第七話 記憶の一頁を辿って
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第七話 記憶の一頁を辿って
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文机の上に広げるには広さが足りず、何重にも折りたたまれた洋紙を広げれば、それだけでベッドの半分が埋まった。
傍らの文机にはランタンを置き、赤々と燃える灯りを頼りに、紙の上に視線を走らせるトリル。
ベッドの端に腰掛け、ざっと目を通したところで彼は眉をひそめた。
「確かにゴートウィード国の地図だが、だいぶ内容が古いな?」
「今回、これを参考に旅をしてきたんだけど、地名や地形が記載のものと異なっているところが多くてさ」
反対側のベッドの端に腰掛けるのはフェルジャル。
トリルの家へと戻ってきたところで、フェルジャルより領地についての説明を求められたトリルだった。
フェルジャルが持参したという地図を指さしながら、トリルは自分の気づいた範囲で一つずつ記載の情報を訂正をしていく。
フェルジャルといえば、筆を手に、トリルの指摘した部分をベッドの上の紙へどんどん書き込んでいった。
時間にして一時間ほどだっただろうか。
一通り情報の訂正が済んだところで、延々と喋り続けて酷使した喉を癒すために、トリルが文机の上に用意していたポットからカップへ茶を注いでいれば、少し言葉を選びながらフェルジャルが質問をした。
率直に聞かせてほしいんだけど、と。
トリル邸では周囲を気にする必要はもうないはずだが、カラスの被り物をしたままのフェルジャルの姿は、薄暗い部屋の中、ゆらめくランタンの灯りを通して見ると、ことさらに不気味だった。
「このヒペリカム領の時局はどうなっているのかな?他のゴートウィードの領地でもこんなに酷いところはなかった。大通りの建物だけは立派だが活気はないし、ガヤ街や裏市は賑わってこそいたが、人々の生活はだいぶ貧しい印象を受けた。そして何より、街のあちらこちらに漂う瘴気だ」
当然の疑問だった。
トリルは二つのカップへと茶を注ぎ終わると、一つは自身の傍らにある机の上に残し、もう一つをフェルジャルへと手渡した。
「ちょっとばかり苦味はあるが、疲労回復に効く茶だ。ずっとそれを被っているのも息苦しいだろ。どうせ俺しかいないんだから、外せばいい」
屋敷の主にそう促されれば、ようやくフェルジャルはカップを手渡された方と逆の手で、被り物を脱いだ。
小さな溜息とともに、被り物の下から銀色の髪が露わになれば、トリルは自身の茶へと口をつけた。
目にかかる髪をかき上げて後ろへと払いながら、フェルジャルも続いて茶に口をつけた。
途端、ウェッという茶への遠慮ない味の感想がフェルジャルの口から洩れれば、これにトリルは眉間に皺を寄せながらも、カップを机に置いて語り始めた。
ヒペリカム領が今の状態になった経緯についてだ。
「うちは十数年前に領主が代替わりしてから、領内の情勢は傾き始めた。先代の領主が才気溢れるお方だったから、状況はなおのこと比較されることが多かった。それでも、ここまで悪くはならなかったんだ」
情勢の崩壊への道のりが決定的になったのは、ちょうど三年ほど前からだという。
それを語る時のトリルの口ぶりはひと際に重そうだった。
当代領主の一人娘が亡くなった、と。
「元より、領主の親ばか……いや、一人娘への溺愛っぷりが目に余るほどだったけど、娘自身が父親である当代領主に似ず優秀な人だったからな。聡明な彼女が父親を上手い具合に支えていて、治世もなんとかはなってはいたんだ。きっと次代は、彼女が婿をとり、夫婦ともにこのヒペリカム領を盛り立てていってくれるものだろうと領民からも期待されていた」
