No.30 三話 ~7~
夢の淵から現実へと上っていく不思議な感覚に俺は自分の覚醒を予感する。自分で起きるというよりも誰かが起こしているような、あからさまではないもののそんな感情が向けられているような気がした。体感時間にしたらほんの僅かな睡眠を終えて、俺は目を覚ます。
「よっ。おはよう!」
目を開くと同時にアルマの顔が俺の視界一杯に迫っていた。思わず身体を仰け反らしたくなるほど近い。なんとなくだが気配を感じていたおかげでそこまで驚きはしなかった。それがややお気に召さなかったようでアルマはつまらなさそうに口を尖らせる。
まさか俺が起きるまでずっとそうしていたんじゃあるまいな。そんな無意味な懸念を抱きながら俺は背中に掻いた汗の不快さと、ソファーで寝たことによる腰の痛みで二度寝を断念して身体を起こした。
外は既に十分に明るく、おはようの時間帯ではなさそうだ。寝癖だらけの頭を掻き毟ると欠伸が一つこぼれる。
「やけに魘されてたみたいだけど?」
「なら早く起こしてくれ」
どうせアルマのことだ。魘される俺の姿を見て楽しんでいたに違いない。
アルマは眉を吊り上げてあたかもそんな事を言われて心外だ、とばかりな表情をしてみせる。やはり想像通り苦しむ俺の姿を観察していたらしい。趣味の悪さはいつも通りである。
昨日の夜と違い、窓から差し込む光が部屋の中に淡いカーテンを作り出している。人の気配を感じる暖かな事務所の中でアルマは退院したばかりにもかかわらず作業着に着替え始めていた。頭に巻いた包帯はまだ付いたままで、腕や背中にかけての傷も治っていないのにも関わらずだ。俺は洗濯籠に入ったままのシャツに着替えて、壁にかけてある汚れた作業着を手に取った。
「もう退院して大丈夫なのか?」
「ん? 動けるから平気だと思うんだ」
「いや、”思うんだ”じゃなくてよ。しばらく休めば?」
「そうも言ってられないでしょ」
いつも俺を扱き使うくせに妙なところで働き者になるから厄介だ。このまま黙っていると無理にでも働き出しそうなので、俺はアルマの肩を掴んで無理やりに椅子に座らせた。
「今日ぐらい休めって。仕事は俺がやっておくから」
「変に優しいな? どうした。熱でもあるのか?」
人が優しくした傍からこの物言いだ。アルマは本当に俺に熱があることを心配したらしく俺の額に自分の額を押し付けてくる。さっきから何が楽しくてこんなに顔を寄せるのか。別に不愉快ではないがなんだか落ち着かないのでやめて欲しい。
「う~ん。熱はないみたいだけどなぁ」
「心配してくれるのは有難いけどよ、顔が近いぜ?」
「恥ずかしいのか?」
お互い顔の距離が数センチで会話をすると呼吸のタイミングまでよく分かる。遠まわしに離れろと言っているのにアルマはそんなのお構いなしで離れる様子がない。これは他人が見たら異様な光景に見えるだろう。俺から見ても異様だと思うのだから。
「あのなぁ、人にはそれぞれ不干渉領域というものがあってだな。それを越えて踏み入ると不快感を催すんだ」
「じゃあお前は不快なのか?」
「そこまで不快ではないが」
「私も不快じゃないぞ」
「だからそういう問題じゃなくて」
「ニシシッ」
今まで聞いた事のない笑い声を出すアルマは目を細くさせて額を離した。
その時のアルマは背中から照らし込む日の光が神秘的に彼女の輪郭を映し出し、幸せそうな笑顔と相まってとても美しく見えた。一瞬呆気に取られた俺だったがすぐに咳払いとともに視線を逸らす。
今のはきっと幻覚に違いない。この悪魔があんなにも神々しくなるわけがない。なんとなく顔が火照っているような気もするし、やっぱり風邪でも引いているのかもしれないな。今日は早く眠ることにしよう。
「どうした、顔が赤いぞ?」
「赤くねぇよ」
人を笑いものに仕立て上げようという魂胆が丸見えな態度でアルマが俺の顔を指差して言ってくる。なので俺は口元を手で覆いながら俯いて顔を隠した。
「惚れちゃった?」
「何に?」
「”誰に”の間違いだろっ!」
このパターンはいつものものだ。いくら馬鹿な俺でもそう何回も同じ事をされれば学習する。
間髪いれずに突っ込みの代わりに飛び込んでくるローキックを上手く受け流して、俺はアルマにドヤ顔を見せ付ける。しかしアルマはそのまま身体を上手く流して見事な正拳突きを俺の胸部に叩き込んだ。なにもそこまで本気で殴らなくてもいいのでは、と思うほど譲歩の姿勢が見えないそれを見事に受けきり悶絶する俺。誰かに褒めて欲しい、この男気。
「病み上がりの乙女になんてことするんだ」
訳の分からない台詞を吐きながらアルマは自分の肩をまわして浅い呼吸を繰り返す俺を見下ろす。いつの間にか普段からよく見る悪魔的な表情に変わっているあたり、女という生き物の恐ろしさを実感する。そもそも”病み上がりの乙女”って誰のことだ。俺には百戦錬磨無傷の戦士しか居ないように見えるのだが。
そんな阿呆なことを言っているうちにアルマはせっせと仕事用の小道具が詰まったポシェットを腰に巻いて帽子を被っていた。人の話を聴かないのはいつも通りのようだ。どうあっても仕事を休む気はないらしい。あれだけの正拳突きを放てれば大抵の仕事は出来そうなものだが。これは流石の俺でも諦めのため息をつかざるを得ない。
「そうそう。仕事の前に一つお願い聞いてくれる?」
死体置き場で働くのに何をそんなに気にするのか、鏡越しに俺を見ながらアルマは帽子の角度と前髪をいじりながら言った。
「お願い?」
「うん」
「いいぜ、言ってみろよ」
「病院にさ、着替え置いてきちゃったから取ってきてよ。それと薬も貰って来てくれると助かるんだけど・・・」
なにか様子がおかしい。視線を明後日の方向に向けながら気まずそうに口篭るのもさながら、着替えを置き忘れた上に薬も貰ってきていないなんてことがアルマにあるはずがない。さては---。
「お前病院抜け出してきたな!」
「えへっ」
これまた鏡越しにアルマは照れ笑いを浮かべた。
やっぱり退院してくるには早すぎると思ったんだ。しかしアルマよ。そこは照れ笑いを浮かべるところではない。
俺はその図々しさというか逞しさというかに敬意を表して頭を抱えた。病院を抜け出してくる事は退院とは言わないし、薬が出ることを知っておきながら貰ってこないのは意味が分からないし、たまにはしおらしくベッドで横になっていて欲しいし、言いたい事は星の数ほどあるが仕方がないの一言で済ますことにしよう。
「午前中でやってくる」
諦めの念を込めた返答にアルマはなれないウィンクを飛ばして事務所を後にした。一緒に居ると飽きないのは良いが、面倒ごとに巻きもまれるのがたまに傷だ。きっと叱られるんだろうな、と思いながらも俺は病院へ行く身支度を始めた。
第三十回
後書きに書く内容がなくなってまいりました。ご意見ご感想、お待ちしております。
青六。




