07
いきなり現れた、ネモにそっくりな青年。ネモの顔をそのままに男にしたように、性別だけ反対にしたドッペルゲンガーのように似ている。しかしその青年も、しっかりと吸血鬼であった。
白銀の流れる髪に、真っ赤な瞳。覗く犬歯は、人の肌を破るためにしっかりと尖っている。そんな青年は、ネモを捉えればネモと同じように動きが止まっている。まるで、対峙したふたりは躊躇ったように動く様子がない。ネモも、怖気付いて半歩下がっていた。緊張の走る空気に、痛みに耐えながらフィオネは眉間に皺を寄せた。
(いけない)
フィオネがネモの後ろで動いた。銃口をその青年に向けるも、先程から脇腹に存在する短剣がじわりじわりと体力を削るのか、照準がうまく定まらない。
(せめて、威嚇だけでも)
とりあえずは、動きを止めてしまったネモの目を覚まさせなくてはならない。フィオネは阿呆でバカでも流石に気が付いているのだ。今対峙している吸血鬼が、ネモが教会に身を置いている理由なことくらい。相棒であるフィオネにはネモはしっかりとその理由を告げている。勿論、フィオネもその理由をネモに話しているのだ。だから、目の前にいるネモそっくりな青年が、ネモにとってどんな存在かわかる。
だが、今はその動揺に引きずられてはいけない。その青年の後ろにいる男が、何を企んでここにネモを引きずり込み、この青年と対峙させたのか。そして、脇腹に刺さったままの剣の意味。
考えたくはないと、痛みを誤魔化すように奥歯を噛み締めて、フィオネは当たらなくてもいいと、次を躊躇うネモの横を発砲。弾丸が真っ直ぐに彼女たちの横を飛んでいった。
その発砲音と、横を通り過ぎる弾にネモはハッとする。ネモは、目の前の同じ顔をしている青年から1度距離をとるため、後ろへと下がりフィオネと合流する。
それを追いかける様子はなく、青年はヘルマンを守るように前に立つ。まるで騎士であるが、その表情はネモと同じくらいに読めない。
「ありがとう、フィオネ」
意識が全て持っていかれ、次に動くことが出来なくなっていた。
「感動の再会はあの男を殺った後じゃないと……」
「感動の再会も出来るかはちょっと怪しくなったけどね」
ネモが呆れたような声で答える。その姿は珍しく焦りも少しだけ漂っていた。
「フロウ、やっと見つけた我らの妹を連れて帰れるチャンスですよ。頑張ってください」
「兄上は手伝ってくださらないのですか」
「むしろここまで引きずり降ろしたのですから感謝してください。むしろ敬いなさい」
「気持ち悪い」
「酷いですね」
漫才のように繰り出すふたりのやりとりは淡々としていた。ネモと一緒でフロウは表情が動かない。その辛辣な言葉の選び方はネモそっくりだ。
「それに、兄上の妹ではないですしね。僕の妹です。貴方に差し上げるつもりもない」
「冷たいですね」
そういって、フロウは地面を蹴った。勿論それに合わせてネモも地面を蹴った。キィンと交わる剣と剣の音。それは、一度離れてもう一度重なる様にぶつかる音。ふたりは揃って身体強化を使っているのか、その動きは早い。一度離れて近づいて、ぶつかる音が重なって、そしてまた離れてを繰り返している。ネモが攻めてフロウが受け止めている。フロウは守り一辺倒で、ネモは攻めこむばかり。そんな姿がいじらしい。どうして相手は攻めてこないのか。
「兄さん……」
剣が交わってお互いの顔を捉えた時に、ネモは小さく声を零す。
その愛称に、フロウは途端に蕩けたように笑みを浮かべた。それは、綺麗な顔が総崩れして異性を誘惑するような、とてつもなく甘いものだ。
「嬉しいな、ネモにそう言ってもらえるだなんて。本当に幸せ。ねぇ、ネモ、僕と一緒に行こう」
うっとりとした声だというのに、腕の力は緩んでいない。ギリギリと鍔迫り合いをしていても、フロウはじゃれているようにしか見えなかった。それに、彼は本気を出していない。それがどうしてか無償に腹が立った。
キィンと高い音をたてて、剣がフロウによって弾かれると、ネモは後ろに下がってフィオネのそばへ。既に手負いを負っているフィオネを守るように、背中の後ろに隠しながらフロウと対峙している。
「兄さん……」
「ね。一緒に帰ろうよ、僕たちの本当のお家へ」
「何を言っているか分からない。私たちの家はそこの男によってなくなった」
