黄泉
幾つもの駅を通り過ぎた。俺が最初に乗ったあの駅からどれ程離れたか、分からなくなった。
俺も愛と同じように目を閉じて電車の揺れを体で感じていた。そんな時、別の車両からガラガラ、とドアを開ける音がした。
とろとろと瞳を開けて音をさせた主を見る。それは、車掌だった。車掌は俺のところへ近付いて来て、話し掛けた。
「その方は、お知り合いですか?」
「えぇ。俺の最愛の、恋人です」
その答えを聞いた車掌は柔らかく口元に微笑みを浮かべる。
「ねぇ、車掌さん。訊きたい事があるんだけどさ」
「何でしょう?」
車掌は優しく訊き返してくれた。だから少し安心して訊けた。
「さっきから通り過ぎてる駅って、何なんですか?」
俺は車掌に視線を向けて言う。車掌は相変わらず微笑みながら、答えた。
「先程から通過している駅は全て、幽霊の乗り込み専用ホームとなっています。人間は、誰もが必ず未練を残して死んでいく生き物です。未練を残さず死ねる人間などそうそういません」
そして天国にいる神は、そんな人間のために、死亡してから一定期間、未練を晴らす時間を与えてくれるという。愛した者に会いたい、家族と再会したい……。そのような願いを持つ幽霊は、しばらくの間現世に残り、大切な者を見守り、守護する事が出来る。そして、一定期間を過ぎるとこの幽霊電車に乗って、黄泉へと旅立つ。黄泉には様々なところから幽霊がやってきており、審判を受けて天国行きか地獄行きかに決まる。そういうサイクルが、ここ数年で完成したそうだ。
「電車は、公共機関として様々な人間に親しまれている乗り物です。それに、廃棄された電車にも、『まだ走りたい』という未練が残されています。それを叶えるために、この幽霊電車はその精力を失うまで走り続けます。私達と同じですよ」
なるほど、だから幽霊電車か。この電車がすごく楽しそうに、荒々しくリズムを刻みながら走るのは、そういう理由なのか。普通、幽霊屋敷とか幽霊船とかだろうと思っていたが、電車で旅立つという風情ある種類が出たもんだ。
そう言えば、俺はどうなるのだろう。生きた人間がこのまま幽霊電車に乗っていると亡者になるという。このままでは俺は、亡者になってしまうのではないのだろうか。
不安に刈られ、車掌に訊く。死ぬのは怖くない。だが、他人に迷惑はかけたくなかった。
「じゃあ、この電車はそのまま黄泉に行く運命で決まったんですか?」
でも、質問してから思う。別に俺、このままでもいいんじゃないか? どうせ死のうとしてた身だ。彼女に会えて満足した今、亡者になってしまってもいいかと思う自分がいる。
自分はたくさんの不幸を背負った。だからこそ、幸せな人を貶めたいという欲望が、心の奥底に少なからずある。
「別にもう、このまま死んでもいい。あんたたちのいう現世に戻ったって、俺はまた苦しんで生きてかなきゃいかない訳だ。それだったらもう、このまま亡者になったって……」
自暴自棄に、自身を嘲笑いながら言う。すると、目を閉じていた彼女が顔を上げた。掠れ声のアナウンスを響かせ、電車はまたもや速度を落としていく。線路と車輪を摩擦させ、やがて、電車は止まった。半透明の乗客達は立ち上がり、開いたドアに向かって歩いていく。俺の隣で手を重ねてくれていた彼女も、席を立った。
俺はまるで捨てられた子犬のように、ずっと彼女の動きを見ていた。寂しくて。行かないで、とその細く白い腕を掴みたかった。だが、そんなことをしても俺の手は空を掴む。彼女の手にすら触れなかったのだから。
俺はどうしようもなく悲しい気持ちを抱え、ただ呆然と彼女の背を見ていた。だから気付かなかった。自分の身体がみるみる溶けて無くなりそうになっていたのを。
「ッ?!」
俺は驚いて自分の手を見た。半透明になり、向こう側の景色が見れるようになった俺の手。ゆっくりゆっくりと、透明な液体のようなものが身体を覆っていく。痛みは無かった。しかし、不快感があった。そして、消えていく恐怖があった。
そうか、これが『亡者になる』事か。
自分の存在が消える。現世からも、そして幽霊たちがいるこの世界からも。『忘れ去られた存在』となり、俺は誰かに自分の存在を証明してほしくて、現世を彷徨い人々に災いをもたらす。そんな哀しい存在になるのか。
