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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

悪魔騎士の愛しい妻

作者: 七川あかね

 みずみずしい皮膚をした手が、わたしの口を潤そうとガラスの吸い飲みを差し出す。

 わたしはとっさに、萎えた腕を振り上げてそれを払いのけた。

 吸い飲みがベッドの脇の床に落ちて、耳障りな音を立てて割れた。


「奥様」


 召使いが戸惑った声を上げる。艶やかな黒い髪と、張りのある目元をした娘だ。

 老い、衰えたわたしには、その若さが憎い。


「わかっているのよ、毒が入っているんでしょう!」

「なにをおっしゃるんですか」

「とぼけないで、お前はわたしが邪魔なのよ! わたしの後釜を狙っているに決まっているわ!」


 わたしの夫、エリックは、世界で一番美しい男だ。

 彼に惹かれない女など、いるはずがない。

 少し動き、声を出しただけなのに、わたしの喉は痛んでゼイゼイと鳴る。

 わたしは長く生きた。そう遠くないうちに、死んでしまうだろう。

 楽しい人生だった。エリックが、これまでずっと恭しくわたしに仕えてくれたからだ。

 その彼を置いて死ぬなんて、わたしは耐えられない。




 エリックと出会ったとき、わたしはまだ十六だった。

 パーティーホールを抜け出して、テラスで夜風に吹かれながら泣いていた。

 わたしの家はそれなりの規模の商家だったが、父が急死し、跡を継いだ兄が無能で、潰れかかっていた。

 兄は、わたしをある富豪の後妻に差し出すかわりに、融資を受けようとしていた。

 引き合わされたその男は、でっぷりと太っていた。脂ぎった顔でニヤニヤと笑い、わたしを頭からつま先まで舐めるように見た。


「ミス・ヴァイオレット。これは、なかなかのお嬢さんだ」


 その視線は、最後はわたしの胸元に向けられていた。

 おぞましさに背が粟立った。ヒキガエルにさらわれた親指姫の気持ちはこうだったろうと思った。

 ダンスに誘われたのを、体調が優れないと断った。

 兄が責めるような顔で見てきたのをにらみ返し、ならばサロンで休憩をと図々しく手を取ろうとする男を振り切って、わたしは逃げてきていた。

 あんな男に嫁ぐくらいなら、いっそここから飛び降りてしまおう。

 そこまで思いつめたとき、救いの手は差し伸べられた。


お嬢様(レディ)、どうなさいました」


 甘く穏やかな声に振り向いた。

 白銀の礼服に身を包んだ、騎士が立っていた。

 銀糸の髪、琥珀の瞳。高貴で優しく、けれどどこか憂いを含んだ面差し。

 月光が人の形をとったような神々しい姿に、わたしは見とれていた。


「貴方は、どなた」

「エリックとお呼びください、お嬢様」


 彼はわたしの涙をシルクのハンカチで拭ってくれた。

 問われるままに、初対面ですべてを話してしまったのは、彼の持つ魅力のせいだ。


「おかわいそうに……ヴァイオレット様。大丈夫です。全て私にお任せください」


 わたしは彼にエスコートされて、ホールに戻った。

 人々は彼を認めると、とたんに恐縮して姿勢を改めた。

 兄がへつらったあの男ですら、そうだった。

 彼は、エリック・アビゴール。さる国の公爵の位を持つ、貴公子だった。

 わたしは夢見心地で彼と踊った。彼は、パーティーの参加者の中でも上流の人々に、わたしを「大切な人」として紹介してくれた。

 彼はその夜、わたしをあの男の手から守ってくれた。


 翌日、エリックは煌びやかな装飾の四頭立て馬車でわたしの家を訪ねてきた。

 兄は恥ずかしいほどペコペコして迎えた。

 一方のエリックは、けして偉ぶるわけではなく、にこやかに話をした。

 彼は、わたしの家の事業に、無利子で融資をしたいと言った。

 特に担保もとらないし、期限も設けない。

 また、必要なら事業に役立つ人々に口利きもしましょう、と。

