12. 容赦ない報復
「あー、面倒くさい……」
リーシェはうんざりした顔で、四方から迫り来るうねる壁を見つめた。その声に滲んでいるのは、怒りでも恐怖でもなく――ただ純粋な、倦怠。命の危機を前にしてなお、この少女の感情は動かない。
「くっ! やっぱり禁じ手だったっす! ダンジョンが怒ってるんすよ!」
「ダンジョンって怒るの?」
「知らないっすよ! でも明らかにキレてるっす!」
壁はいよいよ二人を押し潰さんばかりの勢いで迫ってくる。通路がどんどん狭くなり、トトは壁と壁の間に体を入れて何とかスペースを作ろうと力を入れる。あと数十秒もすれば、身動きすら取れなくなるのだ。
「やばいっすよ姐さん! 逃げられなく――」
その時、なんと足元が――崩れた。
「うわぁぁぁ!?」
落とし穴だった。
壁で追い詰め、足元を崩す。ダンジョンの意思が仕掛けた二段構えの罠。床が突然消失した二人の身体は漆黒の闇の中へと投げ出された。
風が耳元で唸る。視界が暗転する。上も下もわからない。重力は二人を容赦なく底のない闇へと引きずり込んでいく。
「姐さん! つかまって――」
トトは落下しながら必死にリーシェの手を探った。闇の中、手探りで伸ばした指先が細い手首に触れる。驚くほど華奢な、冷たい手首をしっかりと握りしめた。
直後、ボウッとトトのブレスレットが青い光を放つ。
魔鉱石で作られた落下緩衝のブレスレットだ。冒険者に人気のアイテムで、落下速度を魔力で緩和してくれる。かつて冒険者をしていた頃に買ったもので、辞めた後も御守り代わりにつけていた。
まさか本当に命を救われることになるとは――。
つけていなければ今頃、二人とも闇の底で肉塊になっていたところだ。
だがそれでも、落下はかなりの速度だった。
壁面のところどころに生えたヒカリゴケの青い輝きが、猛烈な速度で上方へと流れていく。その光だけが、二人が今どれほどの勢いで落ちているかを教えてくれた。
どこまで深いのか、見当もつかない。
「くぅぅぅ……マズいっすよぉ……」
トトは青い顔で暗闇の中をキョロキョロと見回した。深い。深すぎる。一体何階層分を落ちているのか。
「ショートカットできていいじゃない」
リーシェの声が、風の中から聞こえた。
「……へ?」
トトは思わず隣を見た。
落とし穴に叩き落とされたというのに、リーシェは泰然としていた。スカートの裾が風を孕んで大きく翻るのを片手で押さえながら、もう片方の手はトトに握られたまま、平然と虚空を見つめている。
時折、壁面のヒカリゴケの青い光がリーシェの横顔を照らした。
怖いほど美しかった。
漆黒の闇を落ちていく黒髪の少女。青い光の断片が頬をかすめ、長い睫毛に影を落とし、黒い瞳の奥に一瞬だけ星のような光を灯す。どこか幻想的で、この世の者ではないようにすら見えた。
そして――唐突に、底が来る。
二人は冷たい石の床に叩きつけられた。ブレスレットの緩衝魔法が衝撃の大部分を吸収してくれたものの、身体に伝わる振動は相当なもの。
「ごはぁっ!」
トトはゴロゴロと転がり、石畳の上で大の字になって呻いた。背中が痛い。腰が痛い。全身の骨がギシギシときしんでいる。
だが、リーシェはまるで猫のように身軽に着地していた。膝を軽く曲げて衝撃を吸収し――ググっとこらえると、黒髪をさらりとかき上げ、何事もなかったかのように立ち上がる。
「無事、ショートカット成功ね」
「ぶ、無事じゃないんすけど……。痛ってぇ……」
トトが呻きながら体を起こす。
「……ここ、どこっすか?」
周囲を見回した瞬間、空気が変わったことに気づいた。
今までの階層とは、何もかもが違う。
通路の天井が高い。見上げても闇に消えるほどの高さだ。壁面には古代文字のような複雑な紋様がびっしりと刻まれ、青白い光ゴケがそれらを幽玄に照らし出していた。空気は冷たく、重く、魔気をはらみ、上の階層で感じた空気とは次元が違う。
そして――通路の突き当たり。
巨大な扉が、そこにあった。
高さ五メートルはあろうかという石の扉。表面には禍々しい魔獣の彫刻が施され、継ぎ目からは赤黒い光が脈打つように漏れ出していた。
扉の前に立つだけで、わかる。
この向こうに、途方もないものがいる。
圧倒的な魔力の気配が肌を粟立たせ、本能が警鐘を鳴らしている。
――逃げろ、と。
「姐さん、これ……ボス部屋……じゃないすか?」
トトが震える声で扉を指をさす。
ダンジョンには十階層ごとに、特別な部屋が存在する。通常の魔物とは次元の違う強敵が待ち構える、通称「ボス部屋」。第十階層のボス部屋は、熟練のBランクパーティでも油断すれば全滅しかねない難関として知られている。
ダンジョンの意思が、壁を破壊した侵入者をここへつき落としたのだ。
逃がさない、とでも言うように。自らのルールを踏みにじった者への、容赦のない報復。




