探偵と西園寺家
都内のビル街の狭い路地を抜けると、おんぼろビルの入り口に小さく看板が掲げられていた。
『霧原研究所』
それは確かに、友人に薦められた探偵社の名前だった。
古びたビル内に入り、オフィスとされている二階に足を踏み入れた。そこで、驚く。フロア全体、物、物、物、物! 机や椅子はともかくとして、電化製品もまあ分かる。問題は八割方を占めるガラクタだ。けれど、『研究所』と謳っている割に薬品は見当たらない。
「ごめんくださーい」
声を掛けると、ガタガタッと物音がして、ガラクタの山から一人の男が姿を現した。ひょろっとした長身痩躯。四角い銀縁眼鏡。
男はしっかりとした足取りで私の許へ歩み寄ると、「何のご用でしょう」
凛とした低いバリトン。少々どぎまぎしながらも、「依頼をしにきました」
「依頼」
男は復唱し、すぐに「今、所長は留守にしております」
「……あなたが所長じゃないんですか?」
「はい。私は所長の第一助手です」
あ、助手なのか。秘書かと思った。どうやら、私の観察眼は鈍いようね。
「所長さんはいつ頃お帰りになりますか?」
「今、アメリカに出張なさっているので、二、三日は帰りません」
「アメリカですか!?」
「はい」
「どうして」
「大学の講義と研究発表会です」
「そうですか……」
「では、お引き取りください」
サラッと言い出すものだから、焦って、「えっ、ちょっと待ってください!」
私は男に縋り付く。
「所長さんじゃなくてもいいです! 例えば貴方でも! お願いです、助けてください!」
幾らかの沈黙があり、男が答えた。
「分かりました。では、話を聞きますので、こちらへ腰掛けてください」
男が手で示した場所には、あまり物の置かれていない――あくまで室内にある他の物と比べて――ソファがあった。
私が座ったのを確認すると、男は部屋の奥に消えていった。彼と入れ違うように、小さな女の子――小学生くらいに見える――が部屋に入ってきた。タタタッとリズミカルに走り寄ってきて、「こんにちは!」と無邪気な笑顔を向けてくる。
「こんにちは……」
「理乃ね、理乃っていうの!」
おかしな日本語から始まり、「理乃ね、たっ君のお手伝いをしてるの! さっき、くー君がお客様にお茶をお出ししなさいって理乃に言ったの! 理乃ね、お紅茶淹れるの上手なの! 理乃、偉いでしょ~」
全くもって意味が分からない。そもそも、たっ君とくー君って誰?
えへへ~、と笑いながら、ぴょこぴょこと跳ねるように移動して、明らかに慣れていない手つきで紅茶を入れる。そして、行きと同じように跳ねるように戻ってきて、ティーサーブをビショビショに濡らした紅茶を私に差し出した。
「どうぞっ!」
「あ、ありがとう……」
口を付けないのは失礼と思い、一口含む。
……不味い。渋みが強い。ちゃんとお湯は沸騰させたのかしら。紅茶自体も冷めかけている。こんなのを客人に出すだなんて、失礼よ。
理乃を見ると、頭の上に蝶々が飛んでいる。意を決し、紅茶――のティーバックを使っただけの偽物よ!――を飲み干した。
「美味しかった?」
にこにこと笑って理乃が尋ねる。
美味しいわけないでしょ!
なんて言えないから、「……ええ、美味しかったわ」
「うふふっ、ありがとう!」
理乃は子供らしい笑顔を見せていたが、一寸だけ、幼くない冷めた顔をした。
「嘘。だって理乃、美味しくないようにお紅茶淹れたもの」
そしてまた、にこにこと屈託のない笑顔に戻る。
……何なの、この子。気色の悪い。
その時、さっきの男が戻ってきた。何故か紙――資料だろうか――を持っている。
「お待たせしました」
私の向かいのソファに座り、理乃は彼の隣に座った。男がこちらを真っ直ぐ見、淡々と話し出す。
「私は木高と申します。霧原所長の第一助手です。こちらが理乃。私の妹で、事務所の雑用係ですが、今回は私の助手として働いてもらいます」
兄妹なのか。木高は二十代半ばに見えるから、まさかそうだとは思わなかった。
「今回は、どのようなご依頼で」
「……どうして依頼しに来たと分かったんですか?」
依頼に来たとは一度も言っていない筈だ。
「貴方の行動を所長に伝えたところ、所長がそうおっしゃいました」
「……そう」
話だけ聞いて分かったの……。まるでシャーロック・ホームズね。
「理乃も依頼だって分かったよ! 凄いでしょ~!」
貴方は黙りなさい! ……ああ、行けない、いけない。気持ちを落ち着けるのよ、恭子!
