読書感想文 ―東京大学物語とメタフィクション―
ただのネタバレ、自分用の感想文なので未読の方とかいたら読まないほうが良いかもです。はい。
一気読みした。長かった。情報量も多かった。
全体を通して生きることに纏わる自己と社会との深遠なテーマが繰り返し提示されており、村上が何度も挫折や現実と直面させられる中で力強く描き出されており非常に読み応えが合った。
吉野が水野から手を引いた辺りが描写不足にも感じたが、そのような点を一つずつ論っていても仕方ないので割愛。
村上の妄想や思考を非常に長く描写する、同時に分裂した自己の提示、複数の人間の視点から物語を多角的に描き出すなどマンガとしての表現の技巧として高度なものをいくつも感じたが、特に終盤での谷口との心理戦における視覚化された感情の動きや、最終巻の胎内描写が延々と続きながら、文字だけで物語の展開を描いていくところなどはマンガという形式への挑戦を感じた。
最大の問題となりそうなのはラスト。全てが大妄想、それすら妄想、妄想……と夢オチのような下らない終わり方をするのか!と思ってしまったが、物語の性質が性質だけにそう簡単な話でもないなと言う事に気付いた。この作品のテーマ自体が「妄想と社会」そのものなのだから、この作品はあのラストを提示することで作品全体の構造として一つの「在り方」をはっきりと示すと言うような性質を持っていると思う。
妄想オチの一番の問題は「じゃあ今までの物語は何だったんだ!」と言うことになるだろうし、私自身も最初はそのように感じてしまったが、実はそうはならない。それを言ってしまうのならば我々は本を開いて物語と相対しているその瞬間に既に物語に対して一つメタな、身体経験としてそれが「作者の妄想」に過ぎないことを知覚しているはずなのだ。それには目をつむり続けていたにも拘わらず、長く読んできた物語が登場人物の妄想であったと言う事実に対して不満を覚えると言うのは、少し不思議な感覚だ。
そして作者は最後に次々と物語を入れ子構造の中に放り込んでしまい、そして「ENDLESS DREAM」と締めくくる。まるでドミノ倒しのように、終わりのないたらいまわしの構造の中に物語を投げ込んだと言うのは、結末をつけられなかった作者が風呂敷を畳むために繰り出した荒業だとは思えない。そこには全体のテーマと接続し、そしてそれによって全体を作品として仕上げてしまう意図を感じた。長大な物語を「妄想」として扱う行為は一度行うだけならばある種の道具であり手段であったかもしれないが、それを連続的に提示することでむしろひとつひとつの「妄想化」と言う行為は相対化され、むしろ「妄想化」と言う行為自体の意味が問題となってくるはずだ。そしてそれを意識した時に、この作品においては繰り返し繰り返し村上の妄想が何ページにも渡って展開され、しばしば自分がその「妄想」と「本当の物語の展開」との間で混乱をきたし、そして「ああ、余白の色が変わったら妄想なんだね」と言うように妄想との区別に「解決」を持っていたことを思い返さずにはいられない。私達が区別していた「妄想」と「現実」の間には、実際には大きな違いはなかった。「裏切られた」と言う気持ちを畳み掛けるように経験させる最終話において、我々はそのようなことに気付かなければならなかったのではないだろうか。
作中で山崎が展開した映画の撮影、それもまた一つのギミックだったと思い返す。数巻にわたって展開された物語が実際は全て山崎によって仕組まれた「シナリオ」だったと言うことが明かされる。その瞬間に我々は、それまでの数巻の内容を「再解釈」することが余儀なくされる。そしてその再解釈を経て、我々がようやく「シナリオの外」へと脱却したのだと思わせられた矢先、唐突に「映画のラストシーン」としてそれが描写される。その瞬間に読者は混乱せずにはいられなかったはずだ。どこからどこまでが本当に”括弧で区切られた”部分だったのか。どこからどこまではそうではないものなのか。村上や水野すらも実は役者だったのか?
