黒ウサギ
俺は深く息を吸い込み、意識を集中させる。
(闇の密度を適切に調整する……ソフィアに察知される前に、どう動くかがカギだ)
今回は単に濃くするだけではなく、部分的に密度を変えることを試してみる。
俺はまず、ソフィアの周囲に薄い闇を漂わせた。それはまるで霧のように広がり、ゆるやかに彼女の視界を制限していく。
「……また同じ戦法?」
ソフィアの警戒する声が聞こえる。
(違う——ここからが本番だ)
俺は、足元にだけ濃い闇を展開した。ソフィアが気づかないように、極力慎重に。
——そして、一気に密度を上げる。
「——っ!」
ソフィアの足が闇に沈み込むように動きを鈍らせる。
(今だ!)
俺は素早く側面へと回り込み、魔力を拳に込める。ソフィアに触れる寸前——
「——甘いわね」
バシュッ!
突如、俺の足元から闇の帯が伸び、絡みついた。
「なっ——!?」
次の瞬間、バランスを崩した俺の視界が一回転する。地面が迫る。
ドサッ!
俺は再び地面に転がされた。
「三回目。終わりね」
ソフィアが俺を見下ろしている。勝者の余裕を持った笑みを浮かべながら。
「……やられた」
「ええ。惜しいところまで行ったんだけどね。だけど——まだ詰めが甘いわ」
俺は悔しさを噛みしめながら、地面に寝転がったまま空を見上げる。
「……どこがダメだった?」
「確かに、密度の調整は良くなってた。でも、あなた自身の動きが単調だったのよ。魔法を工夫するのもいいけど、それだけで勝てるほど甘くはないわ」
「……つまり?」
「魔法と身体の動きを合わせること。あなたは魔法を仕掛けた時点で安心してしまった。でも、私がそれをどう突破するかまでは考えなかったでしょう?」
俺は息を吐きながら、思い返す。
(確かに……ソフィアがどう動くかまでは、そこまで考えられてなかった)
「まぁ、悪くはなかったわ。今までのあなたよりずっと良かった。でも、次はちゃんと勝ちなさい」
ソフィアはそう言って手を差し伸べる。
俺はソフィアの手を借りて立ち上がり、大きく息を吐いた。
「……やっぱり、まだまだだな」
「まあ、初めてにしては上出来だったんじゃない?」
ソフィアは肩をすくめながら言う。
「でも……」
「そんな顔しないの。勝つのが目的じゃなくて、学ぶことが大事なのよ」
そう言って、ソフィアは俺の背中を軽く叩いた。
「しょうがない、頑張ったご褒美に少しお茶飲んでいきなさい」
「先生は自分とお茶することがご褒美だと思ってるタイプの人ですか?」
「黙りなさい」
そう冷たく言い放ったところで家に向かって歩みを進めた。
家についた俺は椅子に腰かけ改めて家の中を見渡した
部屋には所狭しと本が積まれ、机の上には魔導具やら巻物やらが散らかっている。まるで魔導士の研究室そのものといった雰囲気だ。
「しかし、先生の家って相変わらずだな……。もうちょっと片付けたらどうです?」
「魔法の研究をしていると、片付けなんて後回しになるのよ」
ソフィアはそんなことを言いながら、手際よく茶葉を蒸らし、二つのカップにお茶を注いだ。
「はい、どうぞ」
俺は受け取って、一口すする。ほのかに甘みのある香りが広がった。
「……いい香りですね」
「当然よ。私の趣味で選んでるんだから」
ソフィアは椅子に腰掛けると、カップを片手に俺を見つめた。
「あなた今冒険者なのよね?」
「そうですけど?」
「パーティに魔法を使える子は居ないの?」
「2人いますけど、どうしてですか?」
「その子に魔法について教えて貰ったりはしないの?」
「いや系統が違いますもん、一人は攻撃メインですし、もう一人はヒーラーですよ」
「魔法を使うってところは共通してるんだから、十分よ、そもそも今日教えた内容も、その子達なら知ってたんじゃないの?」
「あっ」
「あなた……頭が固いってのはそういう所よ」
そうソフィアに言われ、自分の不甲斐なさに情けなくなる
すこし俯いた所で視界の端に黒い物が映る、気になりそちらに顔を向けると、黒いウサギが部屋の中を飛び跳ねている
「先生あれなんですか?」
「ん?……ああ、あれは私が魔法で作ったのよ」
「へえ、あんなことも出来るんですね」
「特に役立つことは無いけどね、まあ手遊びみたいなものよ」
そう言いながら、ソフィアは指を軽く動かす。すると、ウサギの形をした闇がふわりと舞い上がり、俺の肩の上にちょこんと乗った。
「おわっ……」
「ふふ、結構可愛いでしょ?」
肩の上でぴょこぴこと動く黒ウサギ。興味を引かれて手を伸ばすが、指はふっとすり抜け、まるで影を掴もうとしているようだった。
「こういう応用もあるってことよ。魔法は戦うためだけじゃないの。覚えておきなさい」
ソフィアの言葉に、俺はしばらく黒ウサギを眺めながら、その意味を噛み締める。
(魔法は戦いだけのものじゃない……か)
「さて、そろそろ帰りなさい。もう日が暮れるわよ」
「あ……もうそんな時間ですか」
窓の外を見ると、すっかり空が赤く染まっている。思った以上に長居してしまったようだ。
「これでしばらくは訪ねてこなくても大丈夫でしょ?」
「明日から毎日来ますよ」
「勘弁してよ」
「冗談ですよ、……今日は失礼します」
「じゃあね」
「ありがとうございました」
俺は小さく会釈し、扉を開ける。ひんやりとした夜の空気が肌を撫で、昼間の訓練の熱が少しずつ冷えていく。
足を踏み出すたびに、今日のソフィアの言葉を、ぼんやりと考えながら、俺は宿へと足を向けた。
宿に戻ると、ガルフ、エリス、ティナの三人が食事の準備を始めていた。
「お、リアン。遅かったな」
ガルフが俺に気づくと軽く手を上げながら言う
「ちょっとな。……今日のメニューは?」
「今日はシチューと黒パン。シチューはまあまあだが、パンが固い」
そう言ってガルフはパンを軽く指で弾いた。確かに、カチンと軽い音がする。
テーブルのメニューに目をやると、ゴロゴロと具材が入ったシチューと黒パンが並んでいる。シチューの湯気が立ち上り、ほのかにハーブの香りが鼻をくすぐる。メニューから考えるに今日の料理はエリスの物だろう。
「そんな文句言ってるとエリスに怒られるぞ」
「お疲れ、リアン」
エリスが俺の方にもシチューの入った器を置きながら言った。
「おう、ただいま。エリスは今日は何してた?」
「ギルドの依頼で薬草採取、ついでに自分たちで使う用の薬草も積んでおいたの」
「さすがエリスだな、行動に無駄がない」
俺がそう言うと、ティナがくすっと笑う。
「それで、リアンはどこに行ってたの?」
そういいながら、食事の準備を終えたティナが椅子に腰を掛けた
「昔の先生の所」
「へえー、冒険者になる前にお世話になったって人?」
「まあな」
「久しぶりに会えたんだから話弾んだんじゃない?」
「……否定はしない」
「何かあったの?」
エリスが興味深げに尋ねる。
「魔法の使い方についてちょっとな」
「ふーん」
ティナが意味ありげにこちらを見てくる。
「まあ、詳しくはまた今度ってことで。とりあえず飯食わないか」
俺はシチューの器を手に取り、冷める前に口へ運んだ。温かいスープが疲れた体に染み渡っていくのを感じながら、静かに夜が更けていった。