車掌
「止めてくれ! さっきの駅に戻ってくれ!」
俺は車掌に掴みかかる。車掌は首を何度も横に振った。
「いけません。この電車は目的地に向かって走り出しています。止める事など出来ません」
「お願いだ! もう一度……もう一度愛に……!」
車掌のワイシャツの襟を掴み、何度も叫ぶ。しかし車掌は毅然とした態度のまま、俺を見ていた。
「あなたは、あのお客さんに『生きろ』と言われている。そんなあなたが、死の苦しみを理解する必要は当面無いでしょう」
「そんな事より、愛が最後になんて言ったのか知りたいんだ!」
車掌は俺の言葉を聞いて、がっかりしたようにため息をついた。
「あなたは、愛する者の言葉も聞けないのですか? 心で繋がっているのではないのですか」
「え……?」
「私には分かりましたよ、彼女の言葉が。別れ際の挨拶が」
別れ際の、挨拶。五文字の、別れ言葉。
思考していた俺の脳裏に一つ、引っかかる言葉の羅列を発見した。この前の帰り際にも、愛が言っていた事。
……分かった。分かってしまった。
『愛してる』
笑顔で言った、その一言。あいつが珍しく言った、最初で最後の別れ言葉。
何だ……、あの夏の日と同じじゃないか。
「うわあぁぁぁぁぁぁ!!」
俺はその場に崩れ落ち、声を上げて泣く。気付けなかった自分への憎しみの念とか、最後まで笑顔だった愛を失った悲しみとか。もう、全てがごちゃごちゃと混ざり合って、俺の気持ちはまったく訳が分からなくなってしまった。
電車は容赦なく、俺と愛の距離を引き裂いていく。もう黄泉の駅はここから見えない。窓の外には美しい色をした木々、青い空。
彼女に会いたかった。ずっと一緒に居たかった。だから、俺は現実から逃げてこんなところまで来たんだ。死んで、彼女と一緒に居たかったから……。
「……自殺した魂は、救済されないと神の教えにあります。だからこそ、彼女はあなたが死ぬのを止めたかったのでしょう」
俺は車掌の脚を掴み、縋るように言う。
「でも、もうこんな世界で生きるのはごめんなんだよ! 皆俺を置いて逝きやがる、あいつ、愛もだ! もう、独りは嫌なんだよ……!」
駄々をこねる子供のように、車掌の足を掴んで揺らした。車掌は、そんな俺を見下ろしている。どんな表情か気になって、俺は顔を上げた。その瞬間。
車掌が目深に被っていた帽子が落ちた。
その下にあった表情は。
「あ、わああぁぁぁぁぁッ!!」
俺は今、この世界を生きていて一番奇妙なものを見た。心霊写真とかはテレビなんかで見た事あるが、これに比べたらあれはまだ可愛い方だった。車掌の表情は、分からない。何故なら、表情を一番語るであろう『目』が、存在していなかったからだ。
「……すみません。お見苦しいところを見せてしまいました」
車掌は素早い動作で帽子を拾い上げ、また目深に被った。それでも、車掌の素顔が目に焼きついて離れない。
ごく普通の顔立ちをしていた。どこにでもいそうな、中年に入りたての男性の顔。だが、『目』だけはなかった。本来目があるべき部分に何も無く、ぽっかりとした真っ黒の空洞がそこに存在した。
「ど、どうして……?」
この電車は、本当に何もかもおかしい。流石は幽霊電車だ。幽霊は乗り込むし、車掌も幽霊だし、俺はというと亡者になりそうになるし。しかし、どの幽霊も五体満足だった。欠損した部分など無く、皆普通の人間の姿を持った幽霊だった。しかし、車掌だけ、五体不満足である。しかも、車掌に無くてはならない『目』が欠けていた。
目は、ものを見るのに一番大事だ。俺達は視覚に頼りながら日々を生きている。しかし彼は、この大事なものが欠けていた。
車掌は苦笑を浮かべ、驚愕の表情を浮かべる俺を見ていた。そして、落ち着いた声で言う。
「目が無くとも、この電車は乗った人物に合わせて目的地を設定してくれます。私は乗客の皆さんにご不便が無いように、見回りをする程度の仕事しかありません」
「それでも、どうして見えてるんだよ?」
困惑して、上手く回らない舌で言う。車掌はその様子にまたも苦笑しながら答えた。
「私には全て見えています。生前、私は目が悪くて眼鏡をかけていましたが、今は眼鏡が無くてもよく見えます。……心の目で見ていますから」
「心の、目?」
えぇ、と車掌は頷いた。
「人は、目でなく心で感情を読み取ります。確かに、生きているうちは表情で捉えていましたが、死んでからは心でも捉えられるようになりました。むしろ、心は目の如く、表情と言う色彩に敏感なのです。心の方が捉えられることは多いのですよ」
車掌は微笑んで付け足す。