 兄が目を白黒させながら、なにを見返りにと尋ねると、彼は柔らかに微笑んだ。


「ヴァイオレット様を、自由にして差し上げたいだけですよ」


 兄は狂喜した。エリックを客として引き留める裏で、わたしに言った。


「よくやった、ヴァイオレット! あの豚なんか比べものにならないぞ! いいか、よくおもてなしして、ものにしろ」


 薄汚れた思惑に嫌な気持ちになった。しかし、それはさておき、わたしも既に彼に魅了されていた。

 この国を見て回りたいという彼の要望に応えて、わたしは案内の名目で一緒に出かけることになった。

 蓋を開けてみれば、全て彼の方で手配されていた。彼は、わたしに自分の名を呼び捨てさせ、まるで従僕のようにかしづいた。わたしが遠慮しても、そうしたいのだと言った。

 わたしは彼の所有する馬車に乗り、仕立て屋で、上等な服や靴、アクセサリーを好きなだけ注文させてもらった。

 歌劇やコンサートを貴賓席で楽しみ、上流階級の邸宅に招かれて食事をした。

 彼の趣味は観劇と、絵画の収集なのだという。


「美しい女性の肖像画が好きなんです」


 美貌と富、権力に加えて、繊細な審美眼まで備えていた。

 美術展では若い芸術家と熱心に話し込み、才能あるものの後援者となった。

 長く旅してきた彼は、話題も豊富だった。その口から語られる異国の物語は、聴き飽きることがなかった。


「わたしも行ってみたいわ」


 そう言うと、彼はどこか寂しげに微笑んだ。

 人々の前では堂々と落ち着き払っている彼だが、わたしと二人きりになると、まるで少年のように構えない表情を見せてくれた。

 わたしは彼の全てが好ましかった。


 けれど、同時に不安になってきていた。

 彼は、ひたすら紳士的だった。はじめに兄が引き合わせた男と違い、一切、卑しい欲望を覗かせなかった。

 彼がしてくれることは、わたしへの恋愛感情によるものではなく、単に、ありあまるほど富めるものの気まぐれなのではないだろうか。

 そうだとしたら、舞い上がっているわたしは馬鹿みたいだ。

 ふと明日にでも、彼は綺麗な微笑みだけ残して、次の国へ旅立ってしまうかもしれない。

 焦れて水を向けたのは、結局わたしだった。

 夕暮れの庭園で、二人、散歩をしていた。

 薄紫に染まりはじめた空の端に、銀の満月が浮かんでいた。


「エリック」

「なんでしょうか」

「わたし、貴方に助けられたお礼をしたいの。望みを言って」

「ヴァイオレット様」


 彼はしばらく、透き通った琥珀の瞳でわたしを見つめていた。その中に吸い込まれて、閉じ込められてしまいそうな気分になった。

 彼はひざまづいて、わたしの手を取った。


「それでは……どうか、私に、貴女の生涯の騎士ナイトになる栄誉をお与えください」

「……ええ」

「有難き幸せ……私のレディ・ヴァイオレット」


 彼の唇が触れた指先から、甘い痺れが身体中に広がって、わたしは本当に彼に囚われてしまったのだった。




 その先の旅に、わたしを連れていきたいという彼の願いを、兄が断るはずもなかった。

 どの国でも、彼は最上級の賓客として歓迎された。そして、彼にエスコートされるわたしは、まるで世界一高貴な女性のように扱われた。

 そんな華やかな日々の中で、悩みといえばただ一つ。

 彼が、未だに、わたしを女として求めないことだった。


「……なにがいけないのかしら」


 彼が前から使っていた、黒髪の召使いの娘に身支度をさせているときに、訊いた。


「わたしには魅力がない?」

「とんでもございません。お嬢様は大変魅力的でございます」

「だったら、どうして?」


 どうして、彼は寝室を共にしようとしないのだろう。かなりきわどく誘いかけても、その目は時に熱情を帯びてわたしを見つめても、肝心なところでするりと引いてしまう。その度に、わたしの気持ちは苦しいほど募っていくばかりだった。

 まだ、婚姻を結んでいないから?

 ならば、いつ申し込んでくれるのだろう?

