10.
フィオネは、スキルを使ってネモとフロウが休憩のソファの所に移動する瞬間を見た。片手には、ノンアルコールのシャンパングラス。警備と言っても、私服警官のようなもので、参加者たちにはどの人が警備しているかを知らせていない。なので、フィオネたちもパーティー参加者だと思われるような振る舞いをしなくてはならない。
気になるものはチラホラ。参加者の数名に見られるブローチ。それは、属国の国旗をあしらっているように見えた。側妃にひとり、その属国の有力貴族がいたようにも思える。そして、会場に入るまでに数箇所。スキルを利用して見えた不審物。下手な動きが出来ないので、確かめることは出来なかったが、一応、会場入りした時、リーダーであるアナスタシアには連絡している。ロッテがひっそりと回収してくれたそれは、起爆装置が発動してない爆弾だった。速やかに回収したそれを、アナスタシアのスキルを使用して凍結させる。船内にある爆弾はその数個だけとは思えないが、聴覚上昇スキルを持つメンバーからしても、起爆装置が発動していないそれを見つけるのは、この広くでかい飛行船内では骨が折れるだろう。
その上、視力を上げるスキルのフィオネは透視が出来る訳では無いのだ。壁を通り越して見るとかそんな離れ技はできないので、それらを探すようにうろうろと船内を歩き回らなくてはならなく、そんなことをしたらフィオネの方が不審者だ。
結論現状お手上げということになる。かく言う、何個あるか分からない爆弾付き飛行船に、皆して煌びやかな格好で乗り込んでいる。事実を連ねたそんなこの状況が既に物騒である。そもそも、爆弾が分かった時点で、なぜこの飛行船を使用しない方に持っていかなかったのか、このパーティーの主催者の思惑が感じとれて気持ちが悪い。
幸いなのは、飛行船の規模が大きすぎたため、低空飛行であるのと、移動距離があまりないことくらいだろう。帝都の周りをウロウロする程度でしかない。しかし、この巨大な飛行船が民家の上に落ちてきたら話は別だ。
やはり警戒はしとかないとならないが、事はまだ起こっていない。起こらないための警備ではあるが、無罪の人達だった場合の責任も大きいのであまり大っぴらに動けない。こういう時は、ロッテの影伝いと、エレオノーラの存在感を薄めるスキルを使用して船内散策をさせたほうが速いのだが、ロッテもエレオノーラも家門の招待客として招待を受けている身。そんな人達が揃って会場から離れることは難しい案件なのだ。
大きな家門を背負う人たちは、こういう時大っぴらに動けないため、難儀なものである、としみじみフィオネは心の中でその人たちへお祈りした。まあ、お陰様でこの爆弾回収も、後手に回ってしまっていますが、ね。今度はそんな現状を憂いて自嘲を零せば、とりあえずは腹ごしらえに何を食べようか、と気を取り直して食事の並んだテーブルを物色していた。そんな時だ。
「ねぇ、そこのあなた」
背後から声をかけられた。声の主は女性、しかも同じくらいの歳。いや、同じ歳だ。フィオネにとって聞きなれたその声音に、どっと心臓が跳ねた。体が急に動かなくなり、呼吸が次第に浅くなる。そんなフィオネに声をかけた女性が訝しげるのも時間の問題だった。
「あなたよ、あなた。ストロベリーブロンドでピンクのドレス着てる、先程までフロウ様とお話されてた」
完璧にフィオネを指定してきている。しかしフィオネはトングを持って動こうとしない。決して、目の前のローストビーフが食べたいという欲で動かない訳では無いのだ。その声を聞いて、心臓が早鐘うち、息が浅くなり、目の前が眩みそうになったその衝動で体が動かないだけだ。それでも、相手からしたら無視をしているように捉えられなくははい。