「私は、西園寺恭子。知っているでしょう? 西園寺ジュエリー。私、そこの娘なんです」
よかった、何とか平生の口調を保てた。
木高は特に反応を示さなかったが、理乃は「お姉ちゃん、宝石持ってるのー? すごーい!」と目を輝かせる。隣の兄の袖を引っ張り、「宝石だって! くー君聞いた? 凄いねぇ!」
こう妹に言われたら少しは褒めるだろうかと思ったが、木高は妹をスルーする。
嫌な兄ね!
「西園寺様は」
「西園寺? 様? やめてくださいよ! 『恭子さん』でいいです」
「では恭子さん、ご依頼は」
私はニヤニヤと躊躇い、一息吐いて真面目な顔をしてから答えた「私も守ってほしいんです」
「何から」
木高は間髪入れずに尋ねてくる。
「……人から、です。私、命を狙われてるんです!」
「誰から」
木高に驚いた様子はない。
私の言い方が悪かったかしら。もっと驚かなきゃいけないところよ?
「分かりません。ただ、命を狙われているのは確かです」
「例えば」
やけに矢継ぎ早ね……。
不満に思いながらも、質問に答えていく。
「半月前、歩道を歩いていたら車道から外れた暴走バイクに撥ねられそうになったんです。それだけじゃありません。先週、毒を飲まされそうになりました。自分の飲んでいる牛乳を気紛れで飼い猫に与えたら、その猫は心臓発作で死んだんです。昨日には、家でボウガンに襲われました」
「警察に相談は」
「しようとしました」
早口になってしまうのをなんとか抑えて、ゆっくりめに言う。
「先週の殺猫事件でさすがに身の危険を感じたので。まずは家族に相談したんですが、父にたまたまだと一笑されて、『そんな事で警察に駆け込むなど恥だ』と婉曲に釘を刺されました。兄と菊池さん――私の家に居候している人です――が味方してくれましたが、結局父に屈服してしまいました」
「だから、ここへ」
「そうです。友達に相談したら、腕利きの探偵がいるとここを紹介されて」
「ここは探偵事務所ではありません」
「知っています。けれど、所長さんは幾つか殺人事件の捜査に携わり、それを解決したと聞きました」
「…………」
「探偵業が本職でない事は承知の上です。けど、私にはここしか頼るところがないんです! お願いです、お金なら幾らでも出します。自分の命に比べたら、お金なんて比にもなりません。どうか――どうか、私を助けてください!」
まくしたてる私を、木高は何の感情も見えない瞳で、理乃は不思議そうな瞳で見ていた。
しばらくの無音。徐々に不安に支配され、断られる覚悟を決めた時、木高が口を開いた。
「では、我々はどうすれば」
「それは……引き受けてくださるという事ですか?」
「はい」
「あっありがとうございます!」
頭を下げると、上から言葉が降ってくる。
「ただ、所長は留守ですので、私と理乃がご依頼に携わる事になりますが、宜しいですか?」
「ええ、勿論」
藁にも縋る思いとは、今の私の心情を言うのでしょうね。
所長ではなく、その助手というのは幾らか不安ではあるけれど、話に聞くところ、事件の際、探偵は長身で眼鏡の掛けた助手を必ず連れていたという。その助手とは、目の前にいる木高に違いない。
「それで、あたし達は何をするの?」
弾むような声の問い掛けに顔を上げる。今にも鼻歌を歌いそうな理乃に、ほんの少し、頭上の晴天に陰りが差した。
……気のせいよ、きっと、気のせい。
「そうね……私を殺人者から守り、かつ、その犯人を捕まえてください」
「分かりました」
「急ですが、今日から来ていただけないでしょうか。泊り込みで私を守ってください」
「分かりました」
「やったね! くー君! お泊まりだよ!」
キャッキャッとはしゃぐ理乃に、木高は何も反応を示さない。
さすがに冷たすぎるんじゃない?