マンガと言う虚構の中で映画と言う虚構の形式それ自体に焦点を当て、虚構と現実との境界線について意識的にさせるという意味で、山崎の製作した映画の件は優秀なメタフィクションであったと思うし、思い返せばその構造自体が全体のテーマと密接に関わっていたのだ。小さくない、ある程度以上の規模を持った物語を大きく括弧で括り、虚構として取り扱ってしまうというエンディングの形式自体は、既にこの時点で提示されていたのであると言える。
現実と言う物は存在しない。存在するのは妄想だけ。人は世界から沢山の情報を受け取り、そして妄想を構築してその中で生きている。絶対的な尺度と思われるものも暫定的に取り決めた妄想の一つの基準であって、だからこそそれは更新され行く性質を持つ。
社会や自己と言うものは、全て暫定的で妄想的な産物に過ぎない。そのテーマは思想として、文章として何度か作中でも提示されていた。並列するいくつもの思想、哲学、美意識の相容れない様子、それは村上と水野の二人の対比が非常に強く印象付けるものであった。他にも様々な人物が登場し、己の信条や価値観を語り、そして対立して読者に考えることを迫った。それらの全てを相対化し、そして読者自身が、自分の見ている世界がいかに曖昧で恣意的なものなのであるかを相対化するということの手助けとして、自分が「その他の虚構(村上の妄想等)」と明確に区別し、そちらは確固としたものだと信じていたはずの「物語の真の筋」でさえも虚構の産物であるのだと言うことを叩きつける。最終話からはそのような意図を感じた。
我々は一瞬「全部妄想だった」と言う事実からすぐに「だから無価値だ」という感覚を受け取ると思う。「じゃあ今までのは何だったんだ」と。だが良く考えれば、それが見当違いの感覚だと言うことにも気付けるはずだ。長い物語の中で村上やその他の色々な人物が思い悩み、現実と直面して考えたこと、提示された様々な思想……それらから我々が読み取り、受け取った物が全て無価値になるわけではない。それが無価値になるとすれば、この世に存在する全ての小説やマンガ、映画、創作物から我々が受け取り、学び、感じた物が無価値だと断ずる必要が出て来る。物語は本来的に虚構なのだ。我々はそれを許容し、享受しているはずではなかったか。物語が一次的な虚構であろうと、二次的、三次的、何次的な虚構であろうとそれは物語の質を無価値へと貶めることにはならない。最後の数ページが描かれるか、描かれないか……それだけの違いがそれまでの三十巻以上、十年にも渡る連載で描き出されてきたものの価値がまるっきり無効化してしまうなんてことは、とてもじゃないが現実的ではない。
この結末と我々が相対するとき、求められることは二つだ。それはまず「妄想を妄想だと認めること」、そして「妄想に価値を認めること」である。
この二つは物語に対してだけ適応されることではない。我々がその態度を求められるのはまさに、自分自身の人生についてもなのだ。
作中でも提示されていたように、自己の見ている世界は自己の都合の良いように構築され、都合のいい尺度で解釈された虚構の集合体に過ぎない。その外側にある物は知らないし、知る必要もないのだと無意識に決めてかかってしまっている。しかしまずそれが「絶対的な現実」などではない「妄想の産物」であることを受容することが必要なのだ。この物語全体が「妄想にしか過ぎなかった」と認めるのと同じように。
そしてその上で、「妄想でしかなかったと明かされても尚、その中に描かれていた思想やそこから考えさせられ、学んだことは価値があった」と肯定するのと同じ態度で、自分の妄想で構築した世界を肯定し、そしてそれがあるとき無効化されてしまっても、それを再解釈、再構築することで意味ある物として肯定していくことが出来る柔軟で生産的な姿勢、それが生きる上でも必要なのだと言うことをこの作品は考えさせてくれるのではないかと思う。
直接的なメッセージ、物語に没入することで主人公自身と自分を重ねて感情を揺さぶられたり、仮想の世界で人生の追体験を行うことを通して読者に何かを与える作品と言うのも良いとは思うが、この作品のように全体を通して読者自身に、作品を媒介として考えさせる構造を持った作品は非常に面白く、読み応えがある。