流石にあまりにも動かずに、背中を向け続けるフィオネに対して、女は痺れを切らした。
「ちょっと――」
「――どうしたんだヘンリエッタ」
次いで聞こえてきた男の声に、封印したい記憶の奥底を抉られた感覚がして、さらに呼吸が浅くなった。
「お兄様。この女がわたくしの話を無視しますの。先程、フロウ様とどのようなお話しをしたか聞きたかっただけだというのに」
可愛らしい鈴を転がす様な声は、少しだけ不満げだ。その声に合うその煌びやかな白に近い銀も、くりっとしたルビー色の瞳も、きっと健在なのだろう。3年も離れれば忘れると思っていたというのに、声を聞けばすぐに分かってしまった。それくらいにフィオネの体に彼女たちの声も姿も鮮明に刻まれているということだ。勿論、あの恐怖も……。
ここでふたりに会ったらどうなる。今まで会うこともなかったというのに、このタイミングで、ネモが近くにいないタイミングで、彼らに会ったら。その恐怖で背後で話をしている男女の声が聞こえない。近くで何やら話をしているが、水の中にいるかのように遠い。次第に、肩が震えてしまい、手に持ってるトングがカタカタと音を鳴らす。すると、その音のお陰か変な理性が働いた。不意に、素面に戻ったフィオネは、これ落としそうだなと思うと、ゆっくりとテーブルにトングを置く。
振り返ったらバレるか……、いや、もしかしたらふたりは忘れているかも知れない。それに、本日の装いは正装で、顔だってしっかりと化粧をしている。パッと見ただけではきっと誰かわからないはず。何せ、あれから3年経ってるのだ。当初から考えたら少しは大人っぽくなったと思いたい。
はっはっ、と浅く息を吐いていたのを、深くふぅっと吐く息に切り替える。暴れる心臓を押さえ込んで、やっと振り返る勇気ができた。そして、フィオネがゆっくりと顔を上げて振り返ろうとした時だ――
「おい、いい加減に返事をしてくれないか」
フィオネの肩を大きな手のひらが掴み、そのまま無理やり正面へと体制を切り替えさせられた。とたんに、目の前にうつる双方の赤い瞳。少し怜悧な目許を眼鏡で隠しいる。もともと頭がいい方ではあったが、そのアイテムでさらに知的に見せてくれた。キリッとした柳眉に、スっと筋の入った鼻筋、薄い唇。細身に見えるのにしっかりとした体躯を、正装が包んで更に煌びやかに見える。ただでさえ美しいというのに、その姿でさらに美しさを醸し出している。かなり背が伸びたか。あそこから逃げたあと、経った3年で、フィオネは随分と見上げなくてはならなくなるほどに高い位置に頭がある。
そんなぼんやりと記憶と変わったところ、変わらなかったところを追いかけていれば、目の前の男の顔が徐々に驚いた表情へと変わっていく。どうやら、相手も記憶からフィオネを追い出せなかったらしい。
咄嗟に男は無意識下でフィオネの肩を掴んでいた手に力が入った。
「――ッ痛い」
「あ……、すまない」
フィオネが咄嗟にその手に顔を顰めると、男は慌てて肩を掴んでいた手を離す。フィオネは、その隙を逃さなかった。途端、するりとその手からすり抜けて、男の前から逃げるようにその場を走り出したのだ。
「フィオネッ」
後ろでフィオネを呼ぶ男の声は聞こえない。フィオネは、人にぶつからないように、スキルを駆使してその隙間を縫っていく。小柄なフィオネは、瞬時に隙間を選ぶと、大柄な相手では通れないところを選んでいく。後ろで、その男がフィオネと名を呼び、手を伸ばし、時折人とぶつかりながらも懸命にフィオネを追う。
そんな男から逃れるように、高ぶった心臓を抑えるように、フィオネは人知れず会場の外へと出ていた。普段履かない少し高めのヒールは走りずらい。ドレスの裾を掴んで走るのに、スカートの裾でもつれそうになる。
