No.33 三話 ~10~
こうして身体を動かしていると頭の中に入り乱れている記憶が徐々に整理されていくような気がする。
俺は日が沈みかかる頃まで街の中をうろつき回っていた。貿易港の海岸沿いから街外れの農村地帯、川沿いの客船つき場にも行ったし高級住宅街の無駄にでかい公園も歩いた。その一つ一つにそれぞれの記憶が合致して、様々な人の顔や出来事が蘇っていく。まるでパズルのピースを組み合わせていくように次々と繋がっていく記憶たちに俺は快感すら覚え始めていた。
その記憶の中からニーシャに関する記憶を辿り、数箇所を巡ったが俺は彼女を見つけることが出来なかった。決定的な何かが足りないのだ。ニーシャに関係する記憶のほとんどが虫食いのようになくなっているような気がする。鮮明に思い出せる記憶といえば夢で見たあの時のものぐらいだった。
結局俺は初めてニーシャの姿を見たあの部屋の前に行く事になった。日も暮れる頃、ただでさえ暗いこの場所は余計に暗くなる。この暗闇はただの暗闇ではなく心を不安にさせる暗さだ。どう表現したらいいのか分からないが、あまりここに長く居たくないと思わせる何かがある。
俺は扉の向こうに何かがあるような気がしながら、そっと扉を押し開けた。軋みをあげながら少しずつ開く扉の向こうに以前来たときと変わりのない部屋が見える。半分腐ったような床と湿っぽい空気。小さな棚と木枠だけのベッドが並ぶその部屋に見覚えのある少女の姿があった。
この世のものとは思えないほど透き通った肌と癖のある栗色の髪。彼女は窓の外を眺めたままこちらに気が付いていない様子だ。俺は開ける時よりも慎重に扉を閉める。
心臓が普段の何倍も大きく振動しているような気がした。ここに来て一体何をするつもりだったんだろう。俺はニーシャを見つけてどうするつもりだったのか。そんな根本的な疑問が浮かび、何を口にしていいのかも分からない。ただ俺は彼女の背中を眺めていることしか出来なかった。
『夢は夢を呼ぶ』
呆然と立ち尽くす俺の耳に聞き覚えのある声が聞こえた。昨日の夜、鏡の向こうで聞いた声だ。
背中と額に嫌な汗が噴出すのが分かった。暗闇の部屋に黒煙が立ち込め、俺の身体を取り巻く。部屋の中でもかすかに聞こえていた街の営みの音がかき消され、完全な無音があたりを包み込んでいく。
その煙の向こうでニーシャも俺と同じように黒煙に取り巻かれていた。何とかしなければという思いで俺は痺れる体に鞭を打って扉の外へと向かう。ニーシャと同じ場所に居ればこの黒煙が彼女にも害を与えると思ったからだ。
だが、それは俺の考え違いだったらしい。ニーシャは平気そうな表情でこちらを向くと八重歯を見せて微笑んだ。
「お兄ちゃんは私だけのものだもん。他の人は要らないよね」
何を言っているのだろう。俺は目を見開いて黙り込む。
そんな俺の姿を見つめていたニーシャは部屋の中に充満する黒煙と共に人の輪郭を崩し、窓の外へと煙となって消えていく。俺の身体を取り巻いていた煙もあっという間に彼女と一緒に去って行ってしまった。
ニーシャと煙が部屋から消えて世界中の音がこの部屋に戻ってきた。小鳥のさえずり、河の流れる音、人々の声、様々な音がこの世の中には溢れているのだと初めて知る。
部屋に残された俺は自分の見たものが信じられず、風に揺れる木窓を見つめて俺は床にへたれこんだ。全身の筋肉が緊張していたせいで体中に倦怠感が襲ってくる。状況を頭の中で整理しようにも高鳴った鼓動がそれを邪魔する。
ひとまず何をするにも一端この部屋を出たほうが良い。そう思い立ち上がった時、食道を逆流してくる嘔吐の予感に俺は床に四つんばいになった。口から逆流してきたものは胃袋の中身ではなくどす黒い液体だった。こんなものを食べた記憶は無い。だが尋常じゃない量の液体が床に流れ出し、呼吸もままならない俺は意識も朦朧にその中に倒れこんだ。
生暖かい黒色の液体は血の臭いがする。口の中に広がった鉄と溝の臭い。この臭いを俺は良く知っていた。初めて俺が目を開けたときのあの臭いだ。あの日、季節はずれの猛暑の日から俺の記憶は加速度的に遡って行く。そして俺は膨大な記憶の海に溺れていった。
第三十三回
そろそろ物語は佳境です。ほぼ毎日投稿してましたが、案外長くなりましたね。次の作品に意欲的に取り組まなければ、次弾がない!
青六。