「では、行きましょうか」
木高が何かを促す。
「何所にですか?」
尋ねると、やはり何も感情の浮かんでいない顔で答えた。
「貴方のお宅へ」
結局、その後すぐ、私は木高と理乃を引き連れて帰宅した。
急な出発――といっても、木高が言い出した事だけど――の為か、木高は小さめのボストンバッグ、理乃も小型のリュックサックしか荷物を持ってこなかった。
家に着くと、理乃が「家おっきいね!」と歓声を上げた。
「そうでしょ?」
豪邸とまではいかないけれど、三階まであるし、敷地面積も広い。自慢の家よ。
「ただいま」
返事はない。しかし、父達の靴は置いてある。
木高達を連れて、父の書斎に向かう。扉をノックすると、返事があった。部屋に入ると、父が回転椅子に座りながら振り向いた。
「おお、恭子、帰ってきたのか。――おや、そちらは?」
「こちらは木高さん。大学のゼミの先輩。で、こっちの理乃ちゃん。木高さんの妹さんよ」
そういった設定は、移動する最中に木高から言われていた。
「そうか、そうか。いらっしゃい」
父の言葉に、木高はぺこりと会釈し、理乃は高らかに「宜しくお願いしまーす!」と頭を下げた。
「木高さんにはレポートまとめを手伝ってもらうの。それで今日からレポートが完成するまで家に泊まっていくんだけど、いいかな?」
「ああ、構わないよ。しかし、木高君はいいのかね? 娘の我が儘に付き合わされたと思うのだが」
「私の両親は早逝しているので、妹さえ一緒にいても宜しいのならば、特に支障はありません」
「そうかい、ご両親が……大変だろうが、頑張るんだよ」
「はい、ありがとうございます」
ここまでの間、木高は一笑もしなかったが、父はそう気にしていないようだった。
「だから、結奈さんに料理を増やすように言っといて」
「ああ……伝えとくよ」
「じゃあ、部屋に戻るね。――二人とも、行きましょう」
書斎を出ると、「きょーちゃん」と理乃が声を掛けてきた。
「なあに?」
「ゆーなって誰ぇ?」
鋭いところを突くわね、この子。
「結奈さんは、父の再婚相手よ。私の義母」
でも、私はあの人を母さんだなんて思わない。母さんは、亡くなった実の母さんだけよ。
「きょーちゃん、その人、嫌い?」
「勿論。大嫌いよ。父さんがあの人を溺愛してるから気に食わない。兄さんもへこへこ頭を下げるし」
「じゃあ、その人かもしれないね」
「何が?」
理乃は舌足らずな言葉を紡いだ。
「犯人」
思わずぎくりとした。
私は犯人として結奈を疑っている。だって、一番動機があるのがあの人だもの。
「どうでしょう。一概に結奈さんが犯人だなんて言えないわ」
嘘。……嘘よ。あの人がきっと犯人。けど、簡単にそう当てられたくない。
散々考えあぐねいたのよ。あんたなんかにパッと指摘されるなんて、ありえない。
でも、私は結奈さんが犯人だと……
「それより、部屋を案内しないとね。兄妹だから相部屋で宜しいかしら?」
木高は頷く。
「本当は私の部屋に寝泊まりしてくれたらいいんですけど、それはきっと兄が許さないと思うんです。過保護なんですよ、兄は。父よりもずっと。――なので、向かいにある客室に」
「家人の自室の向かいに客室があるのですか?」
ずっと無口だと思っていた木高が口を挿んだ。
「ええ。うちでは年末年始に親戚一同を集めたパーティを開くんです。結構な人数がいらっしゃるから、客間を増やす為に私達の部屋のすぐ隣から入れてるんです」
「では、何故向かいなのでしょうか。隣室の方が私達も依頼を全う出来るでしょう」
「ああ、それは隣室が埋まってるからですよ。兄の友人の菊池さんが使ってるんです」
そこで納得したらしく、一度頷いて何も言わなくなった。
口少ない代わりに、知りたい事だけズバリと聞く。この男、なかなか出来るかもしれない。
自室の近くまで来ると、話に出た菊池が私の部屋の前に立っていた。
「菊池さん?」
声を掛けると、びくりと身体を一回震わせ、こちらを向いて、「や、恭子さん」といかにも作った笑みを浮かべる。
「何かご用でしたか?」
「いや、大した事では……あの、そちらは」
目は木高を捉えていた。