懐かしいと思った。変わらない目許も、少し低くなったが、昔と変わらない声音も懐かしいと思ってしまった。大きな手になっていた。いや、あの時から彼の手は既に大きかった。それを思い出すと、引きずり出される過去の記憶。暗闇で押し倒されたあの記憶。赤い月がふたつ、熱と困惑と悲壮感と全てがないまぜになった感情をぶつけられたあの夜を思い出してしまう。
どれだけ走っただろう、なれないヒールで会場を出て廊下を走って一目散に逃げた先で、フィオネは突然躓いた。咄嗟にいつもの訓練のように両手を前に出したが、混乱した頭と止まらない恐怖にその動きは訓練のようにはいかず、そのまま顔面を守ったが正面から転んだ。
「はぁ……はぁ……」
どれくらい走ったのだろうか。
会場から随分と走ったが、この飛行船の規模的にも限界はある。随分と入り組んでいた廊下を適当に走って、走って、走った。見覚えのない廊下の風景に、人ひとり誰もいないこの空間に、フィオネはひとり廊下で伏せている状態だ。
走ったために、息が切れ、それを整えていく内に湧き上がるいろいろが、胸を押し上げて腹の底から溢れそうになった。
目頭が熱くなって、こらえ切れそうにない。
(泣くな、泣くな、あたし。堪えろ、今日は化粧をしっかりと濃いめにしているンだ。今泣いたら怪物になってしまうぞ)
体を起こして上を向く。すぅ、はぁ、すぅ、はぁと深い呼吸を繰り返しながら、顔に集まった熱を追い出そうとしていた。鼻の奥をツンとし始めれば深く息をすって、目頭が熱くなれば深く吐く。深呼吸に意識を持っていき、それを繰り返して、心臓が落ち着いた頃だった。
「フィオネ?ここで何をしている」
床にへたり混んでいるフィオネに声をかける、よく知った男の声。フィオネは、その声にどうしてか安心してふっと気が緩んだ。その時には既に、泣きたい気持ちが落ち着いている。
「カルマ」
フィオネもいつもの調子で立ち上がろうとしたが、とたんに足首に痛みが走る。どうやら、ヒールで転んだ時に足を捻ったらしい。
「どうした」
カルマを見上げながら、変わらず座り込むフィオネに流石のカルマも訝しげる。
「あ、ははは、転んだ時に足捻っちゃったみたい。なれないヒールなんて履くもんじゃないねェ……」
「……」
「あは……は……はは……」
だとしたら立ち上がれないフィオネはどうすればいいのか。ネモを呼んでもらうか、と思ったが彼女は今、兄から大切な話を聞いているはずだ。そうなると、他のメンバーにお願いするしかないだろう。ここでフィオネが警備から離脱するということにもなるが……。なんともはた迷惑なことだ。トラウマから逃げるために走った結果、スッコケて足を捻挫。こんな時にアドビーがいてくれればと思わなくもない。
「触れてもいいか」
気を落としているネモに不意に振ってきた言葉。その言葉に目を丸くする。
「俺はあんたの事情は何も知らないが、あんたの日頃の行動からでも想像がつく。あんたは、俺が苦手だろう」
「あ……」
違うと言いたい。いや、違わないのだが。カルマが苦手というよりは、顔のいい男が苦手なだけで、カルマのことはむしろ好感を持てる人だと思っている。しかも、カルマからこのようなことを言われると思わなかった。普段から、「カルマがいいに決まってるよ!!」とかふざけてカルマに興味がある振りをしてきたというのに。
だが、カルマがアドビーのように頭を撫でてこようとした時とかは、躱すようにネモに引っ付いたりして誤魔化したし、戦闘で、フィオネを守るために触れようとした時、逆にフィオネはその手を躱して前線へ走り込んだ。それは違和感をもってカルマの中で降り積っていったのだろう。