「そうだね、父も、母も……僕たちにはもういないけれど、でも、家はあるよ。だって、君はネモ・アルトピウスなのだから」
「な、に……言って」
アルトピウス。ネモはその言葉に動揺した。
公国を導く大公家のひとつで、ここスピア辺境伯領に隣接している公国だ。そうれば、勿論始祖の吸血鬼の末裔であり、人間ではない。しかし、ネモはしっかりと人間の両親の下で生れている。半分吸血鬼という性質になったのも、フロウの後ろにいるヘルマン・アルトピウスによって血を無理やり与えられたからだ。もちろん、眷属とした吸血鬼は分家扱いになる。基本は与えた吸血鬼よりは下の位につくもの。同じ爵位の吸血鬼になるのは正当な子どもだけ。更には、眷属となったからと言って公爵の名前を使うなどもってのほかである。それだというのに、目の前のフロウは惜しげもなくアルトピウスを名乗った。
(そういえば、さっきからヘルマンのことを兄さんは兄上って呼んでいた)
それなら、ネモはいったい――
――パァン
思考に陥ったネモの目を覚ます発砲音に、ハッとする。
「くっだらない。ネモが吸血鬼?しかも、始祖アルトピウス家の?ははは……笑えるね。もしそうでも、今ネモはあんたたたちじゃなくてあたしの傍にいるの。そこに、お前らが介入できる隙なんざねぇんだよ!!!!偏愛シスコン野郎はすっこんでいろやぁ!!!」
体力が奪われているのか、その顔はすでに土色になって、脂汗が浮かんでいる。揺れる緑色には意志が強く、銃口は間違いなくヘルマンを狙っていた。しかし、飛んでいった弾は、ヘルマンの横壁に刺さっている。どうやら、照準を外したらしい。
「ネモも、そんな、戯言に……、いちいち動揺すんじゃんねぇ……ばーか」
そういってその場にとっさりとフィオネが倒れた。そして、こらえていたようにこぽっと口から血が溢れていく。どうやら限界だったようだ。その強烈な鉄の匂いに、欲望が溢れそうになる。それを押し込むようにして唇を噛んだあと、ネモはフィオネに手を伸ばす。息は細いがしている。しかし、刺さっている箇所からじわじわと血が漏れている。これを抜いてしまうと、一気に血が流れて状態が悪化してしまうだろう。ここにアドビ―がいれば、こんな事にもならなかったはずだというのに。噛んでいた下唇に、歯が食い込んで、口内に鉄の味が染みる。
「本当人間って脆いよね」
ふつふつと湧き上がる自身へのやるせなさで、ただでさえ怒り心頭していたと言うのに、フロウから聞こえた言葉に、目の前がカッと赤くなる。例え、兄でもそれは許せない。脆い人間を食糧にして力を得ている吸血鬼。確かに、簡単な傷じゃ死なない吸血鬼。短命の代わりに、力も体も上部で、殺す方法としたら、銀製の武器で頭を狙うか心臓を狙うかしかない。腕を切り落としても生えてくる。首をはねても、頭を潰していなければ生きている。そんな奴らに比べると、人間は脆いだろう。それでも、ネモは誇りに思っているのだ。人間であることを、人間で生れたことを。
ネモは、剣を握るとフィオネをゆっくりと寝かせ、フロウに対峙した。
――彼はもう敵だ。
ネモではなく人類の。教会の。本当は、兄を見つけることが教会に身を置いている理由だった。
兄を見つけて一緒に暮らすことが目標だった。
しかし、それは吸血鬼としてではなく人間として。
だが、フロウは既に人間ではなかった。人間を下に見ているその姿に、ネモは悲しくて仕方なかった。
「人間は脆くない」
絞りだした声に、フロウはネモの意志を感じたのか、眉をしかめた。
「ネモ、どうしたの。実際に君の後ろにいる人間はすでに虫の息だよ。一回刺されただけでここまでになっちゃうなんて、脆い以外ないよね」
「うるさい!!!貴様らがフィオネをこうしたんだろうが!!!!」
怒声を上げて、ネモはフロウにびかかった。剣を振りかざしたがそれをよけられたと思えば、反対の手を握りこんで思いっきりフロウの頬にしっかりと入り込む。響く骨の振動を感じながら、思いきり兄を横に殴り飛ばす。
「うぐっ」
吹っ飛ばされたフロウは壁に背中をうつと思いきりうめき声をあげる。
「兄さんのバカ!!!バカ!!ばか!!!ばか!!フィオネを殺したの許さない!!返せ!!!フィオネを返せ!!!」
「あたし、まだ、死んでな……い――」