「こちらは木高さん。私のゼミの先輩なんです。で、こちらの女の子は妹の理乃ちゃん」
「ふぅん。何しに来たの、君」
菊池の目は依然と木高を映しているようだ。木高が答えようとしないので、代わって、「木高さんにはレポートの手伝いをしてもらおうと思ってるんです。長くなりそうなので、泊まってもらって」
「へえ、レポートねぇ。僕じゃ駄目なの? 恵一でも?」
「兄さんや菊池さんとは学部が違うじゃないですか」
「確かに。お父さんは許してくれたの?」
あんたが『お父さん』なんて呼ぶんじゃないわよ。
「今、許可を取ってきたところです」
「そう。じゃあ、僕は失礼するよ」
そう言い残し、菊池は与えられた部屋に引っ込んだ。最後まで、彼は敵意の籠った眼を木高に注いでいた。
その姿を見送ると、理乃が私の服の袖を引っ張った。
「ねえ、あの眼鏡がきくちゃん?」
「きくちゃん? ……ええ、そうよ。あの人が菊池さん」
「あの人、きょーちゃんが好きなの?」
爆弾発言をサラッと口にされて、私は慌てて二人を自室に押し込んだ。扉を閉めて、周りが無音なのを確認して、「そうよ」と肯定した。
菊池の分厚いレンズの奥から覗く下心に、気付いていない筈がなかった。
菊池が家へ来たのは、半年前。住んでいたアパートが不審火で全焼し、それに同情した兄がこの家に住まないかと誘った。……と菊池が話すが、無理矢理住み込んだに等しい。兄の友人と名乗っているけれど、兄との様子を見るに、そうではないと思う。大方、兄は弱みでも握られているのでしょうね。
住み始めて一週間も経たずの内に、菊池の艶めかしい視線に気が付いた。否、この言い方は適切じゃない。初めから感じていた。ただ、確信が持てなかっただけで。
私はあの男が苦手だ。あからさまな――本人は隠しているつもりでしょうけど――好意を向けられている事だけじゃない。生理的に無理。そう言ったら「理論上は可能」だなんて言い返してきそうなところが。
「じゃあ、あの人は犯人じゃないね!」
「どうして?」
「だって、きょーちゃんの事好きだったら、殺そうとしないもん!」
さすがの理乃も子供だったようね。好き=殺す動機がない、だなんて、なんて浅はか。ましてや、あのねちっこい眼鏡男よ? ストーカーの常習犯みたいな奴に好意だけの『好き』だなんてありえないわ。
「そうねぇ、あの人はまだ安心かもねぇ」
本心と反対の事を言うと、理乃は「だよね~、理乃頭良いもん!」と得意げだ。
対して、兄の方は冷静で、「改めて、殺されかけた状況を伺っても宜しいですか?」
「ええ。……あ、でも、レポートを進めないと」
「そちらは大丈夫です」
木高がボストンバッグからレポート用紙を取り出す。
「レポートはもう完成しています」
「でも、完成したものだけじゃ」
「経過途中のデータはパソコンに保存してあります」
「…………」
手回しが早い事で。
「じゃあ、話しましょうか――」
私は目を閉じて、記憶を遡る準備をする。
「まずは暴走バイクに惹かれそうになった件。運転手の顔を覚えていますか」
「いえ。ヘルメットを被っていたので、性別も分かりませんでした。けど、咄嗟にナンバーは憶えたんです」
「それを調べましたか」
「ええ、警察に頼んで。盗難車でした」
出来過ぎた偶然、とはさすがに思わない。暴走運転をする輩なのだから、盗難をするというのは不思議じゃない。
「では、次。普段、貴方が飲んでいる牛乳に毒が混入されていた。この牛乳を、貴方は欠かさず飲んでいるのですか」
「はい。今は気味が悪くて飲めませんが」
「飲んでいるのは貴方だけですか」
「はい。亡くなった母が『健康の為に飲みなさい』って口酸っぱく言っていたもので、私はずっと飲み続けていました。兄と菊池さんは牛乳が苦手ですし、父は」
結奈の顔が浮かんだ。
「父は……亡くなった母の習慣だからと、飲んでいません」
牛乳の習慣だけじゃない。毎日の食事、掃除の仕方、細かなところでは、父のファッションやカーストレオ……。何もかもが、あの女に合わさっていく。母の名残が、塗り潰されていく。
どうしてそんな非情な事が出来るの? 貴方の奥様だったのよ?