同チームでも一緒に組むことが多かった。いや、彼らは様々な人の盾となるために色々なタッグで組んでいるからこそ、前衛で飛び回るネモとフィオネとの組む回数は多くは無いがそれなりの数あったのだ。そして、他のペアと比べてダントツでこのふたりは多かったからこそ、カルマもフィオネの本質に気が付いてしまったのかもしれない。
フィオネは、少しだけ俯いたあと、そっとカルマのズボンの裾を摘んだ。
「ごめん、足が挫けて立てないの。手を借りたい」
小さな声でこぼれた言葉を耳にした途端カルマは目を丸くする。しかし、同時にズボンの裾を摘む手が震えてるのもわかる。カルマは、逡巡した後そっと手を差し出してくれた。
「それくらいでしか出来ないが」
抱き上げて連れていきたいが、きっとそれは怖がるので手を差し伸べるしか出来ない。少しだけ、歯がゆく感じる。
「ははっ、ジューブン」
彼の手にフィオネは手を重ねる。カルマがその手をしっかりと握り込むと引き上げてくれた。それも手伝ってか、怪我している足の負担をそこまで感じずに立ち上がる。ヒールはもう履けない。裸足になりながら、ゆっくりと廊下に足をつける。
「会場へ戻れるか?」
「んー、ゆっくりとなら……?」
「嫌だろうが俺を支えにしたらいい」
「イヤじゃないヨー?」
「嘘つけ。重なってる手が震えてる」
「…………、ごめん」
「謝ることじゃないだろう」
ゆっくりとした歩幅で、ゆっくりとフィオネを支えてカルマも歩きだした。それは、彼のリーチを考えればもどかしいほどの歩みの遅さである。フィオネのぺたりぺたりとした裸足の足音と、カルマのカツカツと鳴る靴の音が静かに響く。
普段フィオネはとてもお喋りだ。だから、こんなにも無言が続くのは滅多にない。カルマが硬い男だからなのかは分からない。元々、言葉のキャッチボールが上手いのはアドビーの方だ。アドビーが場を盛り上げ、フィオネがそれに同調し、カルマとネモがからかわれる。そんな雰囲気だったため、カルマとフィオネとふたりというのは、恐らく初めてだろう。
フィオネも何を話したらいいのか分からない。だが、これだけは話しておいた方がいいだろう。そう思って、冷たい廊下を歩く時間潰しにフィオネは口を開いた。
「カルマもさっき会場であたしが誰に逃げてるか見てたよね」
「……」
無言は肯定と捉えると言うのに。嘘が付けない男は黙りこくるしかできなかった。
「彼……いや、彼らはあたしの幼馴染ナノ」
「無理に話す必要はないぞ」
何を語り出そうとしてるかは、カルマは瞬時に察すると心配そうにフィオネを見た。しかし、フィオネはカルマと繋がってる手にきゅっと力を入れると、緩く頭を横に振る。
「ううん、聞いて欲しい、カルマが嫌じゃなければ、ネ」
見上げるフィオネの顔にカルマははっと息を飲む。不安で泣き出しそうな、それでも無理やり笑みを浮かべているそんなちぐはぐな表情。流石のカルマも、縦に首を振るしか出来なかった。これからフィオネが語るのは、フィオネのきっとデリケートな部分だろう。ペアの相方にしか話さないような、そういう物語だ。
カルマは、しっかりとフィオネの手を握ると耳をフィオネに傾けた――
フィオネの生まれは、カークランド公国の公都。父親も母親も吸血鬼を崇拝していた。さらに言えば、カークランド公爵家に仕える人たちだった。母親なんて、現カークランド公爵ご息女の乳母をしていた程だ。
「だから、私とヘンリエッタ様……先程私にしつこく声をかけていた、高位吸血鬼の女性は、乳兄弟なの」
気がつけば、いつもの少し態とらしい喋り方は消えて、当初の育ちの良い言葉遣いへと変わっている。本当のフィオネはこうだったのだろう、とカルマはその言葉使いを通してフィオネの本質を見ていた。そんなカルマに気がついてるのか気がついてないのか、自分の話し方の変化に気がついてるのか気がついていないのか、フィオネは話を続ける。
