追憶
「え……?」
突然現れた電車に、俺は困惑の色を隠せずにいた。
おかしい。だってこの線路、錆びついてたし草は生えてるしで、使えないはず。それに駅の中も、誰もいなかった。こんなんじゃ、駅が機能しているはずがない。
どんなに目を擦っても頬を抓っても、止まった電車は目の前に在り続けた。幻であるはずなのに、幻じゃない。夢でもない。
俺の前に止まった電車のドアが開く。そして微かに聞こえる、音量の小さいアナウンス。声が掠れているのとスピーカーの調子が悪いのとで、全然聞こえない。どこ行きかを書いてある場所には、地名も駅名も記されていない。ただの空欄だった。
「…………」
訝しげに、電車内を覗く。誰もいないみたいだ。綺麗な赤のソファが並ぶ、電車内。外装は古い型なのに、内装はなかなか綺麗だ。一体何故、こんなところに電車が?
好奇心が湧き上がる。こんなワクワク感、大学を出てから久しい。彼女と出掛けた先で見た、映画の時以来。けれどどちらかと言うと、子供の頃によくやった、悪戯なんかの悪い事をしてる時の緊張感と快感に似ていた。心臓がさっきよりも早く鼓動を打つ。
――この電車、なかなか面白そうだ。
誰もいない無人ホームに止まる、無人電車。どっかのホラーゲームっぽい。それに俺はここで全てを終わらせようと思っていた。少しの間、この暇と命を弄ぶのに適している。俺の目の前に止まったからには、俺のこれからの運命に何かもたらしてくれるであろう。一体これは何なのか、俺をどこへ連れて行ってくれるのか。とても興味深い。
俺は鞄をしっかり持ち直し、電車に乗り込む。反対のドアに俺の姿が映った。すると電車のドアがバタン、と閉まった。……発車。電車はキィキィと軋む音を出しながら進んでいく。それは徐々に、リズム感のいい走行音に変わった。
その音は、俺の第二の旅を報せる音だった。
入ったドアから見て正面のドアガラスに、俺の姿が映っている。
ボサボサの黒の短髪、小柄な体。長袖シャツの上に薄いカーディガンを羽織っている。薄汚れたジーンズは色褪せて、ガラスに映ると余計に薄汚れて見えた。胸には、社会人になってから初めて買ったネックレスとペアルックのペンダント。長方形にハートの左半分が型抜きされたデザインだ。今はガラスに映って、反対のハートの形をしている。このペンダントは、彼女とお揃いだ。彼女の誕生日に、俺から渡した。その彼女の持っていたペアルックのペンダントと同一の物が今、ガラスに映る俺の胸に光っている。俺はそれに手を伸ばした。こつん、と爪が当たり、ガラスに阻まれた指がくにゃりと曲がった。
俺はガラスに伸ばした指を、今度は自分の胸にぶら下がるペンダントへ持っていく。今度はしっかりペンダントを掴む事が出来た。そして俺はそれを力強く握る。片割れを待つペンダントを阻むように、力を込めて握った。
出来る事なら、ガラスの向こうにある鏡の中のペンダントと今俺が持つペンダントを一緒にしてやりたかった。しかし無理だ。ガラスの向こうの物は虚無、そして彼女が持っていたペンダントは、帰ってこない。俺の持つペンダントのハートは、一生元の形に戻る事が許されなくなったのだ。
「ははっ。自分でも分かってるのに、まだ俺は忘れられないのか」
自嘲して、ドアのすぐ横にある赤いソファの座席へ腰を下ろした。さっきのベンチとはまた違う、ふわふわとした座り心地が気持ち良い。
突然、眠気が襲ってきた。さっきまでは微塵も感じていなかったのに、まぶたが急に重くなる。
――あ、俺、寝るな……。
慣れない長旅で、体もだいぶ疲れていた。俺は柔らかいソファの背にもたれ、瞳を閉じる。目の前を暗闇が支配した瞬間、俺の意識はどこかへ飛んだ。
