ラベンダー6
「〇〇ちゃん、これを飲んでママとお昼寝しましょう。」
母は、私に薬の瓶を渡した。それは花に使う薬だった。もちろん、瓶の説明には口に入れないで下さいとばつ印がついている。瓶を差し出した母は、いつもの笑顔が消え無表情だった。そんな母をあまりみたことがなかった。花のように無感情にニコニコと佇んでいるのが母だった。母は笑顔しか出来ないと思っていた。
小学校の三者面談の日、
「柚木くんは成績は申し分ないのですが、ちょっと引っ込み思案なところがあって」とクラスで浮いていた僕を説明している先生に対して、母は困ったように微笑んで
「優しい子ですの…」とかろうじて答えていた。
父が死んで、お葬式でのこと。父の妹沙耶子さんはら泣きもせずにただただぼんやりしている母にむかって怒鳴った。あんたには愛がないやら、あんたが殺したやら色々言われていたのだが、母を心配して背中を支えた僕に困ったように微笑んでいるだけだった。沙耶子さんはそれも気に食わなかったようだが。
そう、母は困った時も泣きそうな時も怒っているときも眉を下げて哀れむように微笑むだけだった。それは母が優しいからではない。ただ同じ感情を持てないことに戸惑っているようにみえた。困った時に思わず笑ってしまうよな。
しかし、この時の母の無表情な顔は、能面のようにのっぺりとしていてニコニコした、いつもの母と同じ人物とは思えなかった。人の真顔ほど怖いものは無いと思う。作り物めいて見つめていると輪郭がぼんやりして白くとけ始める、そんな印象だ。僕は、母が怖くて飲んだふりをした。
しばらく経った。または、ほんの数分かもしれない。いきなり、ふっと意識がはっきりした。ぼんやりとしていた間、何かを眺めていたと思う。赤い何か。ちゃんと焦点を合わせるとそれはハマナスだった。
そして、苦しむ母がみえた。蹲ってうめく母の後ろ、窓越しにハマナスの花が咲いていた。
母は突然顔を僕にむけた。それはとても強い目で僕をみる。母の目を見ていたらまるで走馬灯のように小さい頃のことをはっと思い出した。
生まれ変わったら花になりたいと語っていた母。小学一年生の夏、登校班に馴染めなかった僕は、母に学校まで送ってもらい、迎えにも来てもらっていた。通学路には、おばあさんが一人で住んでいる古い民家が建っていた。その家は古かったが、外壁は白と黒、屋根は赤、そして庭に何色もの花が咲いていてきちんとおさまっていた。塀の代わりに家の周りに巡らされていたのが、サザンカとハマナスだった。生垣というほど、きちんとはしていなかったが、家と道との境界線にはなっていた。その家の前を通った時、母は赤とピンクの中間のような色をした鮮やかな花をみて、
「これはハマナス」と教えてくれた。
「キレイ」
「ええ、とてもキレイね」
「取ってもいい?」
「うーん、人のおうちのだからねぇ」
「そっか。じゃあじゃあ、明日も、みられるかな?」
「そうねぇ、明日も咲いているけど、同じ花はもうみられないかもね。」
「なんで?」
「ハマナスは、一日花なの。とても寿命が短いのよ」
「へー。こんな、きれいなのにもったいないね」
「そうかしら?」
「うん、きれいなものはずっと長持ちして欲しいよ」
「そうねぇ。」
「宝物箱に入れて毎日眺めたい!」
「それも素敵ね。」
「お母さんはどうしたい?」
「わたしはね、何もしないわ。」
「なんで?」
「ふふ、内緒。」
「えー」
「わたしはね、生まれ変わったら花になりたいの。そしてそれがハマナスだったらいいなって思うの。」
そして植物園で桜をみた時の母のセリフがこだました。
「桜の下には死体が埋まっているのよ。」
目の前の母をみると、ニヤリと悪巧みをするように笑った。おばあさんに分けてもらった庭のハマナスはまだまだ綺麗になれそうだ。