無意識に噛んでいた唇が痛んで、ハッと我に返った。
「……すみません。あと、結奈さんも飲んでいません。あの人も嫌いだそうです」
「牛乳はどういうものですか」
「……と言いますと」
「途中で毒が混入出来るようなものですか」
「いいえ。近所のスーパーで買ったもので、その朝に初めて空けたので、それは無理だと思います。紙パックなので、空けたのならすぐに分かります」
「猫に牛乳を与えるのはいつもの事ですか」
「いえ。その日の気紛れです。たまたまその日、ミケ――猫の名前です――が、足元に摺り寄ってきたんです。滅多にない事ですから、嬉しくて、いつもは水をやってるんですけど、牛乳をあげたんです。そしたら、ミケの身体がびくりと震えたかと思うと、痙攣して、そして、動かなくなりました」
今思い出してもゾッとしてしまう。変死に立ち会ったからだけじゃない。ミケに気紛れに牛乳をやらなければ、自分が飲んでいた。ミケと同じように、まだまだある生命をぶつりと切られて、哀れな亡骸となっていた……。
「その事を誰かに話しましたか」
「……当たり前です。気が狂いそうなのをなんとか抑えて、助けを求めました。けど」
その時の様子はありありと思い出せる。必死に訴える私を見る、父の冷めた瞳。
この眼は、娘を見る眼なの? 私は、貴方の娘ではないの?
そんな心配が徐々に侵食し、悔しいけれど、私は冷静になった。
「……父はまともに取り合ってくれませんでした。兄と菊池さんは」
喚くのを止めた私の肩を抱き、滅多に反抗しない兄が父に掛け合ってくれた。
「どうして恭子の言う事を信じてやれない? それでも父親か!」
次いで、菊池が「お父さん、恭子さんの話をもっと真剣に聞いてあげてください」と嘆願した。
しかし、「菊池君、これは西園寺家の問題だ」と菊池は一蹴された。兄も、父の口から溢れ出すロジックに言いくるめられ、結局は退いてしまった。
「私を信じてくれていたかどうかは、分かりません。結局、二人とも折れてしまったので」
「他には」
「他は……」
結奈の姿だけ、思い出せなかった。特に何も言われなかったから、印象に残らなかったのでしょうね。
「結奈さんもいました。それ以外は憶えていません」
「この件の登場人物は、貴方を含めて、我々を含まず、五人ですか」
暴走バイクの運転者は除外したのだろう。「はい」と肯定した。
「最後、ボウガンで狙われた一件。場所は」
「この家の庭です」
「ボウガンは」
「父のです」
木高の質問に先回りする。じわじわと尋ねられるより、自分で一気に話してしまった方が楽に感じられたから。
「間違いなく、あれは父のです。小さい頃、兄とこっそりボウガンで遊んだんです。その時に、自分のだと分かるように、サインペンで小さくボウガンに『K・S』と記しました。兄の名前は恵一なので、結局区別はつかなかったんですけどね。そのイニシャルが、ボウガンにありました。けど、父が犯人だとは断言出来ません。ボウガンは庭にある倉庫に入っているので、鍵があれば誰でも入れました。それにボウガンは女子供でも打てますから」
この説明で充分だったらしく、木高の質問は「それは誰かに相談しましたか」と別のものになっていた。
「相談出来ませんでした」
怖かった。父にあの眼を向けられるのが。兄や菊池への信頼は、あの日には地に落ちていた。
「だから、霧原さんに相談しようと思ったんです。もう、家族は誰も頼れません」
霧原自体は留守だったけどね。
ここで、ノックの音がした。
「はい」と返事をすると、「恭子さん、食事の準備が出来たわよ」結奈の声だった。
「すぐ行くわ」
答えると、返事もなく、結奈は去った。
この礼儀知らず。
「――まず、夕食を食べに行きましょう」
「わあい! 夕ご飯だあ!」
キャッキャッとはしゃぐ理乃とやはり無口の木高を連れ、ダイニングへと向かう。その際、木高が「食事の準備は全て結奈さんがしているのですか」と訊いてきた。
「ええ。朝、昼、夕、全てあの人が」
答えると、木高でなく理乃が言った。
「じゃあ、ご飯に毒が入ってたら、その人が犯人だね!」
結奈が、犯人。ありえそうな――というか、私はあの人が犯人だと思っている――話に、ぞくりとする。そして、ハッと思い至る。
「今夜の食事に……まさか……」
「食事に毒は入りません」
木高が即座に否定した。
「どうして」
「貴方は偶然に見せかけて襲われている。三件目は微妙なところですが。毒に当たったのが貴方一人というのは、不審です。他殺の線はすぐに出ます」
……確かに、そうかもしれない。
