生きろ
ぽたぽたと、床に涙が落ちていく。透明な滴は俺の服に染みを作り、歪な水玉模様を生み出した。悲しかった。泣く事で、逃げ切れない悲しさを消化したかった。
俺の中にもたくさんの想いが流れ込んでくる。誰一人、幸福に死ぬ事が許されなかった。苦しんで、非情な炎に焼かれて死んでいった。その苦しみは、生きる者の俺には表しきれない。例え表現できても、陳腐な言葉を並べる事しか出来ないだろう。
言葉で伝えるには限界がある。だからこの車掌と電車は、愛の視点から見せる事で俺に真実を叩きつけたのだ。
「お分かりいただけましたか?」
車掌は静かに言う。俺はその言葉をしゃがみ込み、俯き、ただ黙って受け止めるしかなかった。
壮絶な光景だった。鮮やかな赤が、脳裏に焼きついて離れない。今車窓から見える紅葉の赤以上に赤く、鮮烈だった。これが命の色なのだと、改めて認識された。
愛の死に様は、俺にとってあまりに残酷だった。同じ車両に乗っていた乗客達も。それが悔しくて、悲しくて。車掌もそうだ。暗闇の中、ただ寂しく死んでいく。何て、何て悲しい人生の末路なのだろうか。
最後に現れたこの電車はきっと、希望の光なのだろう。闇と風を切り、敷かれたレールの上を走る。乗客がいる限り、どこまでも走る。走りたいと願った、電車の想い。
それなのに俺は、何故死にたがったりしたのだろう。現実から逃れ、苦しみからの解放を求め、挙句、死にきれなかった。
人間の真価は、『生きる』事で初めて発揮される。
それは分かった。でも、愛を喪ったその悲しみは拭いきれない。彼女がいないこの世界は、俺の瞳では美しく見えなかった。
「お客さん。あなたは生きるべきですよ。生きて、生を真っ当するべきです」
でもこの先の人生に、彼女はいない。彼女がいない世界など、生きたくはなかった。俺は手に握り締めた愛のペンダントに力を込める。
――こんなどん底に落ちた俺でも、まだ生きろって言うのか……?
愛はきっとイエスと言うだろう。だからこれを託してきた。あの事故の後、どうしてか見つからなかったこのペンダントは、俺に生きる事を止めようとした時のための切り札だった訳だ。
「あのお客さんは、現世であなたの傍にずっと居たのではないのでしょうか。そうでなかったなら、きっとこのペンダントはあなたの手に渡らなかったはずです」
そういえば、そうかもしれない。愛が死んでから、部屋で泣き疲れて眠りに落ちる事があった。その時、大抵愛の夢を見た。自分で強く愛を想っているからかと思っていたが、これは愛が落ち込む俺に与えた『元気付け』の一種だったのかもれない。
きっと彼女は、俺の思想を理解していたのだろう。そして俺が愛の後を追う事も分かってしまった。だから彼女は急ぎ朽ち果てた駅に向かい、俺の乗った電車に乗り込んだ。
そして、帰りの片道切符を渡してくれた。俺が探していた、愛の記憶の一部を。
俺はまた車掌の足に縋りつく。その時、頬から塩辛い水が流れてきた。電車の車窓にも、パタパタと水滴の当たる音がする。俺は窓の外を見た。白い光に包まれながら、小雨が降っている。柔らかい、シャワーのようだ。
それを、車掌も優しい表情で見つめていた。そして言う。
「雲は、空気中に含めなくなった水蒸気で出来ています。水は、この世界を永遠に輪廻します。汚れても、美しい滴となって地上に帰る。それは、命も然りです」
涙を流しながら、俺は上を見上げる。車掌はまだ、窓の外を見ていた。
「命も輪廻します。存在は、誰かが覚えていれば伝える事が出来る。その人の中で生き続け、また新たな命が生まれた時、記憶を引き継ぐ。忘れ去られなければ、その人の命は永遠なのですよ」
その言葉を聞いて、記憶の底から一つ、愛の言葉を掬い出した。
『命ってね、永遠なんだよ』
――あぁ、そうか。そういうことだったんだ。あの時は分からなかったけど、今理解した。
人間は、『生きる』事で真価を発揮する。それは、存在する事も同じだ。
愛は、俺の中で生き続けられる。俺が存在を忘れたりしなければ。
大丈夫だ、忘れない。あの愛らしい笑顔を、俺は忘れたりなんかしない。
大事な事を教えてくれた、陽だまりのように温かな彼女を、俺は忘れたりなんかしない。
生きようと思う。これからも強く、生きていこうと思う。俺が生きなければ、彼女も生きられない。どんなに辛くても、前を向いてればきっと大丈夫だ。
でも今は少しだけ、泣かせて欲しい。
彼女との別れを、惜しませてくれ。
俺は電車の床に視線を落とし、再び声を上げて泣く。大の大人がかっこ悪いなぁとは思ったけど、ここには幽霊の車掌とただ目的地へと走る電車しかいない。だから声を上げて泣ける今、明るい表情で電車を降りるためにも泣いておきたかった。
柔らかなシャワーの雨が電車を濡らす。光る滴はどこまでも清く、美しかった。
今回はとても短い章でした。短いなりに、大事な言葉が詰まっています。
『命ってね、永遠なんだよ』
物語はもう終盤です。終着駅まで、どうぞお付き合いください。