華奢な腕をつかんだ。
「わかってるわ。はぁぁぁ……」
リーシェは面倒くさそうにため息をついた。
周囲の壁がうねり始める。天井が降り、床がせり上がり、四方から石の圧力が迫ってくる。ダンジョンの報復。ルールを破った者への、二度目の制裁。
そして――やはり、足元が崩れた。
「うわぁ!」
漆黒の闇が口を開け、二人を呑み込む。
風が唸り、視界が暗転する。トトのブレスレットが青い光を放ち、落下速度を緩和した。壁面のヒカリゴケの輝きが、猛烈な勢いで上方へ流れていく。
だが、さっきほどの恐怖はなかった。
「二回目だと慣れますね」
トトは意外と落ち着いた声で言った。人間の適応力とは恐ろしいもので、一度経験した恐怖は二度目には幾分か和らぐ。もっとも、慣れていいものかどうかは別として。
「あと二十三分だからね」
「姐さん、細かいっすよ。もうちょっとアバウトでさぁ……おわぁ!」
底が来た。
トトはまたしても着地に失敗し、石畳の上をゴロゴロと転がった。背中を打ち、肘を擦り、最終的にうつ伏せの姿勢で停止する。
「いっ……てぇ……。気を取られてたっす……」
リーシェはやはり猫のように身軽に着地していた。膝を軽く曲げただけで衝撃を吸収し、黒髪を一房かき上げて、転がるトトを見下ろしている。
「……運動神経の問題じゃないかしら」
「姐さんが細かいからっす……」
トトが涙目で起き上がる。
周囲を見回した。空気が重い。さっきの十階層のボス部屋前も相当な魔力の濃度だったが、ここはその比ではなかった。
通路の奥に、また巨大な扉があった。
今度の扉は先ほどよりもさらに大きく、さらに禍々しかった。表面に刻まれた魔獣の彫刻が、光ゴケの青い光を受けて不気味に蠢いているように見える。扉の継ぎ目から漏れ出す光は、紫紺に近い禍々しい色をしていた。
「やっぱりボス部屋……さっきよりやばい気配がするんすけど……」
トトは腰の痛みをさすりながら、扉を見上げた。
扉の向こうから滲み出す魔気が、肌の上を這い回るようだった。本能が、全力で警告している。さっきのオーガ・キングとは格が違う。もっと偉大で、もっと獰猛な何かがいる。