その娘が十七歳を迎えた冬のことだった。
国内で横行しはじめていた流行り病にかかって、彼女はあっけなくその短い人生を閉じたという。
話を続けるトリルの表情に陰りが見えた。
フェルジャルはカップをテーブルの上に置くと、静かに彼の話へ耳を傾けた。
「流行り病といえ、老人や赤ん坊ならまだしも、健康な大人がかかってそう簡単に命を落としてしまうようなものじゃなかったはずなのに……」
流行り病がヒペリカムで猛威を振るい始めた頃だろうか、時を同じくしてどこか領内の空気が悪くなりはじめたのは。
何かがおかしいとトリルが気づいた時には、すでに領内全体に瘴気が拡がっていた。
トリルの説明に、フェルジャルは顎に手を当てて考え込む。
「流行り病が、瘴気をもたらした、と?」
「タイミングとしては、ぴったりなんだ」
フェルジャルの口にした推測に、トリルは深く頷いた。
流行り病自体は、半年ほどでなんとか収まりを見せたが、領内に拡大した得体のしれない瘴気はそのまま残り、加えて溺愛する娘を失ったことが領主を手腕をいっそう狂わせることになった。
政治は乱れに乱れ、始めた事業はことごとく悪手を打ち、その穴埋めをするように領民がおさめる税は上がり続けた。
「領主を代々支えてきた古参の配下たちも、この状況には見切りをつけて別の領地へ移ったり……情勢を正すべく意見すれば、領主の癇に障って一族もろとも排斥、ってね。酷いもんだろ?」
淡々と言葉を紡いでいるように見えたトリルであったが、その手が僅かながら震えているのを隠すように強く握りしめられているのをフェルジャルは見逃さなかった。
なるほど、とフェルジャルは相槌を打った。
「大体の状況は見えてきた。説明してくれてありがとう。しかし、政治に関してはイカれた当代領主が握っているとしても、この瘴気については?この手のものには敏感な司祭たちが、何も手を打たないはずはないのでは?」
ゴートウィードでは、光魔法に精通しており司祭職にある者だけが、呪詛祓いを許されている。
おかしくなったとはいえ未だ領主が政治の実権を握っている以上、政治には手も口も出せないだろうが、領地に蔓延るこの瘴気の浄化に司祭たちが動き出さないことなんてあるのだろうか。
彼らは普通の者に比べ、魔道にも長けているのだから、領地の空気のおかしさにもすぐ気づくはずである。
フェルジャルのこの疑念に、トリルは憂鬱そうな低い声で返した。
「娘を救えなかっただの、なんやかんや理由をつけられ、病の治療にあたった者からそうでない者まで、司祭たちは領内から全員放逐されちまった。領地に複数あった教会も全て叩き壊されている。だから今、このヒペリカム領には司祭職は一人もいないんだ」
「…………」
言葉を失うとはまさにこのことだった。
想像以上の酷い話にフェルジャルは開いた口が塞がらなかった。
今日、半日ほどヒペリカム領内をトリルとともに歩き回り、確かに領全体を見て回ったわけではないが、見回った範囲では教会らしきものがなかったことに、フェルジャルは遅まきながら気が付いた。
教会がなく司祭職も不在といっても、光魔法の取り扱い自体には解呪とは異なり法律的制限がないため、治療魔法を扱える者が全く領内にいないというわけではないのだろう。
しかし、怪我や病の治療が必要となった際、教会を頼れば無償か安価で済むところ、個人に依頼すれば高額を請求される場合もあり、領民の生活階級によっては治療を受けることが難しくなってくる。
裏市で出会ったメーテルという女性が口にしていた言葉をフェルジャルは思い出す。
あの時、彼女はなんと言っていたか?