「……ぇ……ねぇ」
ぼやけた視界。目の前は暗色系の色が滲んでいる。しかしそこへにゅっと、人影が入り込む。
「ねぇ、話聞いてる?」
「え?」
視界の焦点がようやく合ってくる。俺の目の前に現れたのは、俺と同い年くらいの女性。俺の顔を覗き込み、眉間に皺を寄せている。艶やかな長い黒髪は風に流れされていた。曇りのない綺麗な瞳が俺の顔を映す。
そうか、ここはあの時のあの場所。俺と彼女が久しぶりに映画を見に来た時、立ち寄った海の見える公園。俺と彼女は、目の前に海を一望出来るベンチに座って喋っていたらしい。内容は主に、さっき見ていた映画の内容。あそこが良かっただとか、ここが迫力不足だとか。
最近、仕事が忙しくて寝不足だった。それが祟ったのか、俺は事もあろうに彼女と話をしている途中でうとうとしていたようだ。彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて、俺の頬を突っついてきた。
「ごめん。寝てた」
俺は素で言う。彼女は少し怒った顔をして、俺に返した。
「もぅ、せっかく久しぶりに会えたのに。つまんないの」
「ごめんごめん。お願いだからそっぽ向くのやめてくれって。心が傷付く」
「勝手に傷付いてれば?」
「俺の心はガラス製だから、すぐに壊れちゃうの」
「あっそ」
彼女は頬を膨らませてふいっと別の方向に顔を向けた。実に素っ気ない対応に、俺も寂しくなって彼女を宥める。
「ごめん、愛。許してよ、な? 次はやんないから」
彼女――愛は少しだけこちらに視線を向けた。俺は手を合わせてペコペコと頭を下げる。その仕草に、愛はくすりと笑った。
「しょうがないなぁ。君はいっつもそういうとこだけ可愛いんだから」
そう言って、愛は俺から視線を逸らし、海を見た。太陽の光が反射する水平線。俺達の住んでいる所より若干都会なこの街は、何もかもが眩しく見える。夏空の、光輝く暑い日差しの下、船が止まっている船着場にはカモメが飛び交っている。午後の日差しに照らされたその鳥達の背はまるで自由の象徴だった。
「……綺麗だね」
愛が急に呟く。「君の方が美しいよ」って軽口を思いついたが、喉を出かかったところで押し殺した。愛はキザったらしい台詞が苦手なのだ。昔に言って、思いっきりぶっ叩かれた事がある。とりあえず、言葉を返す。
「何が?」
「カモメが」
言葉のキャッチボールの如く、一言ずつ会話を重ねる。愛は目を細めて穏やかな表情を浮かべながらカモメを眺めていた。
「あぁやって、命を食い繋いでいるんだよ。魚から、カモメへ」
一瞬、愛が何を言っているの分からなかった。だけど、唐突に理解した。
愛は、『命の連鎖』が美しいと言っているのだ。なるほど、生物が好きな愛らしい。
「だけど、カモメって死んだ魚とかを食ってんだぞ。何だか、残酷じゃないか」
「残酷でも、彼らは生きるためにその道を選んだんだよ。死んだものを食べて、生き長らえる事を。死んだものも無駄にならない、カモメが生かしてくれるから」
彼女は俺と違って頭が良かった。だから、とても知的な話し方をする。俺はたまに愛がどういう意図で話しているのか理解し難い時があったりするが、そういう時彼女は微笑んで俺に寄り添い言う。
「今はまだ分からなくても、そのうち分かるよ。死した者は無駄になんかならない。命ってね、永遠に続くんだよ」
午後の日差しが傾いてきた頃、波の音がやけに鼓膜を震わす。夏至が過ぎてすぐの今、夕方の風はまだ熱気を纏っていない。涼しい潮風が俺達に絡みつく。
俺はまだ、命が永遠であってほしいとか、そんな事は考えていなかった。ただ彼女と過ごすこの時が、永遠であってほしいと願った。