心が悲しみと恐怖で満たされていく。さっきまでの、ささやかな幸せは欠片もなく遠くへ去って行った。今ここにあるのは、『虚ろになりゆく自分』。
俺は、まだ電車を降りていない愛の姿を目で追う。よかった、まだ瞳は機能してる。身体の感覚がほとんど失われた中、愛の姿が見える事は幸いだった。
愛は車掌と何か話していた。車掌は頷きながら、愛が握り締めていた物を受け取り、言葉を返した。耳はまだ残っているが、幽霊達の会話は聞こえない。愛の声が聞こえない事は実に残念だった。
愛がホームへと降り立つ。俺はその愛の背を縋るような瞳で見つめていた。愛が向かう先、そこはあまりに美しい世界だった。
白く霞んだ世界。自然も見えず、建物も見えない。駅も無く、そこにはただ、コンクリートで固められたホームのみが鎮座している状態だった。しかし、神々しい光がそのホームを包み込んでいる。寂れた感じなど一切ない。
――これが、黄泉……。
羨ましいほどに、麗しい世界だった。納得出来る。ここが黄泉なのだと。
掠れ声のアナウンスが響く。電車のドアが閉まったその時が、俺の限界なのだろうと何ととなく悟った。
車掌は、座席にわずかに残る俺の姿の残骸を見た。そして、さっき愛から受け取った物を差し出して、俺に言う。
「『愛』という名前のお客さんからあなたへ、『けっこう早いけど誕生日プレゼント』だそうです」
車掌の手に乗っていたそれは、愛が首からさげていたペアルックのペンダントだった。鎖の擦れる音が、綺麗な響きだった。
俺はそれを消えていない左手で受け取り、じっくりと眺める。
俺がそのペンダントを受け取った刹那、それは何とも酷い姿になっていた。プレート部分はぐにゃりと曲がり、至るところに焼けた跡があった。そして、無数の傷。あの日新品をあげたというのに、随分と酷い状態になっていた。
俺は、先程まで感じていた体の不快感が消えた事に気が付く。急いで自分の身体を見ると、そこにはいつも通りの俺の身体が、電車の赤いソファの座席に座っていた。
「え? どういうことだ……」
さっきまで、亡者になりかけていたのに。この急な変化は何なのだ。
「あなたが渡されたそのペンダントは、帰り道への片道切符ですよ。私が拝見したんですから、間違いないです」
切符? これが?
その質問を率直に車掌にぶつけた。車掌は俺の問に答える。
「あのお客さんは、あなたが無事帰れるようにと願いを込めてこのペンダントを渡してくださいました。だからこれを依り代に、現世へと電車が導いてくれます」
このペンダントは、愛が死んだ時に見つからなかったものだ。電車事故の現場もくまなく探してもらったが、これだけは見つからなかった。愛が大事に首にかけていたから失くすはずないだろう、と俺は事故現場で泣き喚いたことがある。
もしかしたら愛はこの時が来る事を分かっていて、そのためにずっと持っていてくれたのかもしれない。
車掌はさらに言葉を重ねる。
「あのお客さんから伝言を頼まれました。『命ってね、永遠なんだよ』と」
その言葉を聞いて、俺の心が弾けた。ドアに張り付き、彼女の姿を探す。すると、彼女はすぐ目の前に居た。笑顔で手を振ってくれている。その姿を見て、堪えていた涙が溢れ出た。
「愛! 愛!!」
ドンドンと閉ざされた扉を叩く。頬を伝う涙に気付かなかった訳じゃない。ガラスに映っていて、俺もちゃんと気付いた。ただ呼びかけるのに必死で、拭うことを忘れていた。彼女の温もりにもう一度触れたくて。あの優しい声が聞きたくて。
彼女は手を振っていた。少し悲しそうな表情をしながら。でも、何とか笑顔を保ったまま、俺を見てくれた。
電車内とホームに放送がかかる。掠れ声のアナウンスはどうやら、幽霊にしか聞き取れないようだ。幽霊たちはホームを去って、駅の先にある大階段へと歩んでいった。しかし、愛だけはホームに留まり、電車が去る様子を見守っている。
電車が走り出した瞬間、愛は口の形で何かを伝えた。五文字の、何か。
愛は、何て言ったんだ……?
そろそろ折り返し地点となりました。彼は無事に帰れるのでしょうか。
次回もよろしくお願いします。