『おかしなことをして怖い領主様のお咎めを受けても知らないわよ?』
あれはこの現状があったからこそ出てきた言葉だったのだと、フェルジャルはようやく理解した。
「……三十年かそこらで、発展するならまだしも、こんなに衰退しちゃうものなのかァ」
ヒペリカムの現状に呆然としながらも、フェルジャルがようやく絞り出したその言葉に、今度はトリルがきょとんと目を丸くする番だった。
「へ……?」
どこか知ったような口ぶりをした余所者に、つい間の抜けた声を出してしまったのも仕方ないだろう。
コイツは何を言っているんだ、というトリルの胡乱な視線に気づいたらしい。
何かを思い返すように古い地図へ再度視線を落としていたフェルジャルはそこで顔を上げ、トリルと視線が交われば首を傾げてみせた。
話してなかったっけ?と、不思議そうに呟いたその旅ガラスからの衝撃の告白は。
「ヒペリカムに来たのは初めてじゃないんだ。三十年ぶりぐらいの、今回が二回目の訪問」
目の前の客人が何を言っているのかわからず、ベッドの上で目を瞬かせるトリル。
数秒の後、発言の意味をようやく理解した彼は、思わずベッドの上に立ち上がっていた。
勢い余ってフェルジャルの古地図をちょっぴり踏んづけてしまったが、今はそれどころじゃない。
「三十年ぶり!?二回目!?何だ、それ!聞いてないぞ!」
彼の驚きようは、フェルジャルにとっても予想外だったようで、興奮するトリルを前にして、慌てて後ろに身を引いた。
「え!?ごめん、とっくに話したつもりになってたよ。でも、そこまで驚くことかな?たったの二回だよ?街並みも以前とは変わっているようだし、ガヤ街や裏市にも行ったことはなかったから、気持ちの上では初めてヒペリカムを訪問したようなつもりでいるけど」
フェルジャルはそう言い繕うが、これにトリルは唇を震わせながら噛みつく。
「回数のことじゃない!さ、三十年ぶりって……!?」
外見では年齢を判断しがたかったけれど、少ししゃがれてはいるが中性的な声色とその軽い口調から、てっきり自分と歳近いものと思っていたトリルだったが……
ざっと計算してみても、十代でヒペリカム領を訪れたとして、軽く四十代は越えている。
オッサンじゃないか、と思わず口からこぼれてしまったトリルの心の声を拾えば、これにはフェルジャルも少し憤慨した様子で反論した。
「オッサンよばわりはいただけないなァ。心も身体もまだ十代並みだよ」
あまり胸を張っていうことではないが、堂々とそう主張するフェルジャル。
衝撃的な事実の発覚に動揺を隠せないトリルだったが、フェルジャルが話を続けるには、ベッドの上に広げているこの地図もその当時に入手したものだという。
大事にとっておいたんだけど、今、君が踏んづけてくれたもんだから、ちょっと破れてしまった。
フェルジャルに指差しでそう指摘されれば、トリルは慌てて地図に乗っていた足を下げ、元の位置へと腰をおろした。
年季の入った地図を破ってしまったことをバツが悪そうに謝るトリルだったが、そこでふと閃いた。
「待てよ……?三十年前にも訪れたことがあるっていうなら、アンタが何度も狙われているのも、関係があるんじゃないか?以前の訪問時に何かやらかしたとか……」
そんな推理を披露してみたものの、これにはフェルジャルはピンと来ていない様子だ。
「三十年前に?さっきも言ったけど、その時はガヤ街や裏市方面には行ってないんだよ。その名前だって今回の訪問で初めて君から聞いたんだ。そのタイムとかいう少年が所属する若者集団から狙われる理由には繋がらないと思うけど……」
あちらこちらを訪ねてまわっているから、いつどこで何をして誰にあったかの記憶がごちゃ混ぜになって定かじゃないんだよなァと、フェルジャルは腕を組んで本気で頭を悩ませている。
その話ぶりから、フェルジャルがこのゴートウィード国だけでなく、数多くの国や地域をめぐっていることが聞き取れて、トリルは首を傾げた。