 さすがに自分から結婚してほしいとは言い出せなくて、わたしは悶々としていた。


「……どうか、待って差し上げてくださいませ。ご主人様は、お嬢様が愛しいゆえに悩んでおられます」


 わたしを品良く飾りたてながら、召使いは顔を曇らせた。




 転機は荒々しく訪れた。

 街と街の間を馬車で移動しているとき、野盗に襲われたのだ。


「必ずお守りします。私が呼ぶまで、決して外に出てはいけませんよ」


 わたしが止めるのも聞かず、エリックは剣をとって出ていってしまった。

 怒号、絶叫、馬のいななき。剣の打ち合う金属音。

 窓にカーテンのおりた馬車の中で、わたしは震えていた。

 何かがぶつかってきて、馬車がひっくりかえってしまうのではないかと思うほど、大きく揺れた。はずみでドアが開いた。

 地面に転がる人間が、何人も見えた。臭気が鼻をついた。あちこちに赤黒いシミが飛び散っていた。

 わたしは恐怖の中で、彼の名を叫んだ。

 暴漢の一人が、わたしに向かってきた。


「ヴァイオレット様!」


 エリックは、その身を盾にわたしを守った。

 わたしは、彼の背を突き通った刃の切っ先を確かに見た。

 彼が剣を振るい、相手は倒れた。

 わたしは崩折れた彼に駆け寄った。

 愛しい彼の左胸を、無骨な剣が貫いていた。


「エリック、しっかりして!」


 彼は息をしていた。顔を歪め、剣の柄に手をかけて、引き抜いた。溢れ出したのは、血ではなかった。黒く冷たい、ドロドロしたものだ。

 わたしは目を見張った。

 その黒いものは、グニャグニャと蠢いて、彼の身体に戻っていった。上着もシャツも裂けていたけれど、その身体に傷はなかった。


「大丈夫です、ヴァイオレット様……ああ、でも、知られたくなかった」


 彼は苦しげに、そう言った。

 一旦、街に戻り、ホテルに落ち着いてから、彼は告白した。


「……私は、人ならざるものなのです。死なず、老いない。悪魔です」


 国を転々と旅するのも、そのためだ。不滅の芸術を慰めにしながらも、彼は孤独だった。


「でも、私は恋をしてしまった。レディ・ヴァイオレット……貴女の、暮れゆく空のような菫色の瞳に。……この穢らわしい身で、貴女の側にいたいと願ったことを、どうか、許して……」


 彼は、罪人のように床に膝をつき、うなだれていた。

 わたしは胸が締め付けられて、息がしにくいほどだった。

 それが、彼が纏う憂いの理由。

 なんて寂しく、悲しい方!

