No.28 三話 ~5~
街灯のない死体処理場は日が落ちると不気味なまでに薄暗くなり、時計の針が七時を過ぎると三日月の明かりでは目を凝らしても周りのものすら見えないほどに暗くなる。まだ薄ら明るい黄昏色の空を背後にしたカラスの群れが事務所の屋根からこちらを見下ろしていた。これはこれでぞっとするような光景だ。
俺は逃げるように明かりのついていない真っ暗な事務所の扉を押し開けた。いつもより扉が重たく感じる。何度も何度も繰り返し見てきた事務所の中は暗く静まり返り、蛇口から滴る水滴の音が一定のリズムを奏でている。いつもアルマが居た空間には誰もおらず、ここに来るのが初めてではないのかと思えるほど空気が凍り付いていた。
「ただいま」
返事の返ってこない挨拶を虚空の闇と交わして電気もつけずに俺はシャワー室に彷徨いこんだ。身体がとにかく重たくてだるい。早いところ眠りにつきたかったが、こんな季節にも関わらず意味も無く噴出してくる汗で気分が悪い。
月明かりも差し込まない本当の闇にもかかわらず何故か周りが面白いように見える。俺はシャワーのスイッチを点け、水道の栓を開き頭からかぶさってくる水に頭を埋めた。シャワーから飛び出す水が冷たいのか暖かいのか分からない。俺は体の異変に気がついて自分の体を見た。
大きな手のひらと腕に刻まれた刺青。これは『イド・リヴァー』の物。細い髪の毛と整った鼻の形、薄い唇。これは『マーセル・ロイド』の物。シャワーの水が伝う体の中枢、背骨。これは『デリンジャー』の物。
では俺は何処にいる。俺の身体は何処にある。存在の根源を揺るがす不安に俺は備え付けの鏡に手のひらを押し付けて自分自身の姿を見つめた。
何も変わりのない、いつも通りの自分の姿がそこに映る。しかし見つめているうち、闇にぼんやりと映し出される輪郭が次第に背景へと解けていった。自分の額に手を触れると腕が頭に溶け込み、身体が液体のように揺らめき立つ。
一体目の前で何が起こっているのか理解できない。これが現実世界なのかどうかも分からず俺は鏡の向こうで俺を嘲るように微笑む影を見つめた。
『もう時間が無いぞ?』
鏡の向こうで俺が言う。
「時間?」
『夢はいつか覚め、決して逃れられぬ忘却の底に沈む。急げよ、クレイマン?』
最後に影から浮かび上がった見覚えの無い顔が微笑み、こちらに向かって手を伸ばしてきた。鏡の向こうから伸びた黒い影の手は本来超えてはならない現実と鏡の境を越えて俺の眉間に触れる。しっかりとした感触があった。これはただの幻覚なんかじゃない。途端に鼓動が跳ね上がった。
浅く繰り返す呼吸の音が心臓の音と重なり、金縛りにあった身体がようやく動くようになって俺は慌ててシャワー室の電気をつける。一瞬にして劈く電球の光が体中に降り注ぎ、再び覗き込んだ鏡の向こうにはいつもと何も変わらない俺の姿があった。ただ血の気が引いて病人のようになった顔つき以外は。
「何だ今のは?」
俺は熱すぎるほどのシャワーを止め、気だるい体を壁にもたれ寄せた。タイル独特のひんやりとした冷たさが体の中にまで染み込んでくる。徐々に冷静さを取り戻してきた俺は目にかかる前髪をかき上げた。
何が起きたのかさっぱり分からない。地下の研究室にいた魔物か、ここに住み着く死者の霊か、それとも単純に体調不良からくる疲れか。原因はたくさん考えられたが、さっきの化け物の言葉が気にかかって仕方が無かった。一体何が夢から覚めるのか、何を急ぐのか。
駄目だ。考えれば考えるほど頭が痛くなってくる。考えるのは明日でも遅くないだろう。
俺は生乾きのタオルで身体を拭いて一階のソファーに横たわった。帰ってきたときよりもさらに身体の疲れが顕著に現れてとても屋根裏に上がる気になれなかった。普段ならここで横になるとアルマが叱りつけるのだが今日はそのアルマは居ない。今日だけ甘えさせてもらうことにしよう。
バネが壊れたソファーの上で俺は腕で目元を隠して体の力を抜く。睡魔に襲われ意識が消えゆくのはすぐだった。
第二十八回
ようやく物語は収束へ向かっていきます。話を書いていると広がるけど、広げた分またまとめなくてはならなくて辛いです。うまくまとまっていればいいのですが、どうなるのかお楽しみに。
青六。