母と父は将来、フィオネもカークランド公爵に仕えて欲しい願いも込め、よく公爵の子どもである長男のクラウドと、長女のヘンリエッタたちと遊ばせてくれていた。他にもカークランドの子どもたちもいたが、何故かクラウドがフィオネに彼らを近寄らせなかったので、必然的にいつも3人で遊んでいた。
そうして、フィオネが10歳になる頃。クラウドは13歳、ヘンリエッタは10歳の頃。クラウドはフィオネと遊ぶことが減った。時期公爵になる人は勉強や習い事で忙しい。幼い頃から元々忙しい人ではあったが、合間を縫ってよく遊んでくれていたと言うのに、それが顕著に現れたのがその時期である。しかし、フィオネはその理由が分からなかった。ヘンリエッタは気がついていたようだが、時期を見たら話してくれると言ってその理由を教えてくれることは無かった。そうなると、必然的にヘンリエッタの遊び相手になるしかなくなったが、ヘンリエッタも忙しくなっていく。次第にふたりと過ごす時間が減っていくと同時にそれを見越した両親から将来のことを考えた仕込みも始まった。
それは公爵家を取りまとめる両親が自然とフィオネに仕事の引き継ぎを行ったのだ。この時は既に、フィオネも、領の学校に行った帰宅後は仕事をするというふたつの草鞋を履いていた。それでも、時折幼馴染ふたりはフィオネを気にかけてくれていたし、そんな綺麗で優しいふたりがフィオネは大好きだった。
「だから、なんとも思わなかったンだ。私が、クラウド様に恋してるって気が付かされるまでは」
隣でカルマが息を飲んたのが分かる。最近のフィオネの口癖は「あたしですら初恋もまだなのに、ネモに先越された」であったきがする。
「無かったことにしたんだよ。あたしのハツコイ」
それは、きっと好きだった人とどう足掻いても一緒にはなれないと知らされたために、憧れて好きだった頃の自分を守るために、初恋をなかった事にするしか自衛できなかった。そうでないと、強烈すぎる初恋は、身を焦がして己をダメにするから。
「私が教会に来たのは13歳の頃なんだけどね、まあ、その時にさ起きちゃったんだ、私の今までの人生を否定して逃げないといけなかったコトが」
フィオネが13歳。クラウドが16歳。その日はクラウドが16際になるお夜会の時だった。フィオネも、せっかくだからと着飾って参加させられる。その日は、夜遅くまで盛り上がっていた。フィオネも楽しくて笑った。そんな雰囲気の中で、クラウドがフィオネを連れて人気のない部屋へと呼び出した。
フィオネはいったいなんのために呼ばれたのか分からなかった。この時には、吸血鬼と人間の間では結婚は出来ないと理解している。吸血鬼間の結婚の概念は種の繁栄だ。子どもが出来るか出来ないの差でしかなく、だから自覚した初恋を諦めるしか出来なくて、それでもしっかりと折り合いをつけて彼らに仕えようと決心していた。
だから、暗い部屋で異性がふたりというのは雰囲気的にも危険で、こんなところを他の人に見られるといけない。だから、早く会場に戻ろうと声をかけようとした時だ――
『好きなんだ、フィオネのことが。小さい頃からずっと、誰にも触れさせたくないし誰にも渡したくない。私以外の男なんて見て欲しくないし、他の人と結婚なんてされたら僕は暴れてしまいそうになる程に……君が、好きだ』
クラウドはそう言った。
その瞳は熱を持ってフィオネを見ており、強い感情を燃やしていた。しかし、人間と吸血鬼では結婚は出来ない。その理由は子供ができないから。少なくとも、快楽は共にできるがそうなるとフィオネはクラウドの愛人として過ごすこととなる。それは嫌だった。
さらに、これからクラウドに出来るお嫁さんにも失礼だ。
それはもっと嫌だった。
『申し訳ございません、クラウド様。私はクラウド様をそのように見たことはございません』