 わたしは、取り繕うことも忘れて、自分から彼を抱きしめていた。


「怖かったわ。貴方が死んでしまうと思って、今まで生きてきて一番、怖かった」

「ヴァイオレット様……」

「死んでしまわなくてよかった。愛しているのよ、エリック。わたしは、貴方がなんであったって受け入れるわ」


 彼の腕が、ゆっくりと回ってきて、強くわたしを抱きしめ返してくれた。

 彼は、わたしの名を切なげに何度も呼んだ。わたしは、彼がわたしの身体にはたらく狼藉を、喜びをもって許した。


 翌朝、彼はひどく恥じ入りながら言った。


「嬉しくて、耐えられなかったんです。……貴女を軽んじるつもりなんて、誓ってひとかけらもありません」

「ふふ、わかっているわよ」


 古風な彼に、わたしの方が笑いを抑えられなかった。


「ヴァイオレット様、どうか聞いてください」

「ええ」

「愛しています。結婚してください」


 この美しい純粋な男を、悪魔でも化け物でも、どうして拒めるだろう。

 生涯で一番、幸せな朝だった。


 それからエリックと過ごした素晴らしい年月は、わたしの中に鮮やかに息づいている。

 わたしはまだ充分に若く、美しかった。

 エリックは結婚の記念にと、当時最も評判だった画家に、わたしの肖像画を描かせた。数年先まで予約が埋まっているほど人気だったが、当然、彼の力で先にしてもらった。

 わたしの人生で最高の美しい姿は、今もこの、彼の古城の華麗なエントランスホールの、最もいい場所に飾られている。


 ああ、あのころ、わたしの時も止まってしまえばよかったのに。

 わたしはなぜ、エリックと同じ存在に生まれなかったのだろう。


 輝かしい時間は、翼が生えているように疾く過ぎ去っていった。

 太陽は必ず沈む。満月は必ず欠ける。

 不変のエリックの横にありながら、わたしは確実に老いていった。

 彼と並んでパーティーに行くのが、いつしか苦痛になっていた。

 彼は変わらぬ外見と同じく、変わらぬ情熱をもってわたしを愛してくれていたけれど。

 彼は魅力的すぎたのだ。

 女たちは皆、彼を狙った。陰で、隣にいるわたしを不釣り合いだと嘲笑った。

 わたしは身体の不調が増え、感情も乱れやすくなっていった。


 とうとう、目にあまる振る舞いをした女を呼び出した。

 エリックの名を使って手紙を出すと、簡単に一人きりで、けばけばしく着飾ってやってきた。

 やはり彼を狙っていたのだ。

 貴族の娘だろうが知ったことではなかった。

 雇った男に命じて、ご自慢の衣装を全て剥ぎ取ってかわいがらせた。

 発情期の雌猫にはお似合いの姿だ。

 初めは泣き喚いていたが、マタタビを嗅がせてやれば喜んで盛りだした。

 わたしは、その姿をエリックに見せてやった。


「エリック、ほら、あれがあの女の本性よ。男なら誰でもいいのよ」

「……おや、まあ……」

「ああ、いや……!  エリック様、助けて!」


 エリックは女を冷たく一瞥すると、二度と視線をやらなかった。

 わたしに優しく微笑んで、話しかけた。


「ヴァイオレット様、申し訳ありません。私が不用意なばかりに、貴女のお心を乱してしまって……でも、ああ、私はいけないな。貴女が嫉妬でこんなことまでしてしまうなんて、嬉しくてたまらない」


 エリックはその夜、一際激しく、わたしを愛してくれた。

 わたしは満足し、安心した。

 ……それはそれとして、わたしの目の前で彼の名を呼んだ女は許せなかった。

 それに、下手に身分があるから、帰して騒がれても面倒だ。

 すると、エリックが囁いた。


「後片付けはお任せくださいね」


 わたしの夫は、本当に素晴らしかった。いつだって、わたしのことを理解してくれていた――




「お前もあの雌猫どもと一緒よ! 憎い、憎いわ!」


 黒髪の召使いは黙って身をかがめ、ガラス片と水の散る床を片付けている。

 あの人間の女たちより、さらに憎い。この娘は、数十年わたしに仕えていながら、外見が変わらない。何度も殺そうとしたが、死ななかった。

 エリックと同じ存在なのだ。

 彼と長く時を過ごして、あんなに魅力的な彼を愛さないはずがない。

 わたしがいなくなったら、きっとこの娘は悲しみに弱った彼に近づくだろう。


「奥様、私は確かに、この世界に存在しはじめたときから、ご主人様を深くお慕いしております」


 とうとう召使いの口から漏れた本音に、わたしは奥歯を噛み締めた。


「ですが、ご安心くださいませ。ご主人様は、私のような呪わしいものにお心を寄せることなど決してございません。ご主人様が愛したのは、奥様の発した命の輝きでございます。移ろい失われるからこそ、かけがえなくお美しい。……奥様は、私の言葉などお信じにならなくとも、ご主人様の愛はお疑いにならないでしょう」


 常に喪に服しているような黒づくめの娘は、ひっそりと呟くと、出ていった。




 いよいよ命が尽きようという日、わたしは不思議と洗われたように静かな気持ちになっていた。

 影のように付き添う召使いに語りかけた。


「彼を、また一人にしてしまうのが心苦しいの。せめてお前、あとを頼むわよ」

「かしこまりました。力不足ではございますが、変わらずお心込めてお仕え申し上げます」


 叶わぬ想いを胸に、なんて健気な召使い!

