「G」
キッチンの隅っこに居座るやつを見つけて、僕は一瞬息を止める。
開いたばかりの冷蔵庫を、音をたてないようにそっと閉める。それでもその大半を占める瓶がカタリ、と音を立てた。
奴は動じなかった。普通なら、奴らの同族は僕たちを見ると恐るべき速さで身を隠そうとするものだが、動かない。その黒光りする姿態を一寸のブレなくシンク下でとどまらせていた。
奴らは別に苦手ではなかった。
脚が八本あるわけでも、粘着質な糸を吐くわけでも、八つの眼光をまき散らしているわけでもない。なんてことはない相手だが、こいつは違う。強そうな匂いがプンプンしていた。
殺虫剤を手に取った。居座るやつにむけてトリガーを引いた。気分は隕石にドリルを打ち込む宇宙飛行士。外れれば負け。
噴出された殺虫成分が奴の躰を包み込む。勝った。隕石は粉々に砕け、破片は大気圏に突入したとたんに摩擦熱に身を焦がされ、人類は勝利した。と思った。
僕は戦慄する。動いたのだ。足音にも動じず、冷蔵庫からの光にも何も感じることのなかったであろう奴が、殺虫成分にも蝕まれた様子なく平然とカサカサと歩みを進めだしたのだ。
科学を否定された気分だった。人類が生み出し、繁栄させ、培い、生活に反映させてきた知識の結晶である科学を、奴の黒光る羽が嘲笑っている。効くものかと。恐竜の時代から生き、人類ら哺乳類では耐え得るべくもない環境の変化に耐え続けた我々がそのような科学に屈し続けることがあろうかと語っていた。
ならば、僕にも考えがある。人智を否定するのなら、さまざまな環境に耐え抜いた体で嘲り笑うのならば。太古から変わらぬ己を誇示するのであれば。
こちらも太古に戻ろう。小賢しい科学など使わず、マンモスや太古の生物と死闘を演じていた、太古の姿に。
腕をだらりと垂らす。体はわずかながら前傾姿勢に。周りなんて見ない。見えない。相手と僕だけの勝負。目を逸らせば負ける。筋肉の動き、呼吸のリズムを掴むんだ……。
体感三十分後。ピクリとも動かぬ二人の間の空気に焦らされる僕は大切なことに気付いた。
こいつの小さな体の筋肉の変化なんて僕から見たらわからないじゃないか。愚かしい。
筋肉の緊張を解く。
それともうひとつ。太古の人類も行っていた伝統的な狩り。そこにおいて使われるのは武器だ。僕は自宅警備から転職するためにもってきていた、求人情報誌を手に取った。
厚さ一センチにも満たない雑誌。このまま振りかざしても奴の堅い装甲を前にしてはさほど脅威ではない。しかし。これをきつく巻いた、半径一センチを超える小さな棍棒は奴を前に十分な殺傷力を持つ。
これで終わりだ。下等生物め。人類に歯向かったことを後悔するがいいさ。
振りかざし思い切り振りおろす。
ガチャリ、ぐちゃ、スパン。
扉を開け、僕の宿敵を、奴を踏みつぶした妹の頭部を。
妹の悲鳴が上がる。
まずは全力で叩かれたことに対して。
そして足元の異形の正体に気付いて。
その後、家じゅうの電気がともり、起きてきた親に錯乱した妹が放った、お兄ちゃんが、お兄ちゃんが、という言葉で翌日は家族会議から逃れることはできなかった。