そんなフロウの上に馬乗りすると、何度も顔面を拳でぶん殴る。右頬に左頬に交互に拳を激しく打ち付けているためか、後ろでうめくフィオネの声は聞こえていない。更にはそれ以外の音も聞こえていなかった。ぼこすかと殴ったあとに、手に持っていた剣を振り上げて、フロウの頭めがけて振り上げた時だった。振り上げた手は振り下ろせることはなく、馬乗りしていた体が不意に体が浮くと今度はネモが後ろへと吹っ飛ばされた。
「それだけはだめですよ、ネモ」
ヘルマンに腕をとられて後ろへと吹っ飛ばされたらしい。飛んでいく視界の中で、ヘルマンの顔をとらえると、どうしてその男を忘れていたのだろうかとはっとする。それと同時に、後ろにいるフィオネにこのままではぶつかると恐れた。彼女は今、手負い。更にはほぼ瀕死の状態だ。このままこの勢いでネモがぶつかれば、それこそ息の根を止めかねない。しかし、現状ネモは空中で体制を整えらることができずに焦り、何もできないと目を瞑ったときだ。
「うおっと……――」
背中にぶつかった温もりと、低い声。それと同時に、しっかりと体を包み込まれる。
「うわ、本当に間一髪だったな」
上から乾いた笑い声が聞こえてきた。それはどこか安心するのは、少し抜けた声音だからだろうか。そっと顔をあげると、少し垂れている目許に鳶色の落ち着いた瞳と、染み付いた少し香るヤニ臭さ。それが、誰のものなのかすぐにわかる。
「アドビー……」
ぽそっと零した言葉に、アドビーは優しい表情をして「ん?」と返事してくれた。それだけで、気が少しだけ緩みそうになる。
「アドビー、フィオネが……」
現状を伝えようとすると、声が震える。目頭が熱くなって、唇が震える。言葉を発そうとすると、かちかちと歯が鳴って上手く喋れない。
「おうおう、大丈夫だ。ちゃんと、治した」
安心させるためか、子どもにするように頭を撫でながらへらりと緩い笑みを向けてくれる。それを合図に、ネモがあドビーの後ろにいるフィオネに目を向ける。フィオネは目を瞑っていた。顔色は悪いが、刺さったままだった短剣は抜かれ傷も塞がっている。どうやら、フィオネがフロウに馬乗りして顔面を殴っている間に、アドビ―が来て治してくれたらしい。それだけで一安心した。彼が大丈夫だと言うなら大丈夫なのだろう。ネモは、安堵からアドビーの服をきゅっと掴んでその胸に額を押し付ける。
「よか……――っ」
「わりぃ」
ネモが安心して一言を零そうとした時だ。アドビーは、ネモの背中と膝裏に手を回すと、慌てて立ち上がって横に飛んだ。
ドガンっと、鈍い音を立てて床がえぐれたのか破片が飛び散る。そこには、先ほどまでネモによって顔の人相を変えられていたフロウが、完全に回復したのか綺麗な顔になった状態で地面に拳を沈めていた。
「妹に触れるなッ!!!!この雑菌が!!!!」
しかしその形相は鬼のようで、目は赤いのに更に血走って、眉間にも顔中寄せ、歯をむき出しにしている。
怒声をあげながら、再びアドビーめがけて回し蹴りをしようと、空中で体を捻って足を回したが、それまでもアドビーは間一髪で避ける。
「え、なに、どゆこと?ネモとおんなじ顔?!」
アドビ―はその実到着して早々、重症を負っているフィオネの治療をしていたため、現状がよく分かっていない。ただ実情、ネモを男にしたような綺麗な顔の青年が、ものすごい鬼の形相でアドビ―に体術を決めんと追いかけまわしてくるのだから、当のアドビ―も困惑するというもの。しかし、そのネモと同じ顔をした青年も、しっかりと吸血鬼であるのは視覚で理解している。逃げ一択ではあるが、身体強化があるのか相手の方が早い。避けてはいるが、それもぎりぎりだ。しかも、腕には人ひとりを抱えている。男と言えど、体力に底がつくし、後ろにはけが人までもいる。それを考慮すれば可動域も低くなる。当たらないことに精一杯で、状況理解まで頭が回らない。一瞬でも視線を外すと終わりだ。
そう思って、右へ左へと必死で攻撃をかわしていたのだが、次の瞬間アドビ―は何かに足を取られた。
床に流れていたフィオネの血液が潤滑油となって体制を崩してしまったのだ。いけないと思った時には、既に顔面目掛けてフロウの拳が飛んできていた時だった。それは一瞬のスローモーションのようで、きっと数十秒もない。それでも切り取られたその瞬間、もうだめだと目を瞑った。だが、それと同時に目の前に飛び込む影と腕の中から消えていく温もり。ぱしっと音を立てて、フロウの拳が受け止められた音がする。