彼女の細腕を引き寄せて、抱きしめる。愛は小首を傾げて俺を見上げた。彼女は一瞬目を見開き、瞳を細めて微笑む。
「まったく、泣き虫だな。君は」
どうやら俺の瞳が濡れていたそうで。
彼女は俺の顔に自分の顔を近付ける。そして――……。
俺はあの時に交わした口づけを、今も鮮明に覚えている。
そうだ。俺はあの時、本当に幸せだった。彼女はいつも俺に『愛』をくれた。仕事で疲れた俺に癒しも与えてくれる。俺も彼女のためになりたいと必死だった。彼女は俺が守る。そう心の中で決意していた。……それなのに。
「そろそろ、帰ろうか」
俺は公園内にある小さな時計台を見て言う。俺は腕を解き、彼女から離れる。俺の胸から温もりが消えていく。それが少し、寂しかった。
「あ、そうだ。愛、ちょっといいか?」
「え?」
彼女は鞄を持って立ち上がる。俺も立ち上がり、彼女の事を真っ直ぐ見た。背の低い愛は、俺を見上げて首を傾げる。俺はこっそり自分の鞄から小さな箱を取り出し、背中に隠しておく。
「ハッピーバースデー、愛。ちょっと早いけど、誕生日プレゼントやるよ」
背中に隠していた物を、愛の目の前に出す。それを見て、愛はびっくりしたように目を見開き、俺を見た。俺は半ば強引に、小さな箱を愛の手に握らせる。愛はそれを受け取ると、俺を仰ぎ見た。「開けていい?」とでも言わんばかりに。
「開けてみてよ。そのために渡したんだからさ」
愛は嬉しそうに頬を桃色に染めて、コクンッと頷く。そして小さな箱を慎重に開け、中の物を取り出す。
中身を見た瞬間、愛はぱっと表情を明るくして再び俺を見た。
「これ……!」
「そ。愛、ペアでつけられるアクセサリー欲しいって言ってたろ? 指輪はちょっと辛かったけど、ペンダントなら平気だったから。……どう、かな?」
愛は口元を片手で押さえながら、俺の渡した誕生日プレゼントを見つめている。自分の手の中に収まっている、シルバーのペンダント。長方形のプレートの左側には、欠けた半分のハートマークが切り抜かれている。俺は長めの鎖に指を滑らせ、愛の手からそっとペンダントを掬う。そして彼女の首にかけてやった。
「ほら、ちゃんとお揃いだ」
俺は服の下に隠していた首にかかる鎖を手繰り寄せた。そして、その先端についている物を見せる。右半分に欠けたハートマークが切り抜かれたペンダント。彼女とペアルックだ。愛は自分の胸の上で揺れるペンダントを、俺が首から下げているペンダントと隣合わせにした。
「一つになった。君と私と」
「そうだな、一つだ」
俺たちの絆が、一つ増えた。今までは目に見えないものだけだったけど、今度は目で見ても分かる物に。俺と愛は自らの中にある『愛』の深さを再確認する。そしてこの『愛』が千切れないように、少し早いが永遠の『愛』を誓った。
帰り道。
「今日は楽しかった。ありがとう」
愛が言う。電車内で揺られながら、俺と愛はドアのところにある手すりに掴まり、空いた手を繋いで話していた。電車内にアナウンスがかかる。次の駅は俺の降りる駅だ。本当は彼女を送っていきたかったが、彼女は「お父さんと帰りを合わせる」と言って辞退してきた。愛の家は父子家庭だ。俺の家と違って仲の良い親子関係らしい。微笑ましい限りだ。
「あぁ、またな」
俺はさっきより少し強く、愛の手を握った。離れたくない。だが、今日はもう満足だ。愛の満ち足りた笑顔が見れたから。それだけで、俺の心は温かい。
電車がホームに到着した。ドアが開き、人が降りていく。俺はいつも大体の人が降りてから電車を降りる。だからいつも通りのタイミングで今日も降りた。するりと、俺の手と愛の手が離れて、温もりが霧散する。俺は振り返り、愛を見た。愛は、とても可愛らしい笑顔を浮かべて俺を見返した。そして、小さく手を振る。