 わたしは、最期はエリックに側にいてもらうことを望んだ。

 やつれはてた身体を見られたくなくて、ここ数年は彼を遠ざけていたのだけれど。


「ヴァイオレット様」


 枕元に寄り添ってくれる彼は、深く憂いに沈んでいながらも、出会ったあの日そのままに、美しかった。


「エリック……優しい、悲しいひと。こんなに皺くちゃになってしまったわたしと、最後まで一緒にいてくれて、ありがとう」

「なにを言うんです。貴女は出会った頃も今も、それぞれに美しく、私を惹きつけてやみません。私のレディ……その命の最期のひとときまで、どうか側にいさせてください」

「ええ……愛してるわ」


 エリックは、そっとわたしに口づけをした。

 銀の髪がさらさらとわたしの顔に降りかかる。滑らかな白皙の肌。永遠の青年。

 わたしを閉じ込めた琥珀の瞳は、涙に濡れていた。

 彼の後ろから、白い光がさしている。

 それは、どんどん、眩しいほど強くなっていく。


「エリック。あなたは、悪魔なんかじゃない……わたしの、天使よ」


 ああ、愛しい人!

 もう後悔はない。たとえ死んでも、彼の中で、わたしの愛は永遠になるのだ。

 わたしは穏やかな気持ちで、目を閉じた。




「悪魔騎士の愛しい妻」


 おしまい






















 さて。

 召使いでございます。

 奥様からあとを頼まれましたので、僭越ながら、出てまいりました。


 レディ・ヴァイオレットとエリック様の愛の物語、お気に召しましたでしょうか?


 ご満足いただけたのであれば、なによりでございます。

 ご観覧ありがとうございました。





















 ですが、この物語に、釈然としないものをお感じになる、あなた様。

 よろしければ、お進みください。

 ただし、後味は保証いたしかねます。


 なにしろこの先は、悪魔の演じた舞台の裏側でございますから。



















 なに、ほんの蛇足でございますよ。

 結論から申し上げますと、『エリック様』は、ぜんっぜん、大丈夫です。

 奥様のお墓の前で、大人しく泣いているかと思ったら、ほら、だんだん楽しくなっちゃって、高笑いしておられます。


「ああ、素晴らしかったよ、ヴァイオレット! 君と過ごした日々、君が捧げてくれた愛! 愛してる、愛してる、愛してる! 永遠に忘れない!」


 綺麗なお顔が、完全に気の触れた歪み方をして、まさに悪魔らしく晴れやかです。私、このお顔が見たくてお仕えしていると言っていいです。

 私のご主人様。エリック・アビゴールは人に混じるときに使っている通称です。

 真なる御名はエリゴス。七十二柱の上級悪魔の一柱、序列十五番の地獄の公爵様でございます。


 エリゴス様は悪魔としては特殊性癖でいらっしゃいます。まあ、悪魔の標準性癖って何かっていうのは置いておいて。

 エリゴス様は、人間の、瞬く間に老いて死にゆく儚さを溺愛しておられます。

 人間で言えば、ハツカネズミに真剣に恋するようなものですね。

 正直なところ、エリゴス様ほどのお力であれば、ハツカネズミに魔力を注いで不老不死にするのも簡単なんですけどね。しません。

 お仕えしはじめて初めて奥様が亡くなったとき、さめざめと泣いていらっしゃるのでそう申し上げたら、


「え、死なない人間に何の価値があるわけ?」


 って、真顔に戻っておっしゃいましたから。




 私は、エントランスホールから奥様の肖像絵をおろし、特別ギャラリーに運びます。

 廻廊にずらりと並ぶのは、全て、エリゴス様のこれまでの愛妻の肖像画。その数……さて、何枚あったっけ?

 先の奥様の肖像画の通し番号を確認すると、六百六十五とあります。おや、それではこの奥様は栄えある六百六十六代目様!