「うううおぉおおぉぉぉおおおりゃぁあああぁぁッ!!」
そして、叫ぶネモの声と同時にアドビーは尻もちをついた。そして、遠くに投げ飛ばされるフロウを視界に入れながら、ネモはアドビ―達の前に守る様に立つ。しかし、吸血鬼化の弊害か、興奮した結果か、すでに半分意識がとびかけているようで、肩でふぅふぅと息をしている。その背中は危険信号を表しており、こうなっときのネモはを止められるのはフィオネだけだった。そんなフィオネも現状、意識がない。
暴走化し始めているネモに、フロウは可哀そうな子を見るような視線を向ける。
「ネモ、君はまだ人間の血を飲んでいないのか」
その言葉に、ネモがひくっと肩を震わせる。
「その症状を止めるには君は人間の血が必要だ。そこにいっぱいあるだろう、ほら、苦しいよね。だから、早く――」
「……――さい」
「ネモ……?」
「うるさい!!!うるさい、うるさい、うるさいッ!!!!絶対に飲まないんだからッ!!!」
首を大きく振って、フロウの言葉を遮ると、ネモは床を蹴って一気にフロウに詰め寄る。その目は正気を失った下位吸血鬼のようだった。フロウは、そんなネモを哀れみの込めた目を向けながら、ヘルマンを守るように防御態勢に入った。手にはお互い武器を持っている。ネモが、フロウに短剣を振り上げた瞬間――
「そこまで」
振り上げた武器は、空中で何かに阻まれて弾かれる。目の前に立つ甘い顔をした男はただ手をネモに向けているだけで、その間に何もない。ただ一定の距離からネモは近寄れないでいた。もちろん、フロウも突然間に割ったヘルマンに目を丸くしている。そして、はっとしたように顔が強張る。
「気が付きましたか。テトラの気配が消えました。併せて複数人の教会の人間の気配です。これ以上はここにいる方が危険ということですよ」
「だけど、ネモが……」
「今回は諦めてください。今、彼女を気絶させるのも一苦労でしょう」
呑気な会話をしながらも、魔法を解く気がないらしい。ネモは近寄ろうとしても見えない壁に阻まれて近寄れず、何もないところに何度も拳をいれているが、がんがんと音を鳴らすだけで何も起きない。
そんなネモを物惜しげに見つめたあとに、フロウは体制を整えて口の中で何かもごもごと言葉を紡いでいる。途端、彼ら二人の足元に魔法陣が現れ、足元が光る。
「行かせるかぁああぁぁぁぁあぁあぁッ!!!!」
「ネモ、また迎えに行くからその時は、今度こそ一緒に帰ろう」
温度さのある兄妹の会話を最後に、光が二人を飲み込んで姿が消えた。とたん、何かに阻まれていた体は障害を越えて前へと進む。ネモは壁に拳を激しく打ち付けるのと、後ろからシスター・マングロウの声がするのは同時だった。
「逃げられたか」
壁にのめりこんだ拳がひりひりと痛い。
ぱらぱらと零れる壁だった屑が崩れながら、緊張状態が落ち着いたせいかとうとう理性がすり減っていく。目の前がかすれた靄のように視界がぼやけていく。兄と会えたショックと、兄が吸血鬼になっていたショックと、自分の正体について頭が回らずにパンクさせるばかりで、感情が高ぶって仕方ない。床にへたりこんで、その小さな肩を抱く。肩を小さく揺らして、息が浅くこぼれる。いけないと思っていても、体が動かない。早く、シスター・マングロウから受け取った腕輪をつけなければ、と頭は分かっていても、体の奥底にいる強い衝動を抑えることに必死でポケットに入っているそれを取り出すことが出来なかった。いつもなら、強制的にフィオネの鉄製の弾丸が胸を貫いて気絶させた上でつけるのだが、今はそのフィオネが目を開けていない。彼女に頼ることも出来ない。
ネモは、体の奥底で暴れる衝動を体内に押し込めることに注力していた時だ。
「ネモちゃん、大丈夫。お疲れ様」
ネモ以上にたんたんとした声が低い位置から聞こえた。それと同時にかちゃりと足に何かを取り付けられる音。途端に、何もかもの力が抜ける。ネモは、体が重たくなると同時に心にのしかかっていた重たいそれも抜け、今まで保っていた意識がぷちっと切れる。そして、意識を失ったネモの身体は、ゆっくりとその場に倒れた。