「バイバイ」
いつも通りの挨拶だ。笑顔と一緒に、俺へ向ける言葉。俺は『バイバイ』と言う言葉はあまり好きではない。しかし愛はそれを知らないから、その言葉を使う。笑顔とセットで使うから、まだいい方だ。暗い顔で『バイバイ』なんて言われたら、切り捨てられた気がして、悲しくなる。
しかし今日は、その言葉だけではなかった。ドアが閉まろうとしたその時、愛はもう一言、別れの言葉を付け足した。
「愛してる」
ドアが閉まる。愛は笑顔のまま、電車の中で揺られていた。俺はその姿に、笑顔で手を振った。愛が言ってくれたように、心の中で一言呟く。
――俺も、君を愛してる。
愛がそうしてくれたように、俺も彼女の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
愛の姿を見たのは、これが最後になった。
「……お客さん、お客さん」
ガタンゴトンと心地良い音の連鎖の中に、それを乱す声が追加される。気持ちよく眠っていたというのに、一体誰だよ。
「お客さん」
しつこい声の主に負け、俺は瞳を開けて目の前を見る。そこには中年と思われる男が、駅員の制服を着て立っていた。
「なんですか……?」
俺は快眠を邪魔した恨みを少し込めながら、不機嫌に言い放つ。いつも乗ってる電車じゃ、よっぽどの事がない限り起こされたりしない。ここは終点なのか? いや違う。電車は相変わらず快調に走っている。一体何事なのだろう。
「お客さん、切符を拝見してもよろしいですか?」
「切符? えぇっと……」
俺はポケットに手を入れて切符を探す。しかし、この電車に乗る前のあの朽ち果てたホームを思い出した。切符など買っていない。
「すみません。切符、持ってないです」
焦りながら、電車内で異例の返答をした。さすがにこれじゃ怒られるよな。この区間はいくらですか、と訊こうと思って財布を取り出そうとする。しかしその動作をしている途中で、目の前の人物は問い掛けてきた。
「お客さん。すみませんが、どちらの駅から乗られたか教えていただけますか?」
「え? ……えっと、りんてん駅、ってところだったかと……」
「輪転駅?」
目の前にいる車掌らしき人物は、俺の言った駅名に首を傾げて考え込んだ。目深に被った帽子のせいで表情が見えない。しまった、名前を間違えたか? 違うかも、と言おうとした瞬間、車掌はまたもや口を開いた。
「お客さんまさか、生きていらっしゃいます?」
「は?」
何を言うんだ、このおっさんは。まるで生きててはならないかのような口ぶりで、車掌ははっきりと言った。俺は驚いたが、車掌は俺の様子を見る事なくブツブツと独り言を言う。
「何故人間が……何故……」
「あの、ちょっと」
「困ったな……どうして……」
「ちょっと聞いてください!」
未だ独りで呟く車掌に、俺は声を張り上げた。車掌はようやく俺の方を見る。
「何なんですか、一体! あんたも人間でしょう? 生きてるんじゃないんですか?!」
俺の叫びを聞いて、車掌はぽかんと口を開けていた。クソ、そんな顔したいのは俺の方だって。車掌はまた考え込むような仕草をしてから、俺に向かって言った。
「この電車は、幽霊電車なのですよ」
俺の背筋に、冷たい氷が這っていったような感覚がした。
読了ありがとうございます。今日は更新が遅くてすみません……。感想等、お待ちしています。
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