「でも、万が一」
「じゃあ、理乃が食べてあげる!」
「理乃ちゃんが?」
そうだ、理乃がねだって私の料理を一口食べる。それは毒味になる。
「そうね……じゃあ、お願いしようかしら」
「やったあ!」
丁度話に切りが付いたところで、ダイニングに着いた。すると、そこには待ち構えるように立つ兄がいた。テーブル席には菊池の姿もある。
「……恭子、その人達」
兄の言葉を遮り、「紹介するわ。こちらはゼミの先輩の」
「それは知っている」
遮りを返された。
「お前は、この人達とどういう関係なんだ?」
兄の目は木高を捉えている。菊池と違い、明らかな敵意を剥き出しにしている。
「どういうって……ゼミの先輩よ」
「こんな奴がいるとは、俺は聞いてないぞ」
「だって、いちいち報告する必要はないじゃない」
「それもそうだが……」
「お前達、何をやっているんだ?」
話に割り入るように父が入室し、「どうした? 座らないのか?」
兄は木高をキッと睨みつけてから、大人しく席に着いた。
食事が始まると、理乃が「きょーちゃんの美味しそう! 食べていい?」と尋ね、私の料理を一口ずつ食べていった。何もなかった。
木高を見ると、黙々と食事をしている。ほら、見ろ、と笑われているようだった。
「木高君は何を専攻しているのかい?」
事前に打ち合わせをしているので、木高は次々と飛んでくる父の質問に澱みなく答える。
しばらくして、父は「木高君、酒は平気か?」
「はい」
「よかったら一緒に飲まないか? 泊まっていくのなら、多少時間を取っても構わないだろう。なあ、恭子」
「え、ええ……」
この言葉、父は木高を気に入ったようだった。
「お言葉に甘えて」
木高が短く答える向かいで、兄が浮かない表情をしていた。
部屋に帰る時、兄に呼び止められた。
「正直に話してくれ。あの木高という男は、本当に先輩という関係だけなのか?」
「何言ってるのよ。そうに決まってるじゃない」
すると、「嘘だろ」と指摘された。
「……どうして」
動揺を隠して尋ねると、「お前のその癖だ」と髪を指差す。
「お前は嘘を吐く時、髪をいじり出すんだ」
毛先をクルクルと巻いていた指の動きが止まる。
確かな証拠を突きつけられ、首筋に冷や汗が出るのが分かった。
どうしよう……。
そこに、理乃が突然現れた。
「きょーちゃん、おトイレ何所ぉ?」
「あっ、案内するわ。――兄さん、その話は、また後で」
「ちょっ、待て! 恭子!」
怒鳴る兄を無視して理乃をお手洗いに案内すると、着いた時、理乃はペロッと舌を出した。
その機転に、私は舌を巻いたのだった。
木高の部屋に行くと、彼は部屋の真ん中で目を閉じ、座っていた。
「木高さん」
声を掛けると、木高はパチッと目を開ける。
「何してるんですか?」
「充電です」
……そんなに疲れたのかしら。もしくは、仮眠?
「木高さん、大変です。兄が木高さん達の事を疑っています」
木高は顔色一つ変えない。
「さっき、木高さんとの関係が嘘ではないかと指摘されました。気付かれたかもしれません」
なお、木高は黙っている。勿論、表情は変わらない。
「聞いてるんですか!? 貴方が、私が雇った探偵だとばれたかもしれないんですよ!」
「では」
開いた口から零れる言葉はやはり冷静で。
「確かめに行きましょう」
「と、言いますと」
「直接、恵一さんに」
直球勝負って事!?
「それは危険じゃないんですか?」
「大丈夫だよ~!」
明るく言ったのは理乃だ。
「くー君って頭いいから! 任せていいよ!」
「けど、私も付いていかないと」
「でも、けー君ってきょーちゃんが嘘吐いてるの分かっちゃうんでしょ?」
けー君は兄の事だろう。それもそうね……木高が上手く誤魔化しても、私の癖でばれたら元も子もない。
「じゃあ、お願いして宜しいでしょうか、木高さん」
「はい」
清々しいほど、木高が表情を変える事はなかった。
それから私の部屋に場所を移して、就寝まで、私達は世間話をして過ごした。
入浴とお手洗いに行く時は理乃が付いてきたので、一人になる事はなかった。
木高は父と会う約束をしていたが、私のレポートを手伝った後に時間を設定したらしい。
午後十時。
話題も尽きてきて、まず理乃が欠伸をした。
「理乃、眠くなってきたぁ……」
ギュッと私の腕に引っ付き、「きょーちゃんと一緒に寝たーい」
ずっと隣で話していたものだから、理乃が可愛い妹に見えてきて、「そうね、お姉ちゃんと一緒に寝ようか」
チラリと木高を見るが、やはり何も言わない。
許可されたって事でいいわよね?