ヒペリカムへは二回目の訪問、ということであったが、それ以上に肝心なことをまだこの客人から聞いていなかった。
「そもそも、なんでこの街に?三十年前といい、何か目的があってやってきたのか?」
今は領主の問題もあり荒れ果ててはいるが、その以前は高望みをしなければ普通に生活していくには遜色のない土地だったとトリルは思う。
ただ生活する分には良くても、とりたてて観光名所があるわけでも、特出した名産品があるわけでもなかったので、ヒペリカム自体に用があって領地を訪れるという者は少なかった。
立ち寄る者がいても、別の領へ行く通過地として宿を利用したり、装備や飲食を補充する程度である。
中にはあてもなく様々な国を旅する者もいるのだろうが、フェルジャルの特異な体質を考えれば、見ず知らずの土地をあちこち訪れることは、そこにどんな呪いが渦巻いているかもわからないのでリスクが大きい気がする。
そんなトリルの疑問に答えを口にしたフェルジャルの声色からは何も感情の動きが読み取れなかった。
探しているんだ、と。
「この根深くて憎たらしい呪詛の解き方を探してるんだよ。今も昔も。あちこちの国をまわってみたものの、なかなかうまくいかないもんだねェ」
あっさりと自身の目的を告げる客人に、トリルは言葉に詰まった。
先ほど、三十年前という話があったが、そうなると一体、どのくらいの年月、彼はこの呪いを背負っているのだろうか。
皮膚はただれ、変色し、見る者に恐怖を与える容姿と、酷い時には動くこともままならないほどの状態で。
トリルは街中を歩いた時のフェルジャルとの会話を思い出す。
被り物でその素顔を、手袋で素手をきっちりと隠して外を歩いていたフェルジャル。
自身の身体の不調に加えて、その外見が周りへ与える影響を考えると、この三十年だけでも、快適な人生を送ってきたとは考えにくい。
彼のこれまでの生活を想像するだけで他人事ながら胸が苦しくなるものがあった。
だが、黙り込んでしまったトリルは、続くフェルジャルの話に大きく反応を見せることになった。
「風の噂でね、ゴートウィード国に、魔道に精通している一族がいると聞いたからさ」
フェルジャルのその言葉に、膝の上に置いていたトリルの両手がぴくりと小さく反応した。
動揺を悟られないよう、トリルは心を落ち着かせながら、ゆっくりと話し手の様子を確認する。
フェルジャルはというと、特に家主へ注意を払うこともなく、遠い昔のことを思い出すかのように、ベッド脇の窓の外を眺めながら、ゆっくりと言葉を重ねた。
「三十年ほど前、その一族を訪ね歩いて、結果たどり着いたのがこのヒペリカム領だった。その時は残念ながら呪いを解く手立ては何も得られなかった」
そこで、あっと何かを思い出したかのように、言葉を切ったフェルジャル。
ぽっかりと口を開いたまま固まってしまった客人に、トリルは何事かと急いで話の続きを促した。
「何だよ!?その時にその魔道の一族やらと、何かあったのか!?」
続きが気になり、平静さを保つのも忘れて急くトリル。
フェルジャルは窓の外からトリルへと視線を移し、彼と目が合えば、すこぶる大真面目にこう述べたのだった。
「今の今まですっかり忘れていたけれど、前にヒペリカムへ来た時も矢で滅多撃ちされたんだった!ヒペリカムに来ると、どうも弓矢に縁があるみたいだねェ。うん、古い記憶がちょっと混在していておぼろげだけど、あれは確かにヒペリカムでの出来事だったかも!」
フェルジャル曰く、その時は領主の屋敷の塀をよじ登っていたところを、屋敷の警護にあたっていた衛兵から攻撃されたという。
ここの領主の屋敷とやらがどの程度の規模なのか気になって、と頭をかきながらはにかむフェルジャル。
話の続きが自身が期待していた内容ではなかったことに落胆しつつも、トリルは目の前の旅ガラスへツッコみを入れずにはいられなかった。
「アンタ、やっぱり善良な一般人ではないだろ、絶対……」
2023/07/07