「あなたとあのお客さんは、とても仲睦まじい。それだけ、相手の存在が大切になる。家族のいる私にも、それはよく存じます。ですが」
言葉を区切り、諭すような口調で車掌は言った。
「別れは来るのです。それがどんなに唐突で、残酷だったとしても。それが『人間』という生き物ですから」
頭の中で車掌の言葉が響く。
『別れは来る』
別れは嫌いだ。ずっと傍に居た存在が、消える。それは、俺の存在価値も同時に消えたようなもの。愛がいないこの世界を、俺はどうして独りで生きていかねばならないんだ。
「そんなもん、分かってる。でも別れは嫌だ。独りぼっちも、嫌なんだよ……」
景色は流れる。まるで、時間のようだった。黙っていても時間は過ぎる。生きてさえいれば、時間は過ぎていく。
時は残酷だ。そして、癒す力でもある。時が過ぎれば癒える傷もあるが、愛のペンダントに入った無数の傷のように、一生消えないものだってある。人間はいつしか、死が訪れる。それもまた、真実の一つだった。それでも。
「俺はあいつと、一緒に居たいんだよ」
ぽつりと呟いた。
そうだよ、あの電車事故さえなければ。俺はずっと、愛と一緒に居られた。
「何であいつが……死ななきゃならなかったんだよ!!」
怒り任せに叫ぶ。車掌は俺の様子を、ずっと見下ろしていた。俺は車掌を仰ぎ見る。車掌の口元は、優しい微笑みを浮かべていた。
「あのお客さんは、死にたくて死んだのではありません。それはあなたも分かっているでしょう?」
躊躇いつつも、俺は小さく頷く。身体が痺れて、あまり上手く動かない。居眠りをした後の、あの感覚に似ている。もう動きたくない。どこにも行きたくない。
でも、俺の心は騒いでいた。『目』を持たないこの車掌は、どうして目を失ったのか、気になった。だから俺は、失礼だと思いながらも訊いてみた。
「車掌さん。あなたは何で死んだんですか?」
彼は優しい表情を崩さぬまま、少し悲しそうに言った。
「私も、電車事故で死んだのですよ」
「電車事故で、死んだ?」
俺は驚いて目を見開きながら訊く。
電車事故で死んだというのは、彼女――愛と同じだ。
「そうです。電車事故で死にました。今年の夏に、です」
今年の夏の、電車事故。――愛と同じだ。
「じゃああんたも、…………か」
俺はボソリと呟く。車掌は聞き取れなかったようで、首を傾げた。
「じゃああんたも、あの場所に居たのかよ!」
俺は、さっきよりも音量を上げ、吐き捨てるように言った。
事故が起こった後、事故処理が終わってから俺はあの事故現場を遠くから見た事がある。何とも、ものすごく酷い惨状であった。あの中で愛が死んだのかと思うと、酷く悲しかったし、自分も苦しかった。
「そして、あんたも死んだ。車掌ってのは電車を運転するのが仕事じゃなかったっけか。て事はお前が愛を殺したのか?!」
「それは違います」
車掌ははっきりと言った。顔を俺の方にしっかり向け、帽子の下の無い瞳がこちらを凝視している。そして車掌は続ける。
「あの時、私は運転を請け負っていませんでした。電車内の見回りをするため、各車両を渡り歩いていたのです」
そんな言葉、信じたくなかった。とにかく愛を失ってしまったことを、誰かのせいにして非難したかった。俺は怒りを顕にし、車掌のワイシャツの襟を掴んだ。
「嘘だ! お前にだって責任があるだろ?! 俺は、お前らのせいで大切な人を喪ったんだ!!」
紺色の帽子は、俺の掴みかかった勢いで車掌の後ろに落ちた。車掌はその様子に気も留めず、俺の事を空洞の瞳でしっかりと見つめていた。
やがて車掌は呆れたかのように長いため息をついた。俺はその行動に怒りを感じ、さらに罵声を浴びせようとした、その時。
「分かりました。あなたに、『あの日』のことをお教えします。……あのお客さんからもらった依り代と、私の瞳、この電車が導きます。そのペンダントの記憶と私のあの日に失った目があなたに全てをお伝えするでしょう」
一体何を言ってるんだ、こいつは。『現在』にいる俺が、『過去』を知れるわけが無い。そう思うのが常識だと思っていたから、俺はまたさらに車掌への不信感が湧いた。
しかし、急に視界が歪む。まるで、水面を眺めている時の様に。最初は穏やかだったが、次第に激しくぶれていく。そして電車も、さらに速度を上げていた。俺の体はまるで宙返りするような気持ち悪い感覚に襲われ、それに耐えるために瞳をぎゅっと瞑った。
いつもありがとうございます。皆さんはとうとう、車掌の秘密を見てしまいましたね。それでは、車掌の見せる『あの日』を、次回、お楽しみください。