寝間着に着替えればもう準備万端だったので、木高を追い出し、着替えてから理乃と一緒にベッドに入った。
不安で眠れなかった私に、久し振りに、安眠が訪れた。
***
木高が恭子の父親――京一を訪ねる中途で、恵一に出くわした。
「おい、お前」
木高が恵一をスルーしようとするので、恵一は彼の肩を掴んだ。
「木高って言ったか?」
「はい」
「お前、恭子とどういう関係なんだ?」
「ゼミの先輩後輩ですが」
「嘘は吐いていないだろうな?」
「はい」
あまりに木高が淡々と答えるので、恵一の質問の速度が下がる。
「……今、恭子はどうしてる」
「妹と一緒に寝ています」
「お前は何所で寝るんだ?」
「向かいの客室です」
「……そうか」
恵一は木高を解放したが、尚敵意の籠った眼を向けている。
「いいか、よく聞けよ。もし恭子に手を出したら、ただじゃおかないからな」
「分かりました」
動揺のない木高に気を削がれたのか、恵一は無言で部屋に戻っていった。
何事もなかったかのように、木高は目的地へ向かった。
京一との話は他愛もない事だった。
主に京一が木高の大学生活について尋ね、木高が簡潔に答えていた。
「ところで、木高君。恭子は大学でどうかな。ちゃんと他の人とコミュニケーションが取れているだろうか」
木高はそんな事知らなかったが、「はい」と答えた。
「そうか。いや、あいつは根っからのお嬢様気質でだな、昔から友達が少なかったんだ。私の育て方が悪かったのか……」
京一が苦笑する。
ここで初めて、木高が質問を投げかけた。
「恭子さんは男手一つで育てられたのですか?」
「ああ……どう言うべきだろうなあ。恭子が十四歳の頃までは母親が生きていたから……そこから今までが私だけで育てた事になる」
「結奈さんはいつから」
「結奈と再婚したのは……一昨年だったか。同棲してたのは半年だから、二年半一緒に住んでいるか。それが何か?」
「特に理由はありません」
その木高の態度を怪訝に思ったのか、その後の会話が弾まなかった。もっとも、木高は淡々に答えるので、今までも会話が弾んでいるとは言い難かったが。
ある時点で京一が壁に掛けられた時計を見、「もう十一時か……そろそろお開きにしようか。――木高君」
「はい」
「恭子の事、どう思っているんだ? ただの先輩後輩の関係ならば、わざわざレポートを手伝う為に後輩の、しかも女の家には来ないだろう。別に叱ろうという気などないから、正直に言いなさい」
木高はすぐに答えた。
「何も思っていません」
京一の部屋を出たところで、木高は菊池と出くわした。
恵一と同じく、しかし幾らか穏やかな、静かな敵意が木高に向けられる。
「木高君と言ったかな?」
「はい」
話の入り方は恵一と同じだった。
「単刀直入に訊こう。君は恭子さんの何なんだい?」
「私は恭子さんのゼミの先輩です」
「嘘だ。だって僕は、恭子さんの身辺の人物は皆知ってるんだから」
木高の表情に変化はない。それに菊池は少々たじろぎを見せた。
「なかなかの強者のようだ。君のような男は、未だかつて会った事がない」
つまり、嘘だと言っているのだ。
そう菊池に言われても、木高は態度を変えない。
「……ねえ、そろそろ観念してくれないかな? もう君は、チェックメイトされても同然なんだよ?」
しかし木高は何も反応を示さない。
「何とか言ったらどうなんだい?」
「貴方は」
初めて、木高が口を開いた。
「恭子さんの事が恋愛対象として好きですか」
「――なっ」
菊池の顔が紅潮する。
「けれど、恭子さんは貴方の事が嫌いです」
「――は、はぁ?」
菊池は違う意味でも赤面する。
「何を言っているんだ、君は! う、嘘はよさないか!」
今にも木高に掴み掛りそうな勢いだったが、京一の部屋の前にいる事を思い出し、私室から離れたダイニング付近まで木高を連れ込んだ。
「さっきのは、どういう事なんだ?」
平静を装っているが、動揺しているのは誰の目にも明らかだった。もっとも、見ているのは木高一人であるが。
「そのままの意味です」
「……嘘だ」
菊池は木高の肩を掴む。
「嘘だ……それは嘘だ。そうだろう? 君が、君が恭子さんを手に入れたいから……そう、手に入れたいから。僕に恭子さんを、諦めさせようというのだろう? そうに決まっている。だって恭子さんは僕の事が好きだから。僕のものだから、恭子さんは」