それしか言えなかった。そうして嘘をついて、頭を下げるしかできなかった。それが彼のためでもあり、このカークランド公爵家の為でもある。フィオネは心からこの公爵家が栄えることを願っていた。だから、この話はここで終わってくれと願った。終わってくれれば良かったのだ。そう願ったのに――
『嘘だ。フィオネが私を思ってるのは知っているんだ』
そう言って少し怒った瞳で突然、クラウドはフィオネの腕を掴むと引き寄せる。13歳のフィオネは困惑した。いつ彼は気がついたのか。どうして彼は気がついたのか。気がついて欲しくなかったと言うのに。クラウドの腕は力強く、困惑したフィオネは彼に言い返せなかった。
『私は、あなたしかいらない。あなただけでいい、将来他の人と結婚しなくたって、フィオネがいればそれでいい。子どもが出来なくたって、君がいればそれでいい』
そう言った。流石のフィオネもそれはダメだと知っている。だが、フィオネが次に抗議をしようとした唇をクラウドは無理やり塞いでその言葉を飲み込んたのだ。激しい口付けにやめて欲しいと抗議しても、力は歴戦だった。13歳のフィオネはまだ非力で、教会で鍛え上げる前は普通の女の子だった。
それが吸血鬼のクラウドによって、無理やり唇を奪われ、次第にエスカレートし、フィオネを組み敷いたのだ。やめてと暴れてもどかず、彼女の体を触る手は他の生き物のようだった。
好きだった彼の瞳は、恐ろしく昂っており獣のようで、フィオネはその瞳を恐ろしく感じた。嫌だと言ってもやめてもらえず。彼の手が体に触れる度に恐怖で震えた。逃げ出したい一心のフィオネは、必死で暗闇の中を凝視する。彼を止める方法はないのか、その希望を求めて必死で腕を伸ばした。そして、たまたま床に落ちていたのだろう、手に当たったペーパーナイフを握りしめると、フィオネはクラウドの肩に思い切りそれを突き立てたのだ。
フィオネを組み敷いていたクラウドも、さすがの痛みとその衝撃で、勢いよくフィオネから退くとフィオネはその隙を見逃さなさかった。空いた空間から這い出でると、フィオネはその場で逃げ出した。
「そして、家に帰ったところで親にきっと攻め立てられ、罰を与えられる。犯した罪は消えやしない。償わされる。そう思うと、いてもたってもいられなくなり、帰宅もせずに着のみ着のままカークランド公爵領から逃げたの。そして、犬猿の仲と言われる教会に身を置くこととなった。その時から男の人が苦手で、顔がいい男はもっとダメで……まあ、最近は割と平気になったんだよ。それも、カルマとアドビーのお陰、キミたちと同じチームで良かったヨ」
そう、軽く言うが、廊下を移動してる最中、過去を語ってる最中、ずっとカルマと繋がっている手は震えている。恐らく、恐怖は根強く彼女の記憶に深く潜り込んで、先程その当の本人と出会ってしまったために再熱してしまったようだ。フィオネが顔を上げてカルマを見る時もその視線はカルマを見ていない。
教会に身を寄せている人間は、ある程度闇がある。カルマにだって、アドビーとリーダー以外には伝えていない秘密があるほどだ。ひとりひとりが悲劇を持って、それが当たり前である。だが、ネモの女性としての悲劇を聞いて、カルマは皆も同じようなことを経験しているだとか、そういう軽いことは言えない。むしろ、心に深く重しのように投擲されたそれは、流石のカルマも、何か口にしなくてはならないと、そう思ってしまう。慰めか、感想か、そんなことは考えられなかった。ただ、単純にフィオネの意識を過去から現実に戻さなくては、そう思って、カルマが口を開いた時だ――
「フィオネッ」
前から話題の中心人物であり、フィオネを過去に引き戻した男が、カルマとフィオネの前に立ちはだかった。