 いやあ、ヒステリックな奥様でした。奥様が嬲り殺した令嬢だって、ほぼ冤罪ですからね。どの方も、エリゴス様と目が合ったとか、取り落とした扇を拾ってもらったとか、その程度ですよ。

 ……ええ、奥様、一回じゃないんですよね。年老いて容姿に自信がなくなられ――もともと、せいぜい中の上くらいだったのは目を瞑ってあげましょう――ご不安にかられるたびに、バカのひとつ覚えで何回もやりましたね。

 付き合ってあげるエリゴス様もどうかと思うんですが、あの方、芝居好きですからね。殺人までやる奥様は十人に一人くらいなので、愛情表現の一つとして楽しまれたようです。

 そういえば、一緒に死にたくて、エリゴス様をどうにかして殺そうと躍起になった奥様もいらっしゃいましたが、結局成功しませんでした。あの時は、尽くし型のエリゴス様ですが、本懐を遂げさせてあげられなくて、大変残念そうでした。

 エリゴス様の言を借りるならば「悪魔の唯一の欠陥は、死なないこと」なのです。

 今回の奥様も、獣の数字を頂くに相応しい、結構な性格の御方だったと褒めて差し上げたいですが、今際の台詞は玉にきず。序列の数字を持つ悪魔を指して、天使はいけません。エリゴス様、鳥肌立っちゃってました。

 たまにいらっしゃいます。悪魔の伴侶として毒々しく勝手気ままに生きたくせに、死の間際に悔い改めたみたいになってしまう方。でも、取ってつけたようにそんなことをしたって、天国の門は開かないんじゃないですかね?




 私、時々、このギャラリーに魔力を吹き込んで遊びます。楽しいですよ、歴代の奥様たちの罵り合い。口々に、自分こそエリゴス様に真に愛されているのだと主張なさいます。

 自分より前の妻たちとは偽の愛で、自分より後の妻たちは寂しさを紛らわすためのお飾りなのだそうですよ。

 大丈夫、皆様ちゃんと愛されていましたよ。エリゴス様、未だに皆様のお名前全て覚えていますしね。好んだものも嫌ったものも、ささいな出来事の一つ一つまで。

 ただし、順位はつきません。ナンバーワンなんていないんです、それぞれオンリーワン。そう申し上げても、誰一人納得されませんが。

 エリゴス様は、決して同時に複数の奥様をお持ちになることはありません。死が二人を分かつまで、責任を持って一途に愛されます。ご機嫌を損ねるとよくないからと気遣って、奥様の生存中は、前妻の存在などおくびにも出しませんしね。事情を知る人間へはお得意の精神干渉まで使って口を封じる徹底ぶりです。

 なんとお優しい、こんな遊びに興じる私と違って!

 いえね、私も裏方として、エリゴス様と奥様方のロマンスを盛り上げるべく、道具立てをしたりエキストラを用意したり、苦心しているのですよ。

 これくらいのお楽しみ、お目こぼしいただきたいものです。




 さて、新しい奥様を探さなくちゃいけません。

 私は鴉になって人間界の空を飛びます。

 見た目はあんまり重要じゃありません。頭もそんなに良くない方がいい。心優しいのも、つまらないそうです。信心深いのは最もダメ。エリゴス様、聖典の一節なんか口にされようもんなら、蕁麻疹出ちゃいますから。たいした害はないけど不快だそうです。

 あ、でも妙な新興宗教の信者を奥様になさったときは楽しそうでしたね。せっせと布教して勢力拡大して国一つ作りました。ご自身で教祖の席に収まって、完全に悪ノリです。ただ、奥様が亡くなった瞬間に興味をなくして放り出したので、国、即座に潰れました。

 余談でしたね。

 エリゴス様のお好みは、我儘で身の程知らずで嫉妬深い女です。俗っぽく、贅沢好きの、手のかかるタイプがいいようですね。


「だって欲望まみれでとても人間らしいじゃないか」


 だそうです。




 ですから奥様、ご心配なく。

 そういう人間の女は、掃いて捨てるほどいますからね。

 エリゴス様は、また新たな愛を楽しまれます。

 ほらまた一人、あれはよさそうだ。

 私は黒い翼で旋回し、ゆっくりと降下をはじめました。


「悪魔騎士の愛しい妻たち」


 おしまい

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― 新着の感想 ―
[良い点]  過去に遡ってヴァイオレットが語っていく、夫である騎士エリックへの愛。死期が間近だからこその必死さが伝わってきました。  一度は別の男性の元へ……といった、ヴァイオレットの波瀾万丈な人生を…
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