木高は何も言わず、感情の浮かんでいない瞳で菊池を見ている。
「何とか言ったらどうなんだい? だんまりかい?」
やはり何も言わない木高に菊池は苛立ちを覚えたようで、一度拳を振り上げた。が、痕が残って殴った事が露見するのを恐れたのだろう、拳は開かれ、代わりに菊池の手が木高の首に移動する。徐々に、締められる首。
「嘘なんだろう? さあ、言ったらどうなんだい。嘘だと。嘘って……嘘って言え!」
キリキリと締まる喉。やはり木高は、何も言わない。
そして、菊池が手を離した。その眼は怯えている。
「苦しく、ないのか?」
木高は答えた。
菊池と別れ、木高は部屋に戻る途中で、今度は結奈に遭遇した。
「あら、貴方は」
「木高です」
「ええと、恭子さんの大学の」
「先輩です」
「そうだったわね、こんな時間にどうかしたのかしら?」
結奈は軽くウェーブした髪をいじる。それにより、シャンプーの匂いが漂う。
「京一さんとお話ししていました」
「まあ、あの人と。話はあったかしら? あの人、ずっと一人で喋っちゃうのよ。女のあたしよりもお喋りなの。嫌になっちゃうわよねぇ」
木高は答えない。
「ね、木高君」
結奈が近づき、上目遣いに木高を見た。木高が結奈を見下ろすと、彼女の服の合間から谷間がしっかりと見えた。
「ちょっとお話ししない?」
「はい」
そうして、結奈は自室に木高を連れ込んだ。
「ね、木高君、恭子さんはどうしてるのかしら?」
「妹と一緒に寝ています」
「そう、可愛らしい妹さんよね」
木高が答えないので、「あら、妹さん嫌いなの?」
「何も思っていません」
その返答に、結奈はクスクスと笑う。
「『何も思っていません』だって。独特ねぇ、貴方」
ベッドに木高を座らせ、自分はその隣に座る。木高の方に顔を向けるのと同時に、彼の手を包み込む。
「ね、木高君は恭子さんと付き合ってるの?」
「いいえ」
「まあ!」
結奈は大袈裟に驚いて見せる。
「そうなの? てっきり恋人同士かと思っちゃったわ。ね、木高君、彼女はいるの?」
「いません」
「うっそぉ!」
結奈は木高の腕にギュッと抱きつく。木高の腕が服の上から結奈の谷間に収まる。
「木高君イケメンなのにぃ。皆見る目ないのねぇ」
木高は何も答えない。
「あら、綺麗なピアスをしてるのね」
話題を変えても、木高は何も反応しない。
結奈はニィッと艶めかしく笑った。
「ね、木高君。あたしといい事しない?」
結奈は木高の手を掴み、自身の服に入れた。木高の手と彼女の胸が触れ合う。結奈は期待に満ちた面持ちで木高の表情を窺うが、彼の表情に落胆したようだった。
「何、あたしの胸じゃ不満なの?」
木高は問い掛けに答えず、手を結奈から抜いた。
「一つ、お訊きしてもいいですか」
「何よ」
「貴方は、恭子さんの事をどう思っていますか」
「……そりゃあ、可愛い娘よ。妹みたいな年だけど」
「恵一さんの事は」
「恵一君ね、あの子は可愛いわ。ふふっ。まだあの子、経験がないのよ、もう二十五なのに。手解きしてあげたいくらい」
「菊池さんの事は」
「あれはつまんないわ。恭子さんに首ったけだもの」
「京一さんの事は」
「……勿論、愛してるわよ」
「ありがとうございました」
木高は立ち上がり、部屋から出ようとする。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
結奈は木高に駆け寄り、耳打ちした。
「今までの事、絶対にバラしちゃだめよ。バラしたら――」
結奈の猫撫で声が、冷たいトーンに変わった。
「レイプ犯にするんだから」
結奈の部屋を出て、木高が入室したのは恭子の部屋だった。理乃といて安心していたのか、不用心にも鍵は掛かっていなかった。
木高はベッドに近づき、「理乃」
理乃はパチッと目を開け、木高を見る。
木高は短く、指令を伝えた。
午前零時過ぎ。
振りしきる雨の中、ベランダに人影がいた。
人影の背には理乃。彼女の後頭部は小さく窪んでいる。そして、ベッタリとついている血液。
人影は頭が下になるようにして、理乃を放り投げた。
鈍い落下音は、雨音に掻